次の日、元貴が大学から家に帰って来た。僕は深夜シフトだったので、家に帰った時には、二人とも寝ていた。
蓮くんによると、元貴は今日、ちゃんと大学に行ったそうだ。玄関にある元貴の靴を見て、ホッと安心して、これはどっちの安堵なのかと、ふと考えた。
元貴が帰って来てくれて、良かった。
でも、顔を合わせなくて、良かった。
そのどちらも本当の気持ちで、僕は仕事で疲れた身体を引き摺りながら、お風呂へと向かった。
早朝、なんだかよく眠れず目が覚めてしまった僕は、そうっと布団を出て、キッチンへと向かう。
そういえば、最近なんだかんだと忙しくて、全然レシピ開発が出来ていなかったな。
でも、それよりもまずは二人のお弁当を作らないと。
そう考えて、手が止まる。元貴は、まだお弁当、食べてくれるかな…。僕のことを、きっとまだ許していないだろうし。そりゃそうだよね、目の前で、苦手な先輩を庇う幼馴染なんて、どれだけ酷いと思われただろう。
ぽた、と手に涙が落ちた。
寝室のドアが開いて、元貴が出てきた。
僕は、キッチンの陰で急いで涙を拭く。
「…涼ちゃん?」
「…おはよう。」
少しぎこちないけど、一応の笑顔で挨拶を言う。元貴がキッチンに入って、僕を真っ直ぐ見つめる。怒っているというよりは、真面目な顔をしていた。
「…キチ…菊池さんと付き合ってるって、ホント?」
元貴にも聴こえるんじゃないかと思う程に、心臓が跳ねて大きな音が頭に響いた。昨日、大学で菊池さんが元貴に伝えたのだ、きっと。
「…うん。」
僕が、できるだけ表情を崩さずに、小さく答える。元貴の眼に、絶望の色が広がるのが、分かってしまった。
「…え…なんで?」
「…一昨日、ゼミの部屋で、元貴と仲良くして欲しいってお願いをした時に、一目惚れしたって口説かれて。」
「…だからって、付き合ったの?」
「…うん。」
「…菊池さんが、好きなの?」
覚悟を決めて、微笑んだ。
「うん…好きだよ。」
元貴は、一瞬泣きそうな顔をして、すぐに振り返って、また寝室へと戻っていった。
僕は、重い心を引きずって、とりあえずお弁当作りを始める。
しばらくして、二人が寝室から出てきて、すぐにそれぞれの荷物部屋へと入っていった。着替えでもするのだろう、と僕は自分の作業を続ける。
次に二人がリビングに姿を現した時、その手には大きな旅行カバンが握られていた。
「涼ちゃん、俺たち、出て行くね。」
「…え…?」
「涼ちゃんに恋人が出来たのに、俺らが居座るとか、邪魔なだけだし。」
二人が、感情の読めない顔と声で次々と話す。僕は、驚きと悲しみで、言葉が何も出ない。
「俺は、とりあえず目黒くんとこ行かせてもらう。」
「俺は、ニノ先生とこにお世話になるから。」
口を開けても言葉が出ないから、閉じるけど、でも何か言わないと、とまた口を開ける。情けなくパクパクと口を動かすだけの僕を悲しげに見た後、二人が静かに出て行く。
「…じゃあね。」
「…菊池さんと、お幸せに。」
ドアが閉まって、僕は、よろよろとソファーに移動して、力無く座り込んだ。
出て行った…?二人が…?なんで…?
僕が、菊池さんと付き合ったから…?
だって、だってそれは、元貴の邪魔をしたくなくて…。
ポロポロと涙が零れて、僕は、すごく馬鹿なことをしたんだと、今更になって後悔した。
スマホでLINEを開いて、菊池さんへありったけの文句を書いて送ってやろうかとも思ったが、その手が動くことはなかった。
そんなの、一番、自分のやったことの意味を潰すことだ。とりあえず、四ヶ月、我慢すると決めたじゃないか。大丈夫、菊池さんさえ卒業すれば、全て元通り…。
本当に?
あの二人は、戻ってくるだろうか?
