Side康二
「……もうええわ。知らん」
言ったあとすぐ後悔した。けど、もう背中を向けた相手は何も言わずに歩き去っていった。
夕焼けに染まる下校の校門前。制服のシャツがふわっと風に揺れて、後ろ姿がやけに遠く感じた。
俺が勝手に怒って、勝手に泣きそうになって。
でも、あんな言い方せんでもええやんか。
──「だったら別れれば?」
あの一言、ほんまに刺さった。
――――――――
「……で?またケンカしたの?」
「なんで俺が怒ってるかわかってへんねんて。しかもあっちは“何が?”って顔やで?」
屋上の隅っこ、昼休み。ふっかさんが持ってきたコンビニパンをもそもそ食べながら、俺の話を聞いてくれてた。
その隣ではラウも麦茶のパック吸いながら、口をとがらせてる。
「また“歩くスパコン”してたんじゃないの?考えてるのに言葉足りないやつ~」
「それな。あいつさ、感情より先にロジックで動くやん」
「わかってるよ。わかってるけどさぁ……俺がどれだけ、近くにいたくて、ついて行こうとしてるかとか、気づいてくれてへん気がして」
俺の声が少しだけ震えてたのに、ふたりとも何も言わずにいてくれた。
「ちゃんと、好きって言ってんの?」
ラウの言葉に、俺はうつむく。
「……言ってる。でも、あいつ返してくれへん。“わかってる”って言うだけ」
「それ、きついなぁ……」
ふっかさんの声が妙に優しくて、泣きそうになった。
「俺は、あいつの“好き”がほしいだけやのに」
風が強く吹いた。夏が終わりかけの、あのちょっと寂しい風やった。
「──あのさ」
ラウが少し真面目な顔で俺を見た。
「好きって、伝えてる方がいつも強いわけじゃないと思うんだよね。伝えるから、弱くなるときもあるじゃん」
「ラウ……」
「でも康二くんは、それやってるんでしょ?だったら、俺らがついてるし。めめのことも、ちゃんとぶっ叩いておくから」
「物理はやめてな?」
「……精神的にね」
ふっかさんが笑って、ラウも吹き出した。俺もつられて、少しだけ口角が上がった。
ほんまに、助かるわ、このふたり。
でも、あいつは──あいつだけは、俺の“味方”でいてくれるんと違うんかなって思ってたんやけどな。
その夜。
メッセージの返信は、来なかった。
昨日の夜、何度スマホの画面を見直したか数えきれへん。
“既読”の文字がついたまま、ずっと沈黙を守るあの名前。
なんかあったんかなって心配もした。
でも、SNSには普通に浮上してて。……ストーリーも更新されてて。
……そっちには反応すんのに、俺には何もないんや。
**
「おはよ~……」
教室に入った瞬間、目が合いかけたけど、そっぽ向かれた。
それだけで、胸んとこズキッて痛なった。
俺、昨日なにかした?
