テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ドアベルが鳴った。
この店にとって、それは風鈴のような音でもあり、時計の針のような役割も果たしていた。
曜日や時間帯で、来る顔ぶれは大体決まっている。
古びたアンティークの壁掛け時計が
訪れる人々を見守るように
静かに時を刻んでいる。
「いらっしゃー……」
声をかけようとして、言葉がやや詰まる。
よく知る人物が、ガラスのドアを押し開けて入ってきたのだ。
「こんにちは。今日はお友達を連れてきてます……あれ、友達とか勝手に言っちゃって良かったですかね?」
横に並ぶのは、背の高い男だった。
くせの強い天然パーマ、鮮やかな赤のタートルネックに、メガネ——
どこか演劇でもやっていそうな、妙に目を引く出で立ちだ。
「何言ってるんだ。気軽に誘ってくれていいよって言ってあるんだから、気にしないで。」
その口調も、どこか軽やかだった。
「……何名で?」
「2名です」
応えたのは古上ではなく、隣の男の方だった。
古上とは対照的な、爽やかな笑顔。
…妙に気取ってて、なんだか腹が立つ。
「……こちらどーぞ。」
そう言って席を案内しながら、五十嵐は小さくため息をついた。
まったく、また変なやつが来たもんだ。
「僕はブレンドを。古上君は?」
隣の男がメニューも見ずにそう言った。
「僕は……」と古上が言いかけると、カウンターの奥から声が飛ぶ。
「カフェオレだろ。ガムシロ多め」
一瞬、古上が目を丸くする。
「あ、そうです……覚えててくれたんだ」
「嫌でも覚えるわ」
五十嵐はぼそっと言いながらも、すでにカップを用意している。
その言葉に、古上は苦笑をこぼす。
カウンターの奥で様子を見ていた萌香も、小さく笑っていた。
不思議と、初めて会った気がしない。
どこか居心地のいい空気が、ゆっくりと店内に広がっていた。
古上が、ふと連れの男に訪ねる。
「この間の新作、どうでしたか?」
「素晴らしい出来だったよ。特に、主人公が非現実的な世界観の中で不思議な冒険をし、自我を見つめ直す旅の描写は繊細で――」
「……何の話してんだか分かんねぇ」
五十嵐のぼそりとした一言に、男は少しだけ目を細めて笑った。
「失礼、つい話し込みすぎましたね」
そしてカウンターに視線を移しながら、軽く頭を下げた。
「改めまして――喜八と申します。普段は、塾で生徒たちにこんな調子で語ってます」
「えっ、塾の先生なんですか?」
萌香が少し驚いたように声を上げる。
「はい。大学のゼミにも顔を出すことがあるので……もしかしたら、どこかでお見かけしてたかもしれませんね」
古上が頷く。
「大学のゼミでもお世話になってます。ちょっと変わってますけど、人気の講師なんですよ」
「ちょっと余計だな、それ」
そう言いながらも、喜八は悪くなさそうに笑っていた。
萌香が湯気の立つカップをそっとテーブルに置く。
「お待たせしました。ブレンドと、カフェオレです」
「ありがとうございます」
喜八は礼を言ってカップを手に取る。香りを楽しむように、目を細めた。
「……いい香りですね。こうして寛げる場所、昨今なかなかないですからね」
ゆっくりとカップを置いてから、ふと穏やかに笑った。
「忙しい日々の中にこそ、休息が大切なんですよ」
それは誰に向けられたというより、店内に静かに溶け込むような声だった。
古上が笑う。「先生、また始まった」
「こう見えて、結構まじめな講義するんですよ」
喜八は冗談めかして言ったが、どこかその言葉には温かみがある。
「…おやおや、古上君、砂糖入れすぎですよ」
穏やかな声に、古上が手を止めた。
スプーンには山盛りの砂糖が、カップの縁で小さく揺れている。
「え…僕、いつもこれくらいなんですけど……」
言いながら、どこか恥ずかしそうに視線を逸らす古上。
五十嵐は無言でその様子を見ていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……もうコーヒーじゃなくて、ほぼシロップだな」
「そんなことないですよ、ちゃんと珈琲の風味も……あるはずです」
萌香がくすっと笑いながらカウンター越しに声をかける。
「古上くん、甘党なのね。でも、それだけこの店にリラックスしてくれてるってことかな?」
静かな店内に、ほんのりとした笑いが広がった。
砂糖の甘さと同じくらい、優しい空気に包まれて。
古上がスプーンでカップをかき混ぜながら、ぽつりと呟いた。
「執筆が思うように進まない時とか、甘いものが欠かせないんですよね」
「わかるけどね。頭を使う作業って、どうしても糖分を欲しがるし」
カウンター越しの喜八が頷きながらも、少し口調をやわらげる。
「でも、毎日それじゃ身体を壊してしまうよ。……ほどほどにね」
「はい……気をつけます」
古上が少し恥ずかしそうに笑ったそのとき、五十嵐が呆れたように口を挟んだ。
「っていうか、お前の“ほどほど”は全然ほどほどじゃねぇんだよな」
「え、そうですか……?」
「俺の目の前で砂糖をスプーン三杯入れた奴が何言ってんだ」
「またそれ言うんですか……」
苦笑いしながらスプーンを置いた古上に、カウンターの奥から萌香が声をかける。
