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私の隣にいる今、何を思っているのかと、北川の横顔を窺い見る。さほど酔った風には見えない。総務課の二次会に言ったはずだが、解散するにはまだ早い時間のような気がする。
表情から私の疑問を察したらしく、北川は苦笑を見せる。
「今野さんがだいぶ酔ってしまって、それで早々にお開きになったんです」
「なるほど……」
会話の様子から、私たちが知り合いであることに気がついたらしい。清水が身を乗り出して北川に話しかける。
「碧ちゃんとは、会社関係のお知り合いなんですか?」
北川は私をちらりと見てから笑顔で答える。
「えぇ、同僚なんです、同じ課の。私は北川と言います。よろしくお願いします。まだ名刺がなくて、お渡しできなくてすみません」
「いえいえ、お気遣いなく。そっか、碧ちゃんの同僚さんなんですね。俺は清水です。彼女とは飲み友達で、仲良くしてもらってるんですよ。ね、碧ちゃん」
急に相槌を求められて焦る。
「え?あぁ、そうなんです」
「笹本さんは、このお店には一人でよく来るんですか?」
北川に穏やかな声で訊ねられ、私は固い声で答える。
「そうですね。ここは居心地がいいので」
「ねぇ、池上さん、北川さんとはどういう知り合い?やっぱ、店関係とか?」
「俺が前にいた店に、よく来てくれていたんだ。もう何年も顔を見てなかったから、俺のことなんか忘れたのかと思ってたんだけどね。また会えて嬉しいよ」
「ごぶさたしちゃって、本当にすみませんでした」
北川が申し訳なさそうに池上に頭を下げる。
「だけど、よく俺って分かりましたね」
「そこは客商売だからね。俺、人の顔って忘れないんだよ。それを言うなら拓真君だって」
「俺も同じです。記憶力がいい方なので」
北川は池上に答えながら、意味あり気に私をちらりと見た。
その視線の意味を察した私は、気まずくなって自分の手元に目を落とす。
北川は話し続ける。
「大学を卒業してから、こっちを離れてたんですよ。だから、池上さんがこのお店を開いたっていう話も知らなくて。少し前に用があってこっちに戻って来た時に、池上さんが前にいたお店に行ってみたんです。その時になって初めて、ここを開いたことを知った次第で……。長年不義理をしてしまいました」
「いやいや、こうやってまた来てくれたんだ。ありがたいって思ってるよ。――それで、拓真君は今、碧ちゃんと同じ会社で働いているのか」
「えぇ。同じ課にいて、笹本さんには色々と教えてもらってます。同僚というよりは先輩かな。彼女、とてもしっかりしていて、頼りがいがあるんですよ」
「そうなんだ。なんにしても、これを機にぜひまた来てもらえたら嬉しいよ。今度は碧ちゃんとでも一緒においで」
「はい、また来ます。笹本さん、その時はぜひ付き合ってくださいね」
北川は笑みを浮かべて私を見た。
その笑顔にどきどきしてしまう。
それまで黙っていた清水が私と北川をしげしげと見て、意味ありげに笑う。
「俺、お邪魔みたいだから帰ろうっと」
「えっ?それなら私も帰ります」
「碧ちゃんはもっとゆっくりしていきなよ」
「いえ、もう十分ゆっくりしたから」
北川の隣でゆっくりなどできるわけがない。
「それに、もう酔っぱらってるから、帰ります」
「そうなのか?それなら途中まで一緒にタクシーで帰ろう」
「私は自分でタクシー拾いますから、清水さんこそゆっくりしていってください」
「いや、俺も今夜は帰るよ。池上さん、碧ちゃんの分と一緒にお会計よろしく。碧ちゃんは出さなくていいからね」
「だめですよ、そんなの」
「いいからここは任せて」
言いながら清水は財布を取り出し、池上にお金を渡した。
自分の分として私は紙幣を差し出したが、清水は受け取ってくれない。
「いつも自分で払うって言ってるのに。池上さんも、受け取らないでくれればいいのに……」
「碧ちゃんの飲み代なんて、俺と比べたら微々たるもんなんだからいいんだよ。それじゃあ、北川さん、俺たち先に失礼しますんで。どうぞごゆっくり」
清水は北川に笑いかけ、すっと席を立って私を促す。
「行こうか」
「は、はい」
私は慌てて立ち上がり、清水の後を追おうとして足を止めた。清水を私の彼氏であると、北川が変な誤解をしていなければいいが、と気を回す。しかし、北川がそんな誤解をするわけがないと思い直し、私は固い笑顔で彼に会釈する。
「お先に失礼します」
「えぇ。また明日会社で」
北川と目が合った。名残惜しそうな顔をしていると思ったのは私の願望か、あるいは目の錯覚だったろうか。
「気をつけて。おやすみなさい」
彼の優しい声に胸の奥が切なく疼く。その気持ちを気づかれまいとして、私は彼に背を向けて店の外に出た。
清水が階段手前の手すりに寄りかかり、私を待っていた。私の顔を見るなりこんなことを言う。
「本当は、もう少し北川さんと一緒にいたかったんじゃないの?」
「な、何を言い出すのかと思えば!毎日会社で会う人ですよ」
「ふぅん?北川さんの方は、碧ちゃんともうちょっと一緒にいたいって顔、してたけど」
「それはないと思います」
「そうかなぁ。碧ちゃんと親しげな俺のこと、『なんだこいつは』って顔で見てたぜ」
「気のせいですよ」
私は呆れ顔で肩をすくめた。
「それより、早くタクシー拾いましょ」
彼の先に立って大通りに出る。ちょうど空車のタクシーが走ってきた。
「グッドタイミングだな」
私たちはタクシーに乗り込み、それぞれに行き先をドライバーに告げた。
車に揺られながら、北川と池上の会話を思い出していた。だいぶ端折られた内容ではあったが、そこから北川の過去に思いを巡らせる。
私の知らないその数年間、彼はどんな時を、どんな人たちと過ごしていたのだろう。そして、どんな女性と出会ったのだろう。私との別れをずっと引きずっていたような口ぶりだったが、彼に恋人が一人もいなかったという意味ではないはずだ。
「前に進みたい」と言っていたのは、私がそうだったように、彼もまた新しい恋に向かって足を踏み出そうとしているからだろうか。そんな想像をしたら、胸がひりひりと痛んだ。