いや、してない。むしろなんもされてない。
──無視、されてるだけや。
今日一日、同じ空間におるのに、言葉ひとつ交わさず終わった。
なんかもう、ほんましんどい。
**
昼休み、体育館裏。
「で、どしたの?また未読スルー?」
「違う。昨日は既読ついてた。でも返信はなし」
ふっかさんとラウが顔を見合わせて、露骨に「またか」って顔する。
「それ、ほぼ喧嘩じゃん……ってか、めめ、そっけないのはわざとじゃないよね?」
「いや、あれはわざとや」
「マジで?」
俺は無言でうなずいた。
あの目、あの態度──「察して」って圧だけ出して、肝心な気持ちは見せへん。
俺ばっか、追いかけてる気ぃしてくんねん。
「康二くんは、何て送ったの?」
「『明日、朝から一緒に行こ?』って。帰りにちょっとギクシャクしてたから、フォローのつもりで」
「優しいじゃん。それでスルーって、めめ何考えてんだろ」
ラウの声がちょっと怒ってるようで、なんか救われた。
「康二、がんばってるよ。目黒の方が子どもだって、ちゃんとわかってる」
ふっかさんの声が、沁みた。
溜息交じりに教室に戻ろうとした時照兄とさっくんと阿部ちゃんと…めめの姿が見えた。
悪い事している訳じゃないのになぜか隠れてしまう自分。
「お前、康二に冷たくしすぎじゃね?」
「……別に、俺なんもしてないけど」
「それが“してる”ってことだよ」
低い声で指摘する照兄。
その隣では、さっくんが思いっきり心配そうな顔で覗き込む。
「ねぇ、めめ、康二泣いてない?大丈夫?今日すっごいしょんぼりしてたよ?」
「……知らない」
「おーい、逃げんなー」
阿部ちゃんがため息まじりに苦笑してる。
「言葉足りないの、今に始まったことじゃないけどさ、今回はちょっと酷いぞ」
「わかってるけど……」
ぽつりと呟いたその言葉に、3人は黙り込んだ。
その傍らではしょっぴーと舘さんが
「俺らは、見守っとこうな」
「うん。あいつら、自力で戻る力もってるから」
「でもさ、もしも──ほんとに壊れそうになったら?」
「そのときは、ちゃんと俺らが止めるよ」
二人のそんな会話が聞こえた。
やさしいけど、どこか冷静な声。
俺達の距離は、確かに近くて、でも今は──遠かった。
――――――――――
リュックを床に投げて、ベッドに倒れ込む。
顔をうずめたまま、深く息を吐いた。
「……疲れた」
今日一日、言葉も交わされへんかった。
目が合っても、すぐに逸らされる。
席が近いはずやのに、あの人だけ何メートルも遠く感じた。
スマホを取り出して、LINEを開く。
やっぱり、返信は来てへん。
画面には、昨日のまま──“既読”の文字がぽつんとあるだけ。
ふと、思い出す。
付き合い立てのあの頃。
たしか、あっちから言ってきたんや。
「俺、お前のこと好きかもしれない」
教室の裏階段。夕方で、影が長くのびてた。
はじめて聞いたあの低い声。
いつもクールなくせに、あのときだけは目が泳いでて──
……可愛かった。
「返事は、ゆっくりでいいから」
って言ってくれて、でも俺はすぐに笑ってうなずいたんや。
“ゆっくり”なんて待たせたら、損やと思った。
「俺も、めっちゃ好きやで」
そしたら、少しだけはにかんで、
でもそのあとすぐ「うるさい」って言って頭ぐしゃぐしゃにされた。
あの手が、
あの温度が、
まだ、ここに残ってる気がするのに──
**
「……なんで、やろな」
声に出したら、涙がぽた、と落ちた。
好きって言ってくれへん。
既読はつくのに、無視される。
目が合わへん。
名前も呼んでくれへん。
好きになってもらえて、幸せやったはずやのに。
いつの間に、こんなに苦しくなったんやろ。
スマホをもう一度見た。
通知は、何もない。
スクリーンを伏せて、タオルケットをかぶる。
静かな部屋に、自分の呼吸音だけが響いた。
──好きな人からの返信がないって、
どうして、こんなに心が寒いんやろ。
**
そしてその夜もまた、連絡は来ないまま──。
――――――――――――
「……おはようございます」
いつもの教室、いつもの朝。
だけど、ひとり──足りひん。
無意識にドアを開けてすぐ、そっちの席を見てしまった。
……やっぱり、来てへん。
昨日から一言も口をきいてない。
でも、朝には会えるって思ってた。
だって、“おはよう”さえ言えへんまま、終わるとか、さみしすぎるやんか。
席について、スマホをそっと確認する。
画面には通知なし。LINEも、未返信のまま。
「おーい、着席ー。HR始めるぞー」
担任の声に、全体がざわつきながらも椅子に座る。
俺も、半分ぼんやりしたまま前を向いた。
「えー、ちょっと連絡がある。昨日、同じ学年の目黒が……下校中、階段から足を踏み外して、怪我をしてしまった。今は入院しているそうだ」
……え?