あの、二人の表情は、僕に呆れ、僕に興味を失い、僕と離れることを決めたものじゃないのか…。
「最悪だよ…。」
ソファーで項垂れ、頭を抱える。
どれほどの時間が経っただろう。僕はソファーでボーッと過ごしていた。
ピロン、とLINEが届く。
『蓮から聞いたけど、もしかしてひろぱくん達出て行ったの?』
亮平くんからだった。ひろぱが、蓮くんの家に着いたんだろう。
『うん』
僕は、それだけを送る。
『なんで?宿題のせい?』
『ちがう、僕のせい』
『なにがあったの?今日会える?』
『昼過ぎからシフトだから、それまでなら』
『じゃあ、絶対にうちの店に来て。今すぐ』
亮平くんが、僕を心配してくれている。僕を一人にしないように、考えてくれたんだ。
ゆらりと立ち上がって、寝室へ向かい、着替えを済ませて上着を手に取る。キッチンに眼をやると、作りかけのお弁当が寂しく出番を待っていた。
「ごめんね…。」
僕は、二人に言えなかった言葉を、それらを見つめて零す。明るさを失った部屋から、重い足取りで亮平くんのお店へと向かった。
「僕はね、一人で抱え込んで、結局空回って、トラブルが大きくなるっていう、ドラマなんかの定番?あれが大っ嫌いなんだよね。」
僕の顔を見た途端、亮平くんが僕に言い放った。その顔は、怒っている。
「全部聞くまで、帰さないよ。」
僕の手を引いて、まだ開店前のお店のテーブルへ座らせてくれた。
「…でも、亮平くんは、元貴達と繋がってるでしょ。」
「てことは、もっくん達に関係があるんだね。」
亮平くんの鋭さに、そして、決して逃してくれなさそうな空気に、僕は溜息をついた。
「元貴には、言わないで。」
「場合によってはね。」
「亮平くん…。」
「だって、分からないでしょ、黙ってる方が最善かなんて。まだ何も知らないから、僕は。」
亮平くんが、水をコップに入れて、目の前に置き、自分も席につく。
「…一昨日の、学祭の時、菊池さんに連れて行かれた先で、その…押し倒されて。」
「…うん。」
亮平くんの、コップを持つ手に力が入った。
「それで、…キス…されちゃって…。」
「うん。」
「すごく、嫌だったけど、ちから、強くて、ダメで。でも、元貴達の足音が聞こえたら、すぐやめてくれて。それで、この続きを元貴にされたくなかったら、付き合ってって…。」
「…ん?話の繋がりがよく分かんないな。なんでその人はもっくんに手を出すの?」
「あの人と元貴は、同じゼミの先輩後輩で、元貴がずっと苦手意識を持ってた人なんだ。その相談も少し僕は受けてて。でも、大学の事で僕にできることなんてないから、見守るしかなかったんだけど。」
僕は、ふぅ、と息を吐いて、少しお水を飲む。
「あの時、あの人がこれまでずっと元貴にちょっかいかけてたみたいなこと言ってきて、それで、元貴から少し聞いてた僕のことが気になって…たのかな?分かんないけど、それで、僕が付き合わないと、元貴に手を出したり、虐めたりするって言われて。僕、元貴の大学生活の邪魔だけはしたくなくて、それで…。」
「なるほど。元々関係が良くなかった人から、もっくんを人質に取られて、付き合いを強要されたってことね。」
「…うん。」
「はあー…なんだそいつ…イマイチ目的がわからないな…。一昨日初めて会ったんだよね?」
「うん。」
「だったら、涼架くんを手に入れたくて、っていう線は薄いと思うんだ。だとしたら、目的はたぶんもっくん…。」
「え…。」
「どういう意図で狙ってるかまでは分からないけど、涼架くんを手に入れることで、もっくんを苦しめるのが目的なような気がするな。」
確かに、昨日の今日で、すぐに元貴に僕と付き合ってると伝えたようだし、それ自体が目的なのかも知れない。亮平くんと話していると、自分だけでは見えなかったことが、少しクリアになってきた気がした。
「…つまり、僕はどうすればいいの?」
「うーん、ちょっと待ってね、考える…。少し、時間をくれるかな。」
僕は、うん、と頷くと、亮平くんが席を立つ。いくつかスマホでやり取りをしている様子をぼんやりと眺めていたら、今になって睡魔が襲ってきた。昨日、あまり眠れなかったからなぁ…。僕は、我慢できなくて、少しだけ眼を閉じた。
「…りょ……くん、涼架くん、ごめん、起きて。」
「…んぁ…?」
僕は、いつの間にか、テーブルに突っ伏して寝てしまっていたようだ。お店の時計を見ると、一時間ほど経っていた。涎が垂れていないか確認しつつ、身体を起こす。
「とりあえず、この菊池さんのデートの誘いに、乗ってもらえるかな。」
「…ん?デートの誘い?」
亮平くんが、いつの間にか手に持っている僕のスマホを差し出した。
「ごめん、ポケットから取らせてもらったよ、もちろん何も触ってはないけどね。」
僕は、ありがと、と受け取って、画面を見る。確かに、菊池さんからLINEが届いていた。
『涼架ちゃん、次の休みいつ?デートしよ♡』
僕は、スマホでスケジュールを確認して、来週の土曜日が休みだと確認した。
