テラーノベル
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昔、司は神様と一緒に暮らしていたことがある。
ある日突然現れた神様は、スケートを教えてやると言った。自分が持っている知恵も技術も、衣食住すら与えてやると。
まるで夢のような話に司は二つ返事で頷いた。ずっとやりたかったスケートを思いきり出来る。しかもずっと憧れていたひとに教えてもらえるのだ。これ以上の幸福はない。
ただ、その恩恵を得るには条件があった。それはずっと金メダルを獲り続け、神様と同じような存在になり続けること。
司は必死に神様から学んだことを実践した。辛くなかったといえば嘘になる。その御業を網膜に焼き付け脳と身体に叩き込み、あらゆる大会で金色を取り続けるのは大変困難であった。
だが約束とは守るものだ。どんなに苦しくとも氷の上で滑り続け、神様に頭を撫でられる度に安堵した。授業中に寝てしまうなど学校生活に支障が出ても、それはきっと試練なのだとテストもそれなりの成績を取り続ける。帰るのは家族のもとではなく神様の家だ。実家にはたくさんの兄弟がいる。スケートだけの生活が送れないのは司にも分かっていたので、両親の許可を貰って神様と一緒に暮らしていた。
約二年。そんな生活は続いた。そしてその間、司は一番を守り続けたのだ。
けれど、いろんな不調が重なった日があって。
その日初めて、司は銅色のメダルを手にした。
「もう終わりだね」
獲れなかった色の眼が、司を一瞥して去っていく。
それが、神様から与えられた最後の言葉だった。
久しぶりにあの頃の夢を見た。昔の思い出。幸せだったあの日々は、司の胸のずっと奥にしまってある。一等きれいな宝石箱にたくさんの鍵をかけて。
銅メダルを取った後、司はすぐに世話になっていた家に戻った。私物を回収して実家に帰るためである。大会の後に彼が友人と会う約束があるのを知っていたのだ。何せ当時は彼のスケジュール管理を司がしていたので。
歯ブラシや洗い場に置いていたタオルなど全てをカバンに詰め込み、買ってもらったマグカップなどはそのままにする。お金を出したのは彼だ。所有権は自分にはない。
そしてテーブルの上に置きっぱなしだった彼の携帯を操作する。あの人が携帯を忘れて出かけるのはもう何回目のことだっただろうか。何度も注意したのだが、司のがあるからいいだろうと聞いてくれなかった。そのお陰で、今こうして司の実家の住所と電話番号を消せているのだから皮肉なものだ。
何かあった時の連絡先として、念のためにと司が無理矢理登録していた。結局一度も使われることはなかったけれど。
全部消し終わった後、司が持っていた携帯も横に置く。両親から支給されたものとは別に、彼と話すためだけに与えられたものだ。スケートを通じて知り合った友人たちのアドレスを登録することさえ許されていなかった。
だから、これを置いていけばもう彼との連絡手段はなくなる。
でもそれでいいのだ。
約束を果たせなかった愚か者のことなど、彼の頭にはもういないだろうから。
預かっていた合鍵も一緒に並べてメモを置いた。そこにはこれまでの感謝と、約束を守れなかったことへの謝罪を書き連ねてある。本当は直接会って伝えたかったけれど、下手すれば名前すら忘れられている可能性もあった。それくらい、彼は興味がないことに対して冷酷なのだ。
玄関で靴を履く。振り返って室内を見渡した。
もうここで「いってきます」も「おかえりなさい」も言うことはない。最初来た時に部屋があまりにも殺風景で、それがまるで彼の心の中のように思えたのを今でも覚えている。それから司が必要なものを買ってもらい、一緒に生活をしていくうちにたくさんのものが増えた。電化製品ひとつひとつに思い出がある。
それらと一緒に、買ってもらったスケート靴も、作ってもらった衣装も置いていく。与えてもらった物の全てを返さなければならないから。
「……今までありがとうございました」
スケートを教えてもらった後にしていたように、深く深く頭を下げて。
そうして司は帰る場所だったところに別れを告げた。
