◻︎疑い
配車係とはいっても、小さな運送会社だったので、たまに経理も手伝うことがあった。燃料代や高速代の支払いも、管理することがあった。
でもそれは、きちんとマニュアルに従ってのこと。
元々、お金に関することはしっかりしておかないと気が済まない性格だった。
ある日、社長に呼び出された。
社長は、あの男、若社長のお父さん。
コンコンコン
「失礼します」
「あ、入って」
社長室には、経理専門の人も来ていた。
「君にちょっと聞きたいことがあってね」
「あの、なんでしょうか?」
私はきっと、若社長との関係を聞かれると思った。
まだ離婚は成立していないから誰にも内緒だと口止めされていたけど、なんとなく噂になっていることは知っていた。
どこかで誰かに見られたりしないようにと思って、細心の注意を払うようにしてたのに。
「松下さんに確認したいことがあってね」
経理専門の男性が、話し出す。
「えっと、なんでしょうか…?」
「まぁ、ここに座って」
ソファに腰掛けるのに、震えてしまう。
まだ質問の内容もわからないのに、なんだか追い詰められていくような雰囲気に、飲み込まれそうになる。
「最近、経理の仕事も手伝ってくれてるよね?」
「はい、簡単な領収書の確認と立て替えの支払いをしてます」
「これをちょっと見てくれる?」
テーブルに並べられた、何枚かの領収書を見た。
見覚えのある字は、私の字だけれど…
「あれ?」
ふと何枚かの領収書に目が止まった。
枚数にしたら全体の三分の一ほど、金額だとおそらく30万円くらいか?
「これ、違うような?」
「でも、君のサインとハンコがあるよね?」
「ありますけど…」
心臓がバクバクしてきた。
「私が書いたものでは、ない…と思います」
やっとのことで言葉を出す。
「ホントに?よく見て?」
経理の男性に言われて、手に取り見比べてみる。
違う、斜めに傾けたりして私のクセに似せてはあるけど、数字の形というか全体的に比べると私の字ではない。
「はい、私ではありません」
「じゃあ、ハンコは?」
「ハンコ?ハンコは…同じかもしれません…」
私のハンコは、市販されているものだけど、縁が少しだけ欠けていて特徴がある。
市販の物を買っても、同じものはないと思う。
ということは、私のものということだ。
「そのハンコ、今はどこに?」
「持ち歩いています、いつも。会社に置きっぱなしにしたりしていません!」
なんとなく質問の意図が見えてきた。
きっと、お金の出入りに不審な点があって、そのことの確認に私が呼ばれたのだ。
私が着服していないか、不正を働いていないか?という疑いをかけられているのだ。
現にこうして、私の名前とハンコが記載されている怪しい領収書を並べられている。
「誰にもハンコを触らせてない?」
「はい、いつもポーチの中に入れて、バッグに入れてあるので……あ…」
私のバッグを触ることができる人がいた、でもまさか…
「なにか、思い当たることでも?」
「え、いえ、あの、どこかで落としたりしたことあったのかも?とか思ってしまって…」
「よく思い出してみてくれないかな?」
社長は何も言わない。
ただじっと事の成り行きを見ている。
経理の男性に問い詰められて、狼狽していく私をじっと観察しているようにも見えた。
思い当たることはあっても、言えない。
証拠があるわけでもないし、そんなことは信じたくない。
「……」
私はそれから先を言うことができなかった。
信じられないから、信じたくないから。
まさか若社長が?なんて。
「そうですか。とにかく、こっちの領収書については松下《まつした》さんではないということだね?」
「…はい、字も違いますし、記憶もありません。ハンコのことはわかりませんが」
「わかりました、ではこれはこちらで調べてみます」
経理の男性がテーブルに散らばった領収書を、二つに分けてまとめているのを、じっと見ていた。
「もう一つ、私から確認したいことがあるんだが…」
そこまで黙っていた社長が口を開いた。
「は、はい、なんでしょう?」
「君は付き合っている男性は、いるのかな?」
きた!