「これに、行くって応えたらいいの?」
「うん。とりあえず、こっちの動きに反応したからね。」
「動き?亮平くん、何かしたの?」
「涼架くんは、何も知らずに行った方が、あっちも警戒しないと思う。だから、ちょっとごめん、言えない。」
「…うん、分かった。」
僕は、亮平くんが見守る中、スマホを操作して、返事を送った。
『来週の土曜日なら、空いています』
『んじゃきまりー。うんとオシャレしてきてね♡』
「これにも応えなきゃダメ?」
「…まあ、それなりに。」
僕は、スマホ画面を亮平くんに見せた後、また返事を打つ。
『わかりました』
「…いいね、いい感じにそっけない。」
亮平くんが、画面を覗いてクスクスと笑う。さっきまでの、全容が掴めないと少し苛立っていた亮平くんと全然違って、彼は一体何を掴んだんだろう、と少し気になった。
でも、僕の為にここまでしてくれる彼の計画を、僕は全面的に信用することにした。
十二月に入って二週目の土曜日、菊池さんとのデートにやってきた。駅前で待ち合わせて、時間通りに落ち合う。
「いいねー、可愛い!」
「…ありがとうございます。」
僕は、普通の襟シャツの上にトレーナーを着て、スカンツとブーツを合わせ、上にピーコートを羽織っている。髪は色落ちの黄緑で、長くなって少し邪魔な頭をハーフアップにくくった。
「可愛い彼氏で自慢できる〜。」
菊池さんが、肩を組んできた。一瞬身体が強張るが、意外と優しい力で肩を包んでいる。
「じゃあ、飯行こっか。イタリアンか、中華、この辺ならお寿司も美味い。どこがいい?」
手慣れた様子で、選択肢を与えてくる。なるほど、モテるというのは本当らしい、と僕は変に感心してしまう。
「…お寿司、かな。」
「いいねー、俺も寿司食いたかった。いこ。」
どうせなら高いご飯でも集ってやろうか、と僕の意地悪な部分が出たのに対し、爽やかな笑顔で同意した。さらりと手を繋いで、僕をリードしていく。僕は、菊池さんを改めて斜め後ろから眺める。
背がスラッと高くて、端正な顔立ち。今日は僕と同じような襟シャツにセーター、茶色のズボンにロングコートを羽織っている。
口はチャラついた感じに喋るのに、行動の一つ一つは意外と優しいもので、僕はこの人を掴みかねていた。
食事を終えて、手を繋ぎながら辺りを散策する。
「…ご飯、ご馳走様でした。」
僕は、信用のおけないこの人に、終始黙って食事を終えたが、全額出す、と言ってスマートに支払いをしてくれた後、お礼を言わないのはどうしても身の置きどころがなく、小さな声で伝えておいた。
菊池さんは、ニコッと笑って、美味かったね、と嬉しそうに話す。こう見ると、悪い人ではなさそうなのに…その意図が僕にはまだ分からない。
「…これ、可愛いね。」
菊池さんが、僕の左耳のピアスに指をそっと触れる。反射的に耳を手で塞いで、ピアスを守った。
「…プレゼント?」
「…はい。」
「大森くん?」
「………はい。」
その名前に反応するかな、機嫌を損ねたりするかな、と身構えていたが、意外とあっさり、ふーん、とだけ零した。
「俺もなんかプレゼントしちゃおっかな〜。あ、あそこ入ろうか。」
菊池さんが、少し先にあるジュエリーショップを指差す。
「いえ、結構です!」
「なんで、遠慮しないで。」
「困ります、そんなの。」
「困らないでしょ、彼氏からプレゼント貰うなんて、当たり前っしょ。」
「…いいです。」
「あ、お金の心配してる?大丈夫、俺こう見えて金持ちのボンボンだから。」
「…そう見えますけど。」
「あ、マジ?」
まあいいじゃん、見るだけ、と僕を引っ張って強引に歩みを進める。僕は、亮平くんの計画の手前、あまり強く拒否するのも良くないのかも、と悩みながら、とりあえず店へと入った。
「ん〜、ど、れ、に、し、よ、う、か、な〜。」
色んな物を見ながら、菊池さんがウロウロとする。僕は、入り口の近くで手を前で合わせて、その様子を眺めていた。まるで店員さんのようだ。
ふと、菊池さんが、黄色い小さな石でデザインを彩った、華奢なネックレスの前で立ち止まった。
じっと見つめ、口に手を当てて考え込む。
「…これ、似合いそー…。」
ボソッと呟いて、ハッとして僕を見た。僕が少し怪訝な様子で見つめ返すと、困った笑顔を見せてくる。
「…涼架ちゃん、これ付けてみて。」
「…はい…。」
お店の人に手渡され、菊池さんが首にそっと着けてくれた。お似合いです、とお決まりの文句を店員さんから言われ、鏡を見ると、首から下がる細い鎖がキラキラと輝く。
「うん、やっぱり可愛い。これにしまーす。」
「え…!?あ、ちょ…。」
ネックレスを外され、店員さんと購入の手続きをテキパキとこなしている。僕は、溜息をついて、また入り口付近へと戻り、ぼんやり外を眺めていた。
元貴は、元気に学校行ってるかな…。ひろぱも、ちゃんと学校行ってるよね…。二人とも、お昼ご飯、お弁当とかどうしてるのかな。
朝ご飯は、ちゃんと食べてる…?