あの後はそれなりに大変だったな、と夢の続きを思い出して苦笑する。いきなり実家に帰ったものだから、家族を驚かせてしまった。特に弟たちは今までいなかった兄が突然現れて困惑したのだろう。血の繋がった他人のような距離感は縮まらず、今でもあまり連絡を取っていない。そもそも連絡先の交換すらしていなかった。
あれからもうスケートをしないつもりだったのに、体に染みついたものはなかなか取れない。結局我慢できなくなって、いろんなスケート場に足を運んでは靴をレンタルして滑っていた。
あれほど跳んでいたジャンプはもう跳べない。跳ぼうとすると金の瞳を思い出してしまって必ず失敗してしまうのだ。自分では何とも思っていないつもりでも、切り捨てられたことはしっかりとトラウマになっているらしかった。
そんな司に偶然再会した匠が声をかけてくれて、彼の娘の瞳とアイスダンスの選手になって、結局失敗して。彼と決別してから色々なことがあったけれど、今は結束いのりのコーチとして生きている。
過去に後悔は一切ない。司が今いのりのコーチをやれているのも全て彼がスケートを教えてくれたお陰だ。司はこれから一生をかけて彼女と共に歩んでいく。
さて、今日は待ちに待った名港杯当日だ。昔の夢を見た日には何かが起きる。良いことも悪いことも。しかしきっと、今日は良いことだけが起こるに違いない。
水の音がする。顔が濡れているのを感じて、その音の発生源が自分だと知った。この香ばしい匂いは間違いなく麦茶だ。顔面にかけられている。そしてそんなことをするのは間違いなく。
「いのりさん……」
「司先生ぇ……」
不安げな声に複雑な気分になる。記憶が正しければいのりは誰かに麦茶を浴びせていた。それを止めるために駆け寄ったのだが、滑って転んでそこから何も覚えていない。後で必ずいのりに注意しなければ。いつか本当に死人が出そうだ。
麦茶はもう降ってこない。霞む視界を瞬きして明確にしていく。司を見下ろしているのは小さな影と大きな影。恐らく大きい方はいのりが最初に麦茶をかけていた相手だろう。まずは謝罪をしないと。
体を起こして目を擦る。そこでようやくはっきり見えた人に、司は思わず息をのんだ。
見間違えるわけがない。
夜鷹純。彼こそが、司の人生を変えた神様だった。
あの頃よりも細くなった気がする。煙草の臭いも強い。司といた時に一度止めたはずなのに再開してしまったようだ。
「起きたね」
苛立っていると声色で分かる。いのりに麦茶を浴びせられたからではない。言葉足らずで大変分かりにくいが、なんだかんだ子どもには優しいのだ。
家族を思って眠れなかった日からずっと一緒に寝てくれたし、成長痛で苦しんだ際には片時も離れず痛むところを摩ってくれた。不器用だけどとても優しい人だ。
ただし、スケートに関しては例外だったが。
とにもかくにも司には分かる。これは司に対しての憤りだ。
思い当たるのは勝手に出て行ったことだろうか。やはり置手紙ではなく直接伝えるべきだった。二年もの間、良い夢を見させてもらったのに。
「っ、先生、あの」
「何をしてるの、司」
遮ったのは氷のように冷え切った声音だった。まだ名前を覚えられている。そのことに驚きながらも、恐る恐る彼と視線を重ねて瞠目する。
まるで捕食者のような鋭さを持って司を睨みつけていた。
「勝手に離れて、それでも氷の上にいるならまだよかったのに。なんでこんな無駄なことをしてるの?」
勝手に離れたのは確かだが、それが最初に交わした契約だったはずだ。金メダルを獲れなかったらもう教えない。そう告げたのは間違いなく夜鷹だった。離別は決して一方的なものではない。そもそも教え子でなくなった司に何の意味があるのだろう。
違う。今考えるべき箇所はそこじゃない。
無駄なこととは何を指している。
ふと、隣でしゃがむいのりの様子に違和感を覚えた。潤んだ瞳を右往左往させて、唇を震わせている。
「……いのりさん?」
名前を呼ぶとはっと司を見上げた。しかしきゅっと唇を噛みしめて、すぐに目を伏せてしまう。
もしや、司が気絶している間に何かいのりに言ったのか。彼女が小さくなって震えるようなことを。
