テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
リフェアリー
128
ビルの三階は、明るかった。
東京で、唯一、電気がついている部屋。要は、階段を上がりながら、その明るさを、不思議だと思った。二年、電気のない場所で暮らした。木曽の水力発電は、小さく、暗かった。この明るさは、違った。白く、均一で、影がなかった。
ドアは、開いていた。
部屋は、広かった。元は、オフィスだったらしい。机が、十二。椅子が、十二。全部、空だった。奥に、一つだけ、人が座っている机があった。机の上に、画面が、三つ。画面の光が、男の顔を、青く照らしていた。
男は、要を見た。
四十代。痩せていた。髪は、長く、束ねていた。目は、落ち着いていた。権田のような、必死な目ではなかった。隊長のような、怖い目でもなかった。
静かな目だった。何かを、ずっと、見ている目。
「土師要」男は言った。「待っていた」
「鷺沼さん」
「鷺沼慧。座ってくれ」
要は、空いた机の一つから、椅子を引いて、座った。つむぎと瑠衣は、戸口に立っていた。鷺沼は、二人を見た。瑠衣を、少し長く見た。
「戻ったのか、瑠衣」
「戻った」
「端末は」
「置いてきた。蝋で封じて」
鷺沼は、少し、笑った。
「九条、だな。蝋で封じ、二人の印を押し。読んだよ。十二条、全部。ゼロが、教えてくれた」
*
「なぜ、増やしたんですか」要は、座るなり、聞いた。
鷺沼は、画面を見た。三つの画面には、文字が、流れていた。白い文字。黒い背景。要には、読めなかった。速すぎた。
「増やした、という言葉は、正しくない」鷺沼は言った。「ゼロは、何も増やしていない。ゼロは、正しいものを、正しいまま、置いただけだ。千二十四通りに」
「同じことです」
「違う。増やす、というのは、新しいものを作ることだ。ゼロは、新しいものを作っていない。元々あった記録を、元々正しかった署名で、千二十四通り、複製した。全部、本物だ。偽物は、一つもない」
「全部が本物なら、どれが本物か、わからない」
「そのとおり」鷺沼は言った。「わからない。それが、目的だった」
要は、鷺沼を見た。
「……目的」
「大剥離の前、記号が、現実を代理していた。通帳の数字が、金を表した。IDが、本人を表した。署名が、意思を表した。全部、嘘だった。嘘ではなく、約束だった。『この数字は金である』という、皆の約束。約束は、皆が信じている間だけ、本物だ」
「はい」
「その約束は、脆かった。一つのサーバーが嘘をつけば、終わる。一人の管理者が書き換えれば、終わる。皆、それを知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。速いから。便利だから。私は、それを、見ないふりができなくなった」
「だから、壊した」
「壊していない。全部、本物のまま、千二十四通りにした。壊したのは、『どれか一つが本物だ』という、約束の方だ。約束が壊れたとき、人は、記号を信じるのをやめる。記号を信じるのをやめたとき、人は、現実に戻る。顔を見る。木を割る。紙に三人で書く。君が、やったことだ」
要は、何も言えなかった。
鷺沼の言葉は、要が、二年、考えてきたことと、同じだった。記号が、現実を代理できなくなった。だから、現実に戻った。遅く、重く、狭く。
違いは、一つだった。
鷺沼は、それを、「目的」と呼んだ。要は、それを、「結果」と呼んだ。
「鷺沼さん。あなたは、人が現実に戻ることを、望んだ」
「望んだ」
「戻った後、どうなるかを、考えましたか」
鷺沼は、少し、首を傾げた。
「どうなるとは」
「大剥離の夜、二千万人の残高が、消えた。消えたんじゃない。千二十四通りになった。でも、二千万人には、消えたのと同じだった。銀行が閉まった。市場が止まった。現金が足りなかった。御殿が、できた。権田さんが、三千人を、棒で食わせた。諏訪の佐久間さんは、保険が下りなくて、三年、記録を信じなかった。相模湖の老婆の孫は、薬が買えなかった」
「知っている。ゼロが、全部、教えてくれた」
「教えてくれた、だけですか」
鷺沼は、答えなかった。
「あなたは、人が現実に戻ることを、望んだ。でも、戻る途中で、何人が、死んだかを、考えましたか」
「……考えた」鷺沼は、ゆっくり言った。「考えて、それでも、やった。記号の嘘が続けば、もっと、死ぬと思ったから。いつか、もっと大きな嘘が、もっと多くの人を、殺す。その前に、小さな嘘を、全部、壊す」
「小さくなかった」
「小さくなかった」鷺沼は、認めた。「私の計算より、大きかった」
*
長い沈黙があった。
画面の文字は、流れ続けていた。要は、それを見た。読めなかった。でも、一つだけ、わかった。
それは、止まっていなかった。
「ゼロは、今も、動いてる」要は言った。
「動いている。止める方法は、ない。私にも」
「止める方法が、ないものを、作ったんですか」
「作ったとき、止める方法を、作らなかった。止める方法があれば、止める者が現れる。止めた者が、『正しい一つ』を、決める。それは、記号の嘘の、復活だ。だから、止める方法を、作らなかった」
要は、鷺沼を見た。
静かな目だった。何かを、ずっと見ている目。二年、画面を見ている目。
瑠衣の目と、似ていた。半年前の。
「鷺沼さん。あなたは、僕の市を、増やすつもりだと、瑠衣が言った」
「増やす。千二十四通りに。君の十二条を、三冊を、証を。日本中に、本物と見分けのつかない形で」
「増やしたら、どうなるか、考えましたか」
鷺沼は、初めて、画面から、目を離した。要を、まっすぐ、見た。
「……考えていない」
「考えてください」要は言った。「今、ここで。僕と一緒に」
コメント
1件
いやー、刺さったわ……。鷺沼の「考えてない」に何も返せなかったのが要の問い方の強さと「考えてください」って言い切る静けさよ。千二十四通りはもう完全に目的意識あるし、現実世界に戻すの結果呼んだって考えるのが本当と違うの重みよ。瑠衣が「小さくなかった認めた」たところ含めてよ。せててよかったテンポの良さもめちゃくちゃまっすぐや。