「幸い命に別状はないが、頭を打ってるため、しばらく入院になるとのことだ。みんなも気をつけるように」
教室が一瞬、静まり返った。
「……え……?」
声にならへん声が、喉の奥から漏れる。
めめが、事故?
階段から──落ちた?
頭、打って──今、病院……?
心臓が、ドクンと跳ねた。
言葉が、理解できてるのに、受け止めきれへん。
昨日の夜、連絡が来なかった理由。
今日、学校にいなかった理由。
あの“既読”のあと、なにも返ってこなかった理由。
全部が、急につながった気がして、
それと同時に、息ができひんほど胸が苦しくなった。
「康二くん……」
横からふっかさんが小さく声をかけてきた。
ラウも心配そうにこっちを見てる。
でも俺、目の前がぐにゃって歪んで、
何も返せへんかった。
**
昨日、なんであんなこと言ってしもたんやろ。
もっとちゃんと、
会って、話して、
“好き”って伝えてたら──
俺、なにしてたんやろ。
たった今、その人が“ここにいない”って聞いただけで、
世界がごっそり抜け落ちたみたいやった。
――――――――――
制服のまま、気づいたら校門を飛び出していた。
ふっかさんが何か言ってくれてた気がするけど、もう耳に入らへんかった。
走る。
とにかく、走った。
膝が痛くても、息が切れても、止まりたくなかった。
止まったら、泣いてしまいそうで。
止まったら、全部が終わってしまいそうで。
(ごめんな……)
心の中で、何度もそうつぶやいてた。
今までのことが、走るたびに浮かんでくる。
好きやのに、意地張ってしまって。
寂しいのに、強がって笑って。
わかってほしくて、責めるような言い方ばっかしてた。
返事がそっけなかっただけで、拗ねて。
言葉が足りなかっただけで、怒って。
自分の気持ちばっか押しつけてた。
ほんまは、全部伝える勇気がなかっただけやのに。
「……なんで、気づかれへんかったんやろ……」
信号待ちで思わず立ち止まって、声に出た。
風が吹いて、汗ばんだ額に張りついた髪が揺れた。
(あんなこと言わなければ、もしかしたら──)
(返信、ちゃんと来てたかもしれへんのに)
胸の奥がギュッと締めつけられる。
もし、もう二度とあの人の声が聞けへんかったら。
もし──
(──あかん)
ぶるぶると頭を振った。
悪い想像が全部現実になりそうで、怖くてたまらんかった。
(会えたら、ちゃんと謝ろ)
(ちゃんと、“俺が悪かった”って言う)
(何が欲しいとか、もうええ)
(ただ──もう一度だけ、笑ってほしい)
「めめ……」
呼びかけるように名前を呟いた。
その瞬間、涙がこぼれそうになって、でも手でぬぐった。
走るスピードを、また少しだけ上げた。
信じたい。
たとえ記憶がなくなってても、気持ちだけはきっと届くと──
そう信じるしか、今の俺にはできひんかった。
病院の看板が、視界に入った瞬間。
胸が、また強く鳴った。
──もうすぐ、会える。
でも、“いつものめめ”じゃないかもしれへん。
それでもいい。
また、ちゃんと始められるなら──
(好きやねん。俺、やっぱ……めめが、好きや)
その気持ちだけを胸に、俺は病室のある階へと、階段を駆け上がった──。
無我夢中で受付を抜け、看護師さんの声にもまともに返事できずに病室の前にたどり着いた。
ドアには見慣れた名前が書かれたネームプレート。
(おる……)
ごくりと喉を鳴らし、震える指でノブを回す。
ゆっくりと開いた扉の向こう。
白いカーテン越しに、小さな音がした。
「……めめ……?」
カーテンをそっとめくると、そこにいたのは──
ベッドに横たわり、頭に白い包帯を巻いた彼やった。
薄く眉をしかめて、視線だけで天井を見つめている。
「……よかった、生きてる……」
思わず、声が漏れた。
安堵と、涙と、ほっとした気持ちと、ぜんぶが一気に押し寄せて、俺はベッドのすぐそばまで駆け寄った。