いや、そんなわけがない。夜鷹はそんなに冷たい人ではないはずだ。
「何か、言ったんですか」
念のため、確認のために尋ねる。そんなことあるわけないと頭では分かっているのに警鐘が止まらない。
彼は何事もなかったかのように淡々と言った。
「光に勝てる日なんて一生来ない。そんな君がどうして司といるのか分からない。そう言った」
血の気が引いた。しかしすぐに体中を高温が駆け巡る。やはり狼嵜のコーチは夜鷹なのだとか、何故司が共にいてはいけないのだとかはどうでもいい。些細なことだ。
「ふざけるな!」
問題なのはただ一つ。あの夜鷹純が、オリンピックの金メダリストが、いのりに向かって最低な言葉をぶつけた。それだけで司の怒りが頂点に達するには充分だ。
抱いていた信仰なんて吹っ飛ぶほどに。
いのりを引き寄せて抱きしめる。これ以上彼の眼下に収めておくのはあまりにかわいそうだ。ふたつの拳にシャツが強く引っ張られる。
途端、眉を顰めた夜鷹は咎めるような視線をこちらに向けた。臆することはない。そんな場合ではない。負けじときつく睨みつける。
「俺は貴方に師事してもらいながら、金メダルを獲れなかった出来損ないです。でもいのりさんは違う。いのりさんは間違いなくメダリストになる」
何故ならいのりは夜鷹と同じだから。二年という短いようで長い間、共にいたからこそ分かる。彼女が氷に抱く執念は間違いなく彼に似ていた。氷の上でしか生きられないと理解しているからこその煌めきと強さ。そしてそんな彼女が折れないよう護ることが司の役目だ。
「俺は、いのりさんのために生きていきます。俺の一生をかけて貴方に勝ち、必ずいのりさんを世界で一番険しく美しい場所に連れていく」
これは宣戦布告だ。司にとって夜鷹はもう神ではない。たった一言、されど一言。彼は司の地雷を踏んだ。
「貴方は昔から不器用で、言葉が足りないことがよくあった。今もそれは変わらないようですが、どうしたって絶対に言ってはいけないことがある」
そう吐き捨てて司はいのりを抱き上げる。もう彼に用はない。早くここから去らなければ。これ以上夜鷹に何か言われていのりが傷付くのは許せない。スケートに支障が出たらいのりはもっと悲しむだろう。
いのりの母も心配しているに違いない。傍にあった荷物を忘れずに回収し、ついでに自分のタオルで床を拭いた。誰かが転ばないよう丁寧に。
そうやってすぐに離れなかったのがいけなかったのか。
「……躾が甘かったみたいだ」
呟かれたにしては明確に聞こえた重低音に心臓が跳ねる。そんな声が出るなんて知らない。何よりこの重圧。頭が床に叩きつけられるような感覚だ。思わずいのりの頭を胸元に押し付ける。
怖気づくなと仰ぎ見た夜鷹の顔には憤怒と落胆、そして。
「好きにすればいい。どうせ何も変わらない」
ほんの少しの悲哀が入り混じっているように見えたのは気のせいだろうか。
去っていく彼の後姿を見つめていると、胸の奥にある宝箱が軋む音が聞こえてきた。それが何の予兆なのか、司もまだ分からない。
靴を脱ぎ捨てる。腕に何かがぶつかり落ちた。気にすることなく進んでいく。
コートを脱いでソファに引っ掛け腰を下ろす。テーブルの上に置きっぱなしの煙草を取って火を点けた。棚引く煙を見上げながら白い息を吐く。
最低な気分だった。ようやく会えたのに、気分は高揚するどころか急落下した。
司が消えた夜。明かりの消えた部屋を久しぶりに見た。てっきり寝ているのかと思い寝室を見てもいない。友人と遊んでいるのだろうか。ポケットを探して携帯を忘れていたことに気付く。どうせテーブルの上だろうと行けば司の携帯も並んでいた。
共に置いてあったメモに書かれた内容を、一度も忘れたことがない。
追い出すつもりはなかった。ただもうスケートを教えるつもりはなかっただけ。後は慎一郎に引き継いでおしまい。だが師弟でなくなっても離れることは全く考えていなかった。
明浦路司は夜鷹純にとって、もう自分の一部になっていたから。
どうして離れたのか、その理由が全く分からなかった。だって司も同じはずなのに。
探そうとしなかったのはいつか帰ってくると思っていたからだ。どうせ司はスケートから離れられない。そういう風に育てた。