「います、学生の時からで同級生です」
「同級生か、じゃあもう長いんだね」
「はい、あの、もう少ししたら結婚しようかと話しているところで…」
いつか会社の誰かに疑われたら、こう返事をすることを決めていた。
仮想の彼氏には、高校時代に付き合った彼を仕立て上げて、なるべく淀みなくこたえられるように準備をしていた。
「そうか。じゃあ、もうすぐ寿退社ということだね?」
「え?あ、まぁ…はい…」
「いい家庭を築けるように祈ってるよ、その婚約者にもよろしく伝えて」
「は、はい、ありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げた。
どうしてか、彼氏が婚約者になってしまったけど。
でもこれで、若社長とのことはうまく誤魔化せたと安心した。
よかった。
「あのね…」
いつものデート。
いつものラブホテル。
愛して愛されて、タバコに火をつける若社長。
「ん?」
「この前、経理専門の人と社長に呼び出されたの…」
「洋子ちゃん、なにかしでかしたの?」
眠たそうにめんどくさそうに、答える若社長。
「ううん、なにも。ただ、領収書と伝票と金額が合わなかったみたいで…」
「ふーん…」
「で、私のね…」
どうしようか?
ハンコのことを確認したいけど、それを言ってしまうとこの人を疑っていることになるし、そうすると嫌われてしまうかもしれない。
私の話には興味なさそうに、ふぁーあとあくびをする男。
「ごめん、疲れたからちょっと寝かして」
「あ…うん…」
「洋子ちゃんのそばは、よく寝れるからね」
そう言って私の頭をクシャッとした。
私はなにも言えなくなってしまう。
「うん、おやすみなさい。時間になったら起こすから」
それ以上は何も言えないまま、時間だけが過ぎていく。
スヤスヤと眠る男の寝顔を見ている。
まさか、ね。
でも、他に誰が?
頭の中でクルクル回る疑いの気持ち。
でも、疑って確かめて嫌われたくないと思う気持ちとがせめぎあっている。
社長室に呼ばれたあの日から、なんとなく社内でのみんなが私を見る目が変わった気がする。
遠巻きに何か陰口を言われているようでもあり、同情されてるようでもあり、複雑で居心地が悪い。
経理の仕事の手伝いは、あの日からやっていない。
ハンコは家に置いてある。
1時間ほど過ぎた。
男を起こさないように少し距離を置いて、ずっと考えていた。
「あの…そろそろ、時間ですよ、帰らないと…」
「ん?んー…わかった」
ふぁーと欠伸をしながら、服を寄せ集めている。
帰りのシャワーは浴びないらしい、奥さんに疑われたくないからとか。
靴下を履いて、シャツを着て…
「あのね…私、いつも持ち歩いてた仕事用のハンコ、なくしちゃったみたいで…」
「は?なに?」
「ハンコをなくして、でも領収書や伝票には私のハンコがあって…」
「何が言いたいの?」
あきらかに苛立っているのがわかる。
「ハンコがどうしたの?」
「私のハンコ、あなた、知りませんか?」
「なに?経理に呼ばれたって、自分のミスじゃないのかよ?」
「ち、違います、知らない間に私のハンコが使われてて、その、だから…」
ガタン!と立ち上がる男。
「はっきり言えよ、俺がお前のハンコを悪用して金を出したとか疑ってるんだろ?」
「ご、ごめんなさい、あの、そんな疑うとかじゃなくて、その…もしかしたら何か知ってるかも?とか…」
「あーぁ、もう!そうだよ、俺だよ、俺がやりました!これでいいのか!」
「え…?そんな…」
あまりのことに声が出ない。
「あのさ、経理のやつ、俺にも聞いてきたよ、でも俺は知らないってとぼけたから。あれ以上俺には何も言えないはずだからね、あいつもクビになりたくないだろうし」
「……」
「そろそろ、肩を叩かれるはずだから、よろしくねっ!使い込みの洋子ちゃん」
タバコとライターを無造作に背広のポケットに詰め込むのを、ぼんやりと見ていた。
えっと、今の話はなに?
意味がわからないんだけど?
「じゃ、俺は先に出るからあとはよろしく!バイバーイ」
後ろ向きで片手を上げてバイバイしている男。
バイバイ?え?なんで?
私の頭の中で、パリンと何かが割れた音がした。
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