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お湯が上がっていく様子を眺めて……
想像するだけでたまらない。
「これ、帰ったら早速使っていい?」
「ふっ、いいよ」
「やった、豆どれ使おうかな~…あーもう、今日の締めくくりに最高すぎるよ兄さん!!」
サイフォンを抱きしめるようにして、兄に満面の笑顔を向けた。
兄はそんな俺を見て、本に嬉しそうに笑ってい
る。
俺の好きなものを共有して、一緒に喜んでくれる。
なんだかんだ、やっぱり俺の兄さんは最高だと思った。
◆◇◆◇
気がつけば夜8時
兄さんの車は東京へ向かって走っていた。
一日中、海を見て、美味しいものを食べて
静かな場所を訪れて。
兄が立ててくれた完璧なプランのおかげで、俺はすっかりリフレッシュできていた。
隣で運転している兄の横顔を見た。
「今日は本当にありがとう、兄さん!まさかこんなに色々準備してくれてるとか思わなかったよ…」
「どういたしまして。楓が元気になってくれたなら、それでいいんだよ」
兄はそう言って、少しだけ笑った。
途端に眠気に襲われて
何も言えそうにない代わりに心の中で、ありがとうって何度も繰り返した。
兄の家に転がり込んでから、最初は気を使ったり、 早く仕事に戻らなきゃって焦ったりもしたけど
今日一日、兄と過ごして
なんだか心の重りが取れた気もして安心して瞼を閉じれた。
◆◇◆◇
その翌朝
ふかふかのベッドで、心地よい眠りからゆっくりと浮上する。
昨日一日の葉山での出来事が、夢のように穏やかに心に残っていた。
兄さんの車で帰る途中、安心して眠ってしまったらしい。
都会の喧騒から離れて、海を見て
美味しいものを食べて、兄さんと話して…
心も体も、随分と軽くなった気がする。
うっすらと意識が覚醒していくにつれて、何やら美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。
甘い蜂蜜の香り、こんがり焼けたパンの香ばしさ
そして、何か肉を焼いているような食欲をそそる香ばしい匂い。
「…んぅ……」
思わずうめき声を漏らすと、ベッドが少し沈み頭の近くで優しい声が聞こえた。
「ほら楓、いつまで寝てんの一」
兄さんの声だ。
軽く体を揺すられて、瞼を押し上げる。
兄さんがベッドサイドに腰かけて、覗き込んでい
る。
「んう……兄さん…?」
まだ眠気が残る声で応えると、兄さんはにこやかに笑った。
「朝ごはん、用意できてるぞ」
朝ごはん…匂いの正体はそれか
美味しそうな香りに、一気に目が覚める。
「今行く~…」
のろのろと起き上がり、匂いに釣られるようにリビングへ向かう。
ダイニングテーブルの上には、すでに美味しそうな朝食が並べられていた。
こんがりと焼かれた厚切りのトーストに
テリヤキのような、でも少し違う甘辛いタレが絡んだチキンが乗っている。
傍らには、ミニトマトやレタスなども添えられていた。
「楓、おはよ」
キッチンに立つ兄が振り返って声をかけてきた。
その手には、昨日兄さんがプレゼントしてくれた
あのサイフォンが握られている。
兄さんはコーヒーカップを二つ並べながら、楽しげに言った。
「昨日のサイフォンでコーヒー淹れる?」
その言葉に、俺の眠気は完全に吹っ飛んだ。
「待って!俺が最初に淹れる…!」
兄さんが新しいサイフォンで淹れてくれるのも嬉しいけど
やっぱり自分が最初に使う喜びには敵わない。
兄からカップを受け取り、颯爽とキッチンのサイフォンの元へ向かう。
兄さんは笑って場所を譲ってくれた。
まだ慣れない手つきで
昨日のうちに兄が準備してくれたらしいコーヒー豆を下のフラスコに入れて