だから家はそのままにしておいた。家電はすべて司が選んだものだ。あの電子レンジは今どき珍しいターンテーブルなのだとか、掃除機はなるべく静かなものを選んだのだとか。ひとつひとつ覚えている。
しかしどれだけ待っても帰ってこない。時が経つにつれて苛立ちが増し、何度もそれらに八つ当たりをした。とうの昔に使えなくなったそれらは、未だに部屋を圧迫している。
そろそろ捨てるかと業者を呼ぼうとした矢先、アイスダンスに出場している彼を見つけた。
それだけで心が晴れていく。その瞬間他のことはもうどうでもよくなった。知らないうちに体が大きく成長していたことは腹が立ったが、自分好みのスケーティングは相変わらずだ。司がいるスケートリンクは太陽を反射するように異様なほど輝いて見える。
戻ってきたならいい。後は家に帰ってくればそれで。
だが彼はその一度きりで氷上から姿を消した。
心底わけが分からない。思わずエアコンのリモコンを壁に投げつけたくらいだ。
しかも今はあの娘のコーチをやっていると言う。あんなつまらない、未来のない少女の。
思い出して鼻で嗤った。司を独り占めするなどなんて烏滸がましい。あれはとっくに夜鷹純だけのものなのに。子ども相手に冷たく言ったつもりはないが威嚇した自覚はある。
煙を深く吸い込んで、思い切り吐き出す。
「反抗期くらい好きにさせてやるさ」
どうせ何も変わらない。
あの少女がどう足掻いても光に一生敵わないように。
司もまた、彼の根源そのものである自分に敵うわけがないのだ。
昔返した合鍵を再び持つ事になるとは思わなかった。不思議なこともあるものだ。
司はエレベーターの中でぼんやり思い出す。
こうなったきっかけはとある大会の会場で、倒れた夜鷹を助けたことだった。慌てて抱き起こすと心配になるほど軽い。意識がなく急いで救護室に向かうと栄養失調だと診断された。
彼は食べ物が嫌いだ。元々好き嫌いは激しかったらしいが、現役の頃の無理な食事制限をしていたのが何よりの原因だと聞く。一緒に住んでいた頃は司が作ったものを少しずつ食べるようになって、一日一食は完食出来ていたのだ。監視する者がいなくなりまた元に戻ってしまったのだろう。
好きな食べ物が何一つない彼にとって食事は苦痛だ。煙草ばかり呑んでいては健康に悪いのに。道理で体が細いわけだ。
とはいえ、今の司には何も出来ることはない。気を失ったままの夜鷹を医者に任せて、鴗鳥に連絡をする。彼が今住んでいる家も知らないし、そもそも入る資格もない。こうして倒れてしまったなら流石に夜鷹自身がどうにかするだろう。もういい大人なのだし。
それに再会した際に言葉を交わして分かった。もうお互いあまり関らない方がいい。特にスケートのことになると理想や価値観が違いすぎる。一緒にいた間は意見の相違などなかったが、離れたことで知らないうちに司が変わったのだろう。良い意味でも悪い意味でも。
だから鴗鳥にその場で待っていてほしいと請われても断った。スープから始めてみても良いと思います、なんて昔のことを思い出しながらアドバイスはしたけれど。
そうしたらなんと、翌日のことだ。瞳から夜鷹に会うようお願いされてしまった。どうやら匠経由らしい。あの人が妻と娘以外のことを案じるなんてあるのだろうか。驚いていると瞳が溜息をつきながら教えてくれた。
夜鷹を鴗鳥が大変心配しているらしい。そしてそんな夫を妻であるエイヴァが嫉妬しつつも案じており、家庭内で少々不和が起こりかけているのだそうだ。それを見かねた周囲の人々があれこれ動いた結果、匠へと繋がり瞳に連絡してきたという。
「もう強制的に病院に入れちゃった方がよくないですか?」
「司くん……昔それで病院のナースたちが群がってまずい事になったの知らないの?」
「まあ……知ってますけど……」
そういうわけで渋々鴗鳥に連絡すると、彼はとても安堵した様子で夜鷹の住まいを教えてくれた。その住所は以前司が住んでいた場所と全く同じ。
あれから引っ越していない事に吃驚したが、何よりも衝撃だったのは家具が一切変わっていなかったことだ。室内は荒れていたし家電類はほとんど使えなくなっていたものの、配置すらもそのままである。