「大丈夫?どこか痛いとこある?……あ、でも、頭打ったんやっけ、てかほんまびっくりして……!」
言葉が止まらんかった。
とにかく、めっちゃ心配して、めっちゃ会いたくて、ここまで走ってきた。
けど。
そのとき、不意に──
「……ねぇ」
小さく低い声が降ってきた。
「……あんた、誰?」
康二の腕を、めめが掴んでた。
その手は熱がなくて、指先が少しだけ冷たかった。
「……え?」
動けなかった。
言葉が、まったく出てこなかった。
その目が、まるで“初対面”を見るような、無表情で──
康二のことを、まったく知らない人を見るように、まっすぐに問いかけていた。
「どうして泣いてんの?俺、あんたに何かした?」
(……うそやろ……)
耳の奥がキーンと鳴った。
視界が少し、ぐらりと揺れた。
さっきまで、めめに会えることだけを希望に走ってきた。
「会えたら全部元に戻る」って、信じて疑わへんかった。
──けど、
この人は俺のことを、何も覚えてない。
俺の腕を掴む指が、そっと離された。
「ごめん……知らない人が急に近づいてきて、びっくりした」
静かにそう言った彼の声は、優しすぎて──
だからこそ、余計に胸に刺さった。
俺はただ、唇を噛んで、動けずにいた。
俺はただ、唇を噛んで、動けずにいた。
目の前のめめが、まるで知らない人を見てるみたいな目して。
俺のこと、何も思い出してくれへんまま。
……嘘であってほしかった。
でもその声も、表情も、全部ほんまやった。
どうしていいかわからんまま、ただ立ち尽くしてたそのとき──
「め、目黒くんっ!」
勢いよく病室のドアが開いて、誰かが駆け込んできた。
茶色い巻き髪。パステルピンクのカーディガン。
リップの色、ちょっと濃い。見覚えのない顔。
「大丈夫?怪我って聞いて……すぐ来たの。もうほんと心配して──」
息を切らしながら、そいつはベッドに近づいてった。
俺のことなんか見向きもせず、めめの手をぎゅっと握る。
めめは困ったように眉をひそめて、ぽつりと言った。
「あのさ……あんたも誰?」
その瞬間、俺は息をのんだ。
“も”って──つまり、俺と同じように、この子のことも覚えてへんってことやんな?
でも、次の言葉が、最悪やった。
「……私だよ。あなたの彼女。安藤咲」
時間が、止まった気がした。
……“彼女”?
俺の頭の中で、がらがらがらって何かが音を立てて崩れていった。
立ってるのに、足元がふわふわして、呼吸の仕方すらわからん。
「ちょっと、誰なのこの人?知り合い?」
咲って名乗ったその子が、俺のほうをちらっと見て言う。
“知り合い”って。
“この人”って。
めめの視線も、そのままや。
俺がどれだけここまで来たかも知らずに──ただ、静かに俺を見てた。
頭が真っ白になった。
泣くとかじゃない。怒るとかでもない。
心が、音も立てずに冷たく沈んでいく感覚やった。
(……俺、なにしてんねやろ)
(ここ、俺のいる場所ちゃうやん)
目の前が、ぐらぐら揺れて、
俺は、そのまま真っ暗な世界に引きずり込まれるみたいやった──。
病室を出た瞬間、足の感覚がふっと消えた気がした。
ふらり、と身体が傾ぐ。
壁に手をついて、どうにか立ってるだけ。
呼吸が浅くて、胸の奥がじんじんと痛む。
(……あかん。これ、夢やったらええのに)
まだ、めめの「……あんた、誰?」って声が耳に残ってる。
その隣で、初対面の女の子が「彼女」って名乗った声も──
全部、消えてくれへん。
目の前で起きた出来事やのに、現実やって思いたくなかった。
(でも、ほんまに……もう、終わってんねやろな)
廊下の白い光がやけに眩しくて、何度もまばたきした。
(……俺が、恋人やったのに)
(隣におったの、俺やったのに)
でも今、めめの隣に立ってたのは“俺”やなくて、あの子やった。
俺のことを覚えてへんめめは、
その子の手を振り払うこともせんかった。
混乱はしてたけど、拒絶はしてへんかった。
そういうのが、全部──しんどかった。
