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温泉旅館に着いたのは、夕方だった。
木の匂いがする廊下、柔らかい照明、外から聞こえる川の音。
「部屋、ええ感じやな」
まろがそう言いながら障子を開ける。
その横で、ないこは小さく頷くだけだった。
温泉旅行。
ただそれだけの言葉なのに、胸の奥が落ち着かない。
(……温泉、か)
着替えの浴衣を手に取る指が、少しだけ震える。
一緒に来たのに、何を意識しているのか、自分でもわからない。
「先、俺入ってくるけど……無理せんでええからな」
そう言われて、ほっとしたような、
少しだけ残念なような気持ちになる。
「……うん」
まろが部屋を出ていくと、静けさが戻る。
深呼吸をしてから、ゆっくり浴衣に袖を通した。
鏡に映る自分は、いつもと変わらないはずなのに、 どこか落ち着かない顔をしている。
(……なんで、こんな)
しばらくして、まろが戻ってくる。
髪が少し濡れていて、湯気の名残みたいな温かさをまとっていた。
「次、ないこ行く?」
その一言で、心臓が跳ねた。
「……行く」
短く答えて、立ち上がる。
すれ違いざま、ほんの少しだけ距離が近くなる。
触れていないのに、
触れたみたいに、胸がうるさくなる。
温泉から戻ったあと、
二人は並んで座り、湯上がりの水を飲んでいた。
「のぼせてない?」
「……大丈夫」
そう言いながらも、ないこの耳は少し赤い。
「顔、赤いで」
からかうような声に、ないこは視線を逸らす。
「…暑いだけ」
その答えに、何も言わず、ただ笑った。
「…まろ、少し…膝を貸して欲しいですっ..」
「….ええよ」
まろはそう言って、少しだけ体の向きを変えた。
大げさな動きはしない。ただ、自然に。
ないこは一瞬迷ってから、そっと身を寄せる。
膝に額が触れた瞬間、ふわりと安心したように力が抜けた。
「……ごめん」
小さな声。
謝る必要なんてないのに、癖みたいに口をついて出た言葉。
「謝らんでええって」
膝の上に乗せられたないこの体は、ほんのり熱を帯びている。
その温度に、まろは気づいていたけれど、何も言わなかった。
「あったかい」
ないこが、ぽつりと呟く。
「せやろ」
それだけ返して、まろは動かない。
撫でることもしない。
離れることもしない。
その「何もしなさ」が、
ないこにはひどく優しく感じられた。
しばらくすると、ないこの呼吸がゆっくりになる。
「……まろ」
「ん?」
「…ちょっとだけ、くらくらする」
「そっか」
まろはようやく、そっとないこの肩に手を添えた。
支えるだけ。抱き寄せるほど強くはない。
「倒れそうになったら、ちゃんと捕まえるから」
その言葉に、ないこは小さく頷く。
「ありがとう」
その一言は、
いつもより少しだけ、素直だった。
顔を上げると、目が合いそうになって、
ないこは慌てて視線を逸らす。
「やっぱり、赤い?」
「……うん。赤い」
からかうでもなく、
ただ事実を言うみたいに、まろは答えた。
「でもな」
一拍置いて、続ける。
「嫌な赤さちゃう」
ないこは返事ができず、
そのまま、また額を膝に預けた。
胸の奥が、静かにうるさい。
でも、怖くはない。
のぼせたせいか、
それとも感情のせいか。
どちらかは、まだわからないままだ