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「麻実ちゃん、今日は午前だけだったっけ?」
昼の休憩時間に入り、ロッカーから荷物を取り出し換える準備を始めた私に久我さんが声をかけてきた。
今日は奥野君と約束した木曜日だが、この時間に仕事を上がれば十分間に合うはず。
今日の結果次第によっては私と岳紘さんの関係が大きく変化する可能性だって十分あり得る、その覚悟は決めてきたつもりだった。
「はい。お先に失礼しますが、後のことをよろしくお願いします」
「……ねえ、最近の麻実ちゃんって凄く無理してるでしょ? 今日もそれが早退の理由なの?」
久我さんは鋭い、明るく振舞いながら周りの様子をしっかり観察して声をかけている。それが有難くもあり、少しだけ辛かった。
無理をしていることがバレている、自分がもう限界に近い事を再確認させられた気がして。
「そんなことないですよ、多分……もうすぐ全部スッキリするはずですから」
「え? それってどういう……」
戸惑う久我さんに笑顔を見せると、そのまま裏口から外に出る。そうしなければきっと、彼女の前で涙を零してしまうから。
スマホの電源を入れて、ディスプレイを指で操作する。画面には奥野君からのメッセージが映し出されていて、それを確認し終えるとスマホを鞄に押し込んでまた速足で歩き出した。
余計な事は考えないように、ただ前だけを向いて――
「すみません! 少し、待たせちゃいましたか?」
「いいえ、私も今さっき来たところ。それに、ちょうどこの窓から奥野君が走ってきてたのが見えてたから」
約束した時間の五分も前だしね、と付け加えれば奥野君は「そうですね」と笑って見せた。のほほんとしたその雰囲気は今から夫の浮気を突き止めに行く緊迫感とは程遠くて、何となく非現実的だった。
でもそれはきっと私のことを思っての奥野君の気遣いなのだろうから、こんな時くらいはそれに甘えてしまうのも悪くない。
「雫先輩、この席が正解です。ここからだと、アイツがそこの道を通るのがよく見える」
「岳紘さんは、よくここを通るの?」
少なくともこの駅に来たのは私は初めてだ、夫がこんなところに来ているなんて話も一度だって聞いたことなんてなかった。なのに、何故? なんて考える必要もなかった。だって、その答えは一つしかない。
……この駅の近くに、あの時の電話の相手が住んでいるってこと。
「ええ、いつも同じくらいの時間に同じ女性と。一人の男の子を連れて」
「……男の、子?」
相手の女性に旦那さんがいることは分かっていた。だけど、それだけでなくその女性には子供までいたなんて。ショックが大きくて、上手く呼吸が出来ず苦しくなる。
「すみません、先に言うべきか迷ったんですけれど。その時になって知った方が、雫先輩の心のショックが大きいんじゃなかって思って」
「……」
奥野君の言う通りだ。もし岳紘さんが女性だけでなく子供まで連れて歩いている姿を見たら、きっと冷静ではいられなかったはず。いま知って良かったんだと、頭では分かってるのに……
もしも、そう……もしもの可能性が脳内を過って、不安で心が落ち着かない。
「その、男の子が……岳紘さんの子である可能性は、あるの?」
「……それは、俺にはまだ分かりません」
奥野君の答えは当然のものだった、きっと彼はこの場所で何度も夫と女性の姿を見ていただけのはず。一緒にいた子供が誰の子かなんて分かるはずがない。
大体、その女性には夫がいたはずだからその人との子供の可能性の方が高いはず。それなのに……
「ですが、その男の子は学生時代のアイツをもっと幼くしたような顔でした」
「……そんな、うそ‼」
奥野君は岳紘さんの顔を良く知っている。エスカレーター式の中高大一貫校に通っていたからこそ、なのだけど。奥野君の言葉を疑う訳じゃない、でも信じたくなかった。
私とは体の関係すらも拒否する彼が、他の女性とすでに子を成しているなんて。