鴗鳥から連絡がいっていたのだろう。家主は拒むことなく司を受け入れた。
「おかえり」
煙草を吹かせて微笑んで。
先日あったことなどすっかり忘れたように言ってくるものだから、思わず司は呆れてしまった。彼にとってはあの諍いは本当に些細なことなのだ。幼い子どもが駄々をこねていただけ。そんな扱いなのだろう。
それから二人で約束をした。
まず、最低でも週に二回は夜鷹の家を訪ねること。当初は週に一度の予定だったが、そもそも夜鷹は司がこの家で暮らすものだと思っていたらしい。不機嫌をあらわにして「は?」と短い文句を言ってきた。しかし司は今加護家で世話になっており、雇われている身でもある。恩を仇で返せない。そう伝えると「僕にはしたくせに」と睨まれた。した覚えがない。返すと眉を顰めて「週二」との言葉を頂いた。
次に、この件でかかるお金は全て夜鷹が払うこと。これは単純に司の懐の問題である。本当なら世話になった二年間のお返しに全部こちらで負担したかった。念のため持って行った通帳を見せて伝えると憐れんだのだろう。無言で頷かれたどころか、家に帰って財布を見たら万札が数枚突っ込まれていた。怖すぎて返そうとしたら次は倍の数が入れられていたので、諦めて頂くことにしている。何より素直に受け取ると大変上機嫌になるのだ。思えば夜鷹は昔から司に何かを与えるのが好きだった。弟子に奢ることが好きなのだろう。狼嵜にも同じようなことをしているのかもしれない。
最後に、スケートの話をしないこと。もちろん夜鷹は猛反対だったが、司が絶対に折れなかった。スケートの話をすれば絶対に意見が割れ、最悪二度と交わらない可能性がある。そうなったらもう夜鷹の家に来ることが辛くなるに違いない。それは嫌だと伝えると、彼の表情は完全に無になった。この顔の時は何を言っても無駄なので口を閉じる。冷汗が嫌なくらい流れていたがこれだけは譲れない。
煙草一本、無言で吸い終わった頃。徐に立ち上がった夜鷹が引き出しから何か取り出して投げてきた。キャッチするとベロア生地の小さな箱だ。促されて開けてみる。中にあったのはシルバーのペアリングだった。片方には黄色の石が、もう片方には黒の石が埋め込まれている。
「それ着けて。左の薬指」
「え」
「司のは黒い方だから。外さないで。そしたら約束してあげる」
そういうことで、現在司の左薬指には彼とお揃いの指輪が填まっている。まるで意味が分からない。とはいえそれさえすれば夜鷹は約束を守ってくれるので、司も約束通り肌身離さず身に着けていた。
エレベーターが止まる。数歩歩くと目的地だ。合鍵を使って中に入る。真っ暗だ。まだ家主は戻っていないらしい。恐らく光に指導をしているのだろう。開けっ放しのカーテンに溜息を落とす。部屋が冷えるから必ず閉めて行けと言っているのに聞かないのだ。
月明りを遮るようにカーテンを閉めて電気を点ける。家電は全て新しいものに変えてもらった。ほとんどが使えなくなっていたので、夜鷹を電気屋に連れて行ったのだ。一つ一つじっくり選んで決めたので丸一日使ってしまい申し訳なかった。夜行性の彼にはきつかっただろう。まるで昔の仲に戻ったように楽しくてついはしゃいでしまった。
さて。今日はオニオンスープを作るのだ。出来れば具も食べてほしいが高望みはしない。
夜鷹のカードを使って買った食材を出して調理器具の確認をしていく。それらは棚に入っていたからか、夜鷹の被害には合わず今でも使える。そういえば何故カードの暗証番号が司の誕生日なのだろうか。教えてもらったときに聞いたのだが「さあね」とはぐらかされてしまったのだ。
必要なものを取り出しているとドアが開く音がした。どうやら帰ってきたらしい。足が冷えるといけないからと、用意したスリッパを履いてくれている。お陰で軽い足音が近づいてくるのが分かった。
この家を出るとき、もう二度と言わないと思っていた声を響かせた。
「おかえりなさい」
そう言うと、家主は目尻を下げて「ただいま」と歌うので。
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