「まあ! お客様よくお似合いです。とっても素敵……!」
サービストークと知っていても悪い気はしない。上下を着替えたわたしは靴を履き、更衣室を出て、鏡の前に立つ。そこには、わたしの知らないわたしがいた。
髪型も変えて、化粧も変えて。ワイン色のスウェットパーカーに、シルバー寄りのグレーの、光沢のある皺加工のされたスカートを履いて。そうか。トップスを変えると下も変えないと駄目なんだ。おそらく手持ちの、会社用のボトムスはこれには合わない。オフショルダーでたるん、としていて、これ以外に合わせるならジーパンやレギパンなどであろうか。
「……これってボトムス、何色なら合います?」焦げ茶色のほうが使い勝手がいいかな、と思いつつ、わたしが店員さんに聞いてみれば、なんにでも合います、と店員さん。……いや勿論なんにでも合うというのは嘘なんだけど。壁沿いのベンチに座る課長が、「いいねえ」と立ち上がる。
「これだとこっちが主役だから。ボトムスは大人しい色合いのほうがいいよねえ?」
課長は明らかに店員さんに話しかけており、店員さんは「ですけども」と言って、小走りでなにかを持ってくる。白地に赤い花柄のスカートに、カーキのカーゴパンツ、それから黒地に白のドットが入ったスカート。
「こちらはこのワイン色がキモですから。引き立たせるのは確かに重要なのですが、……柄物もいけます」
「おっほんとだ」
店員さんが、失礼しますね、と断りを入れ、イメージが膨らむように、スカートをわたしのお腹に当てる。ハンガー部分を手前に曲げて、トップスを出す配慮つきで。「こうした、華やかなデザインであっても、ワイン色と親和性の高い柄でしたら組み合わせられます。それから、柄物であれば白黒のものであれば合います」
カーキやブラックとも相性抜群であることを説明した店員さんは、「秋冬にかけてこのようなボトムスも出ておりますから、秋っぽい色合いも合います」
「あのぉ……。これと、茶色とで迷っているんですけども」
「茶色ですか。そうですね、こちらのワイン色に比べるとより使いやすいお色味ではあります。何色のボトムスをお持ちですか」
「あ……恥ずかしながら服は少なくて。ジーパンと、黒、白のレギパン三本……ですかね」
「であるならワイン色焦げ茶色のどちらでもまったく問題ないかと」
鏡のなかの自分に見入る。いま風のパーマをかけて、流行のファッションに身を包んで。自分が生まれ変わったかのようだった。
「ワイン色。いい色ですよね」わたしの胸中を読んだかのように店員さんが語る。「特にこのシリーズは毎年人気で。紐のないタイプも出ておりますが、こちらだと紐がありますので、前で蝶々結びにすると可愛いんですよ」
「あ、そうなんですか」スウェットの服をまったく持っていないわたしは気づかなかった。店員さんは、「失礼しますね」と言ってわたしの前に回り込むと、首元に綺麗な蝶々結びを作ってくれた。――わあ、可愛い! ほんのちょっとの変化でこころが弾む……ファッションとは、些細な物事を楽しめるプロセスなのだと思う。誰も気づかないかもしれないところにこだわりを見せ、自分ならではの幸福に浸る。
「せっかくですので、焦げ茶色もご試着なさってから考えてみてはどうでしょう」
「分かりました。また、アドバイスなど頂けると嬉しいです」
――結局わたしは試着を重ね、最初に気に入っていた商品プラス、楽そうなゆるっとしたベージュのワイドパンツ、紺のデニムのワイドパンツ、それから黒のロングスカートが気に入ってしまい。あ、パーカーはワイン色にした。地味すぎるわたしのワードローブを改善してくれる色合いだと思い。
心配していたゆるっとシルエットについては、実際着てみると案外自然に思え。課長も店員さんも似合う似合う! と絶賛してくれた。
「じゃあ、全部買うのでいいよね」課長がわたしに確認を入れる。「レジで精算してくるから、きみは、なか、適当に見てて。向こうにキャンプグッズとかあったよ。可愛いから見ておいで」
親切に、すべての試着に付き合ってくれた店員さんに礼を言い、課長の言われる通りに、雑貨や家具が売られているコーナーに向かった。キャンプグッズ。これまた可愛い! 洗濯物のグッズも豊富。全部空色をしていて綺麗。それから、キャンプに使えそうなマグカップや、テントや、雑貨……。カーキ色のテントが素敵。このサイズ感なら公園で二人っきりで過ごすにぴったり……。
紙袋をたくさん肩にかけてこちらに来る課長に、わたしは話しかけた。「ねえこれ、すごく素敵じゃありません?」
「いいねえ。けど、折り畳みが楽なやつがいいなあ。知ってる? テントって、こないだみたいな公園でのんびりするときも使えるけれど、プールでの場所取りにも使えるんだって」
「へええ……プール」わたしには無縁の世界だ。彼氏も友達もいないので、幼い頃以来そういうところに行った記憶がない。「プールってなにするところですか? 楽しいんですか」