足が重たくて、進むのがやっとやった。
でも立ち止まったら、そこで崩れそうで。
ただ、前だけ見て、必死に歩いた。
(……そやな。もともと、無理があったんや)
(男同士で付き合うなんて──夢みたいなもんやったんや)
俺らは、“普通”じゃなかった。
誰にも言えんかったし、バレたらどうなるかって、いつも怯えてた。
めめも、ずっと表に出すのを怖がってた。
「好き」って口にしてくれへんかったのも、きっとそういうことやろ。
それでも俺は、
“それでもええ”って思ってたのに。
今、何にも残ってへん。
俺のことも、
俺らの時間も、
全部“なかったこと”になってる。
エレベーターのボタンに手を伸ばしながら、
胸の奥がひやっと冷たくなってく。
──めめが笑ってた顔。
──「うるさい」って照れながら言ってくれた声。
あんなに好きになった人の記憶が、
自分だけのものになってしまうなんて。
(もう……あかん)
俺はひとり、病院を後にした。
誰にも気づかれず、
誰にも呼び止められずに──
心だけが、ぽっかりと抜け落ちたまま。
―――――――――――
Side目黒
まぶたの裏に、ぼんやりした白が広がっていた。
じんわりと頭が重くて、身体がベッドに沈み込んでるような感覚。
瞼をゆっくり持ち上げると、目に飛び込んできたのは白い天井。
ほんの少し消毒液の匂いが鼻をついた。
……病院?
気づけば、腕に点滴が刺さっていて、頭には包帯。
呼吸の音すら遠くに感じる。
何があったんだろう、と思うより前に、
「何がなかったのか」が先に浮かんだ。
何も……思い出せない。
「めめ……!目ぇ覚めた?」
声が聞こえて、視線を向けると数人がベッドの周囲に集まっていた。
見覚えが──ない。
でも、みんな俺のことを心配そうに見ている。
誰?
……なんでこんなに、俺のことを知ってる?
「大丈夫?わかる?」
「無理しないで。今、お医者さん来てるから」
ああ、そっか。医者?
白衣を着た男が俺のベッド脇に立って、静かに言った。
「目黒さん。あなたは頭部を強く打っていて、今は“部分性健忘症”という状態です。記憶の一部が抜け落ちている可能性がありますが、時間とともに戻ることもあります。焦らず、ゆっくりで大丈夫です」
“部分性健忘症”。
どこかのニュースで聞いたことがあるような、でもそれも曖昧だった。
俺は何も言わずに、ただうなずいた。
頭がぼんやりしていて、みんなの声も少し遠い。
だけど──その中に、
ひとりだけ。
なぜか、目が離せない“誰か”がいた。
無表情だった。
まるで、ここにいるのが当たり前じゃないみたいに、
すべてを諦めたような、そんな顔で俺を見てた。
目が合った瞬間──なぜか、胸の奥がちくりとした。
知ってるはずがないのに、
何か、大事なことを忘れてるような、妙な引っかかりがそこにあった。
……この人は。
誰なんだろう。
俺の、何だったんだろう。
でも、喉が動かなかった。
声をかけようとしても、言葉にならなかった。
頭の奥に霧がかかったみたいに、何も掴めない。
医師は何か説明を続けていた。
聞いてるふりはしてたけど、耳にはほとんど届いてこなかった。
ずっと、さっきの“無表情の彼”のことだけが、頭から離れなかった。
なのに俺は──
何も言わず、
何も聞かず、
ただ黙ってベッドに横たわっていた。
まるで俺だけ、ここにいないみたいな感覚。
でも、胸のどこかだけが痛い。
何も覚えてないはずなのに、
なんで、あの人だけが──こんなに引っかかるんだろう。
そしてその静けさの中で、
言葉のない時間だけが、重たく流れていった。
――――――――――
退院当日の朝、病室の窓から見える空はやけに青かった。
入院してから何日経ったのか、正確にはもう覚えてない。
思い出そうとしても、そこには相変わらず何もない。
カレンダーの数字と、医者の説明と、周りの人の言葉だけが“今”を教えてくれる。