行ってきますって、ご先祖様にちゃんと手を合わせてから行ってる…?
じわっと涙が眼に溜まって、慌てて目元を拭う。
「お待たせ〜、行こっか。」
「…はい。」
何故、僕はここでこんなことをしてるんだろう。もう何度目かのその思考が頭に浮かんでは、また有耶無耶に消えていった。
その日は、ネックレスのプレゼントを手渡されて、次のデートの約束をこぎつけられて分かれた。
「次は、クリスマスイブに、デートに行く事になった。」
「まあ、そうだろうね。そこは押さえてくるよね。」
菊池さんとのデートから一週間後、僕は仕事休みの日にまた、亮平くんのお店に来て、相談に乗ってもらっていた。開店前のお店の中で、テーブルを挟んで座っている。
あのデートの後すぐに、亮平くんには色々と報告をしたが、それで大丈夫、とだけ言われて、他のことはまだ僕には伏せられていた。
「…次が、勝負かな。」
「クリスマスイブ?」
「うん、必ず僕たちが解決してあげるから、涼架くんは心配しないで。また前みたいに、デートをこなしてくれるだけでいいから。」
「…また、何も知らず?」
「うん、ごめんね。」
「うん…。」
亮平くんは、『僕たち』って言った。きっと、蓮くんも手伝ってくれてる。もしかしたら、元貴たちも…?
「…元貴たちとは、連絡、取ってる…?」
「…うん、蓮を通じてね。ひろぱくんも、もっくんとは連絡取ってるみたいで、元気にしてるって。」
「…そっか、良かった…。」
僕は、二人が出ていってから、連絡が取れない。一度、『ごめんね』とだけ送ってみたが、既読にすらならなかった。もう、それだけで、僕が二人に連絡を取れなくなるには充分過ぎる拒絶だった。
「…二人に、会いたい?」
亮平くんが、スマホを手に取りながら、僕に訊いた。俯いている僕の眼から、次々と雫が落ちていく。
「…寂しいんだ、すごく。前までは、こんな事なかったのに…。二年、離れて暮らしてたのに。今なんて、たった二週間ほどしか離れてないのに…。でも、でも今は、…二人がいないのが、すごく苦しい…。」
「…そっか。」
「…でも、僕が自分でやった事だから、ちゃんと、解決しないと。亮平くんのこと頼ってばっかだけど、でも、これが解決したら、僕、今度は僕が二人を迎えに行きたい。」
「うん、それがいいね。」
亮平くんが、スマホをポケットに入れて、テーブルにあるコーヒーを啜る。
「宿題、やっと出来上がりそうだね。」
「え…?」
亮平くんが、優しく微笑んで、僕は首を傾げた。それ以上は、何も言われない。
そう言えば、宿題どころじゃなかったな、考えること自体が宿題だと言われながら、最近は考えることすら出来なかった。
ただ、ひたすら、二人に会いたい。
その為には、早く菊池さんとのことを解決しなきゃ。
僕は、クリスマスイブに全てが終わることを願って、コーヒーを飲んだ。
コメント
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更新ありがとうございます💕 やっぱりキチクにはなりきれなかったかぁ〜😅 いまいちふまくん分からんですね…。 ネックレス選んでいるとき、なんか他の事考えてました⁇気になる💦 あ、全然関係無かったりして💦 ニノ先生は出て来ます⁇ もう涼ちゃんは周りによって強制的に宿題を終わらさせられる感じですね🥰 私も涼ちゃんにお弁当作って欲しい🍱
❤️💙〜!!!出ていっちゃった😣でもそうなるかもなぁ、、とは予想してました笑 そりゃあ好きだった子が他の子と付き合ってたら色んな感情になっちゃいますよね いやまって💚ちゃん〜!!!好きです(告白) 流石に優しすぎる、、✨ 友達のために裏で動いてるの、推せます🫶でも何を企んでるんだろう、、笑 そろそろ宿題の答え合わせかしら?💛ちゃん早くしないと期限切れちゃうよ〜🤭 続きが楽しみすぎです!!朝に作ってくださってますが夜のちょっとした息抜きにさせてもらってます🥰