「おれは男連中と行ったことがあるよ」と課長。「ビキニ姿の可愛い女の子がいっぱいで、でれでれ鼻伸ばして……恋人同士で行っても面白いと思うよ。ウォータースライダーで滑ったり、美味しいラーメン食べたり。冷えたからだにラーメンがまた染みるんだ。プールもさ、水流のあるプールや、海みたいに波のあるプール、それから、プール沿いにステージがあって、時間決めてライブが行われたり。一日過ごしても飽きないよ」
「そうなんですか……わたしには未知の世界です。機会があったら、行ってみたいですね」
「そしたらあれだな。でかい浮き輪買って、空気入れがあるからそれで空気入れて。流れるプールでずっとぷかぷかしてるんだ。……うん。絶対楽しいよ。来年は一緒に行こう」
ということはつまり、わたしたちの関係は来年も続くと見越しているのか。――見知らぬ未来への予感に胸が高鳴る。それに……たくさん服を買って貰えて。早く着たい。合わせるのが楽しみだ。
「課長。ありがとうございました。大切にします」
「いんだよこんなのは。当たり前だと思っておいて? そしたらそうだなあ……他のお店も見ようか」
「えっまだ見るんですか」これだけ買ったのに、とわたしが驚きを見せるものの――これは、まだ、序の口だった。
* * *
夕飯にはパンケーキを食べた。すごく……美味しかった。こころもお腹も満たされた。けれどもわたしのなかには、表現のしがたいしこりが残っている。
十分なのに。十分なのにどうして課長は、もっともっとと欲しがるんだろう。服を見て――勿論わたしはこれ以上買うつもりはなかったけれど、見せられて。試着もさせられて断ると、「えーなんでー」と不思議がって。これ以上負担をかけたくないのに。
更には、「お皿を見よう」とか突然言いだして。デパートの上階の食器売り場なんてわたし行ったことがないのに。わたしみたいな庶民には縁のない場所だ。きらきらとカットの美しいグラスを二つと、白い皿を何枚か買い足した。お揃いのマグカップが欲しかったけど、それは後日持ち越しとなった。因みに課長も服を何枚か買った。今日だけでいったいいくら使ったのかと考えると……恐ろしい。
紙袋ですっかり手が塞がった帰り道。重たさと――心地よさと、ほんのすこしの罪悪感と対照的な晴れ晴れとした気持ちを味わっている。買い物してるあいだって一種のトランス状態なのね。日常のなにもかもがぱーっと消えうせて、終わったあとものすごく爽快感を味わう……けれど。
服をたった一枚買うだけで手に入る幸せがあるのだ。……クラシカルなあのプリーツスカートのワンピース。二万円近くという、お高い値段だったけど一目惚れで……そう、ああいう、物に対する大切な、宝物のような気持ちを抱いていたい。与えられる幸せにふんぞり返る――そんな女性になることがわたしの夢ではない。
ならば。
どう言えば伝わるだろう。わたしの思いは。帰りの電車で、表面上は当たり障りのない話題に終始しつつ、水面下でわたしは、考え続けた。どう言えば伝わるのか。納得させられるのか。
まあいい。いちかばちかだ。やるしかない。
自宅最寄り駅に到着すると、課長は、「これから近場のバーにでも行く? きみさえよければ、一旦荷物置いて、三十分後くらいに入れるか、電話をしてみる」
改札を出ると携帯を操作する課長にわたしは待ったをかけた。このひとはいつも自分で勝手に決めるところがある。「あの、課長……。ちょっとお話したいことが……」
「なぁに? 帰り道だけじゃ、終わらないような話――」わたしの顔色を見て課長は、発信をやめたらしい。耳から携帯を離した。「……なんだね。なるほど。うん。話を聞こうか」
わたしは自宅ではなく敢えて、この改札前という場所を選んだ。それは――
「気になっていたんですけど、課長、羽振りがいいっていうか……いくら課長職とはいえ、一介のサラリーマンにしてはお金の使い方が豪勢というか。そういえば、食事とか、いろんなものとか全部課長が買ってくれていましたし……あんなにいっぱいお洋服やコスメまで。
いえ、すごく嬉しかったのに、こんなことを言うのは筋違いだとは分かっているんですけど。でもわたし、気になったことは放置出来ない性格なんです。どうしてなのかな……と思いまして。
わたしが知りたいのは二点です。失礼ですがそれだけのお金がどこから出てくるのかと何故――そんなにも使うのか。その二点です」
課長は、豆鉄砲を食らったような顔をした。それから、下を向くと――笑いだした。くつくつと、小さく肩を揺らして。
わたしは、課長が気が狂ったのではないかと心配になったのだが――違った。
顔を起こした課長は、見たことのないような、冷たい笑みを浮かべていた。やがてその整った唇が、こう告げる。
「きみは、おれを拒むんだね」――と。
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