「じゃあ、今度“低糖質プリン”でも作ってみようかな」
「おっ、いいですね。執筆と健康の両立ができます」
「甘い物がやめられないくせに、そういう時だけノリがいいな」
五十嵐が肩をすくめると、萌香はくすくすと笑った。
小さなカフェの中に、温かい笑い声がふわりと広がっていく。
ほのぼのとした談笑が続く中
再び、ドアベルが、チリンと柔らかな音を立てて鳴った。
その音に振り向くと、小さな男の子が、駆け足で店内に入ってくる。
その後ろからは、エプロン姿の母親が少し慌てて追いかけていた。
「ぼく、ミックスジュース!!」
元気な声が響く。
「はいはい。まず席に着いてからにしようね」
母親がそう言って、男の子の肩にそっと手を添える。
カウンターの奥で様子を見ていた萌香が、ふわりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ〜。ミックスジュースですね。お席ご案内しますね」
小さな出来事ではあるけれど、それはまるで店内の空気をふっと変える、春風のようだった。
常連同士の静かなやりとりに混じって、新しい風がひとつ吹き込む。
今日もこの店は、いろんな人の「ちょっとひと息」に寄り添っている。
席に着くやいなや、男の子がぱっと顔を上げた。
「……あ!浩二お兄ちゃん!久しぶり!」
突然の呼びかけに、五十嵐はピクリと肩を動かした。
コーヒーを淹れながら、眉ひとつ動かさずにぼそりと返す。
「……誰がお兄ちゃんだ。俺は生涯一人っ子だ」
その声に、古上がくすりと笑う。
「ほらほら、お兄ちゃんらしくしないと」
「やかましいわ」
五十嵐はむすっとした顔のまま、コーヒーを注ぎ続けたが、口元はほんの少し緩んでいた。
男の子は構わず、「ミックスジュース、楽しみ〜」と、くるくる椅子を回している。
どこか懐かしさのある、その光景。
古上が言った「お兄ちゃんらしさ」も、あながち間違いではなかったのかもしれない。
「……あれ?今日は貸切じゃないの?」
男の子が店内を見渡しながら不思議そうに言った。
母親は困ったように笑って、「いつも貸切じゃないわよ……すみませんほんとに」とぺこりと頭を下げる。
「初めまして。何歳かな?」
カウンター越しに、喜八がやわらかな声で問いかけると——
「5歳!もじゃもじゃのお兄さんは?」
「も……もじゃ……」
一瞬、喜八の表情が固まった。
古上が肩を震わせて笑いをこらえるなか、母親が慌てて息子の肩を抱く。
「すみませんすみません!!こら、航太、失礼よ!」
「いいんですよ……気にしないでください」
喜八は苦笑しながらも、優しく応えた。
「ねえ!!算数のお勉強教えて!!」
突然、航太が声を上げた。
驚いたように振り返った喜八は、にこっと笑ってしゃがみこむ。
「ん? 算数か。どれ、見せてごらん?」
「これ、僕が作ったんだよ!!」
誇らしげに差し出した紙には、太いクレヨンで描かれたイラストと数字。
「怪獣が2400体います!」
「……多いな」
思わず漏らす五十嵐の一言に、店内の空気が少し和む。
「それでね!怪獣が、家を100個壊しました!残りはいくつでしょう!」
「問題めちゃくちゃすぎんだろ……」
五十嵐が呆れ気味にツッコむ。
「うーん……まず、家は元々何戸あったのかな?」
喜八は笑いながらも真剣に聞き返す。
「えっ……えっとねぇ……100個!!」
「全部かーい」
萌香が吹き出しそうになりながらも、必死に笑いをこらえていた。
「怪獣が2400体もいたら、人類終わるぞ」
五十嵐がコーヒーを注ぎながら、ぼそっと呟いた。
「優しい怪獣だったら壊さないよ!」
航太は胸を張って即座に反論する。
「壊してんじゃねぇか、家100個」
「それはね、ちょっとだけ、手が滑ったの!」
航太は慌てて言い訳しながら、クレヨンで描いた怪獣にハートマークを付け足す。
「……手が滑って壊されたら、たまったもんじゃないな」
五十嵐は呆れながらも、どこか楽しそうだった。
「でもね、その怪獣たち、壊しちゃったお詫びにプリンを配るんだよ!」
「なんだそのファンタジー…」
五十嵐がぼそりと呟いたその言葉が、店内にふわりと落ちる。
一瞬、空気が揺れる。
古上「その怪獣さんは、自分で描いたの?」
「うん!しっぽにハートがついてるのが女の子だよ」
古上はその一点をじっと見つめ、目を細めた。
「……造形に、物語がある……ハートのしっぽ……なるほど、群れの中での役割分担が表現されているのか……」
「え?」
「いえ、なんでもないです。すばらしい感性ですね……!」
そんな様子をよそに、萌香が笑顔でグラスを差し出す。
「はい、ミックスジュースです」
「やったー!!バナナ多めにしてくれた?」
「うん!たくさん入れておいたよ」
嬉しそうに両手でグラスを抱える航太を見て、五十嵐がぽつりと呟く。
「……この歳にして舌が肥えてやがる…」
「僕、グルメだからね!」
航太は胸を張りながら誇らしげに言う。
その小さな得意顔に、五十嵐は思わず吹き出しそうになって——それでも、苦笑い混じりに眉をひそめた。
「……偉そうにすんな。」
そんなやり取りに、自然と笑いがこぼれる
相変わらず、常連ばかりが顔を揃える静かな店。
けれどその空間は、まるで小さな家族のように
どこかあたたかな空気に包まれていた。