「目黒くん、退院おめでとう。じゃ、手続きこっちね」
看護師さんが明るく言ってくれるのに、俺は曖昧にうなずくしかなかった。
まだ頭の奥が重たい。
痛みはほとんどないけど、それよりもっと厄介な“違和感”がずっと消えない。
まるで、自分が自分じゃないまま社会に戻るような、そんな感覚。
ベッドを片付けていると──
「おまたせ!」
ぱたぱたと駆け寄ってきたのは、咲。
明るい色のワンピースに、小さなショルダーバッグ。
にこにこと笑って、俺の隣に立った。
「来ちゃった。ひとりで退院なんて寂しいでしょ?彼女として、当然の務めです!」
冗談っぽく言いながら俺の荷物を半分ひょいと持ち上げる。
俺は、作り笑いすら返せなかった。
「……ありがと」
口から出た声は、誰かのものみたいやった。
彼女、らしい。
医者からは「記憶が戻るまで、信頼できる人と過ごしてください」と言われてる。
咲は、その“信頼できる人”というポジションを、自然と担っていた。
毎日見舞いに来てくれた。
俺が何も覚えてないことを責めなかった。
付き合ってた頃の話をいくつもしてくれた。
それでも──
「なんか、変だな……」
そんなふうに思うことが、何度もあった。
“この人と一緒にいた”っていう感覚が、一度も湧いてこない。
言葉も、距離感も、触れられたときの感触も。
全部、初対面みたいにぎこちないのに、それを上手く誤魔化すのが下手すぎる自分が、余計におかしく思える。
でも俺は、咲が言うとおりに動いてた。
荷物を持ち、着替えを済ませ、退院の用紙にサインをして──
「じゃ、行こ?」
差し出された手を、俺は一瞬だけ見つめた。
掴んでも、何も思い出せない気がした。
でも、掴まなきゃ前に進めない気もした。
「……うん」
軽くうなずいて、その手を取った。
静かに、違和感だけを胸に抱えながら。
―――――――――
「はい、プリントこっちもあるよ。こっちは保健の先生からの分。無理して見なくても、あとで私まとめとくから」
昼休みの教室。
俺の机の上にどんどん紙が積み重なっていく。
「飲み物はこれで大丈夫?ストローさしたほうがいい?」
「……うん、大丈夫」
笑顔で世話を焼いてくれる咲に、俺はぎこちなく笑い返す。
周りのやつらも、何となく気を使ってるのがわかる。
怪我明けの俺をチラチラ見ながら、遠巻きにするようにして。
机の上は整っていて、教科書もちゃんとそろってる。
プリントには俺の名前が代筆されていて、休んでいた間の記録も完璧だった。
それでも──
胸の奥にずっと残る、この“他人の家にいるような居心地の悪さ”は、なんだろう。
隣の席でにこにこしている咲。
明るくて、優しくて、声も柔らかい。
でも俺は、この人とどうやって付き合ってたのか、いまだに一片も思い出されへん。
ほんとに一緒にいたんだろうか。
“俺の彼女”って名乗ってくれた人のはずなのに、
そばにいられると、むしろ遠く感じる。
記憶がないから、なのか。
それとも──記憶が戻ったら、もっと遠くなるのか。
窓の外をぼんやりと眺めていると、ふと視界の端に誰かの姿が見えた。
廊下を歩いて、教室の前を通りかかる男子。
うつむいていて、表情は見えなかった。
でも、一瞬だけ顔を上げたとき、目が合った。ような気がした。
……この人。
名前も知らない。
どんな関係だったのかも、もちろんわからない。
でも──
(……病室に、来てくれた)
なぜか、それだけは確かだった。
話もしてない。
思い出もない。
なのに、目が合った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
……懐かしい。
そんなはずないのに、
初めて会った人のはずやのに、
“ずっと前から知っていた”ような気がした。
どこか、懐かしい気がした。
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