第十六話:桃色の料理番と、恋の種火
正妻・玉藻との「大儀式」を経て、朧月の社は清浄な輝きを取り戻した。宿の結界はかつてないほど強固になり、その霊力の波動は隠り世の隅々にまで届いたのだろう。主を失い、死に体だった「朧月館」が息を吹き返したことを悟り、かつてここを去った下働きのあやかしたちが、呼び寄せられるように次々と姿を現し始めていた。
廊下には慌ただしくも懐かしい足音が響く。影女が障子を拭き、天井なめが梁を清める。宿に活気が戻りつつあるのは明白だったが、真の意味で客を迎え入れる準備が整ったとは言い難かった。宿の生命線とも言える「食」の場――厨房が、未だに凍てついたままだったからだ。
「……あ、あの。……やっと、帰ってこれたみたいです」
厨房の入り口で、もじもじと足先で床を突く影があった。暖簾をくぐって現れたのは、白い晒を胸元に硬く巻き、その上に淡い桃色の着物を羽織った、くりくりとした大きな瞳の美少女「一花」だ。
彼女は火の中に棲むとされる「火鼠」の血を引くあやかしである。かつて朧月館の料理長として、八百万の神々をも唸らせる包丁捌きを見せていた伝説の料理人。その頭上には、感情に合わせてぴこぴこと動く愛らしいネズミ耳があり、飴色の長い髪が厨房の僅かな光を反射していた。
「一花、おかえりなさい。さあ、こちらが新たな宿のあるじ様ですよ」
玉藻が優しく促すと、一花は身の丈ほどもある巨大な出刃包丁を、まるで宝物のように大切そうに抱え、顔を真っ赤にして僕を見上げた。
「えっ、あ……う、噂には聞いてたけど……。本当に、三色の角があるんだぁ……。……すっごく、綺麗……」
「一花、無礼ですよ。あるじ様に挨拶を」
玉藻にたしなめられ、一花は慌ててペコりと頭を下げる。耳が恥ずかしそうに伏せられているが、その瞳には料理人としての譲れない「こだわり」が静かに燃えていた。
「……あ、あの! あるじ様……。私、ずっと待ってたんです。この死んじゃった竈に、もう一度『命の火』を灯してくれる人を。火鼠の血を引く私でも、この宿の竈だけは、私の力じゃ足りないんです。あるじ様の霊力を薪にして、熱い想いを種火にした……『三色の火』がないと、あやかしたちを幸せにするご飯は作れないんです」
一花は僕の前に歩み寄り、震える手で僕の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「あるじ様……。私、もう一度ここで包丁を振るいたい。……お願いです、この竈に、火を灯してくれませんか? 私、一生懸命、世界で一番美味しいご飯を作るから……! 旦那様のために、最高のおもてなしをするから……っ!」
その健気な訴えを拒む理由などなかった。僕は竈の前に立ち、冷え切った石の焚き口に手を触れる。数十年の間、一度も温まったことのない石の冷たさが、掌を通じて芯まで伝わってくる。
「……任せて。一花のために、最高の火をプレゼントするよ」
角に意識を集中させる。朱、黄金、銀白。三色の霊力を、一花という少女の再出発を祝う情熱と共に練り上げた。背後から玉藻が肩に手を置き、お凛が腰にしがみつき、小雪が過熱を制御する。四人の想いが角で一つに混ざり合い、臨界点を超えた。
「灯れッ……!!」
ドォォォォォンッ!!
竈の奥から、三色の美しい炎が噴き出した。赤く燃え盛りながら、黄金の火花を散らし、銀白の清らかな煙を立ち昇らせる。それは温かな「命の光」そのものだった。
「……わぁ、……きれい……。あったかくて、……とっても優しい火……。あぁ、竈が喜んでる……!」
一花は目を輝かせ、その炎をうっとりと見つめた。彼女はすぐに包丁を握り直すと、軽やかなステップを踏むように食材を捌き、鍋に放り込む。瞬く間に、厨房には腹の底から幸福感が湧き上がるような、芳醇な香りが満ち溢れた。
「ありがとうございます、あるじ様! ……ううん、私の『旦那様』! この火、一生大切にするね!」
宴が終わった深夜。活気を取り戻した厨房の片隅で、一花は指をもじもじさせながら僕を待っていた。
「……火を灯してくれたお礼……。……受け取って、くれますか?」
彼女は晒を解き、しなやかでいて柔らかそうな肉体を露わにした。その肌は火鼠の性質ゆえか、ほんのりと上気したように桜色に染まっている。
「私……ずっと探してたの。私の芯を、心の底から温めてくれる火を。旦那様がくれた火が、あんまり情熱的だったから……私の中の火も、消えないくらい熱くなっちゃって……」
一花は僕の胸にそっと顔を埋めると、僕の手を取り、自身の高鳴る胸へと導いた。
「旦那様……。竈だけじゃなくて、私の中にも……その三色の熱を、いっぱい注いでほしいの。……旦那様の熱で、私を……とろとろに煮込んで……あぅっ……」
彼女とのまぐわいは、驚くほど純粋で、ひたむきなものだった。僕が動くたびに、彼女の頭の耳がぴこぴこと跳ね、「ひゃぅっ……」と愛らしい声を上げる。彼女は僕のすべてを包み込もうと、必死に、そして一生懸命にしがみついてくる。一花の肌からは、甘い花の香りと、炊きたてのご飯のような、どこか安らぐ妖気が立ち上っていた。
「あ、ああぁっ……旦那様……! 旦那様ぁっ……! すっごく、熱いよ……っ。……私、旦那様の愛で、溶けちゃいそう……!」
絶頂の瞬間、一花の叫びと共に厨房の火はさらに眩しく輝き、一生消えることのない「王の絆」へと昇華した。事後、一花は僕の胸にぴったりと寄り添い、幸せそうに微笑んでいた。
「……明日からも、旦那様のために心を込めてご飯作るね。……だから、夜は……また私を温めてね?」
だが、厨房の暗がりからは、そんな一花を「じーっ」と見つめる三つの視線があった。玉藻、お凛、小雪。宿の復興は着実に進むが、僕を巡る愛執の戦場には、また一人、守ってあげたくなるような「可愛い料理番」が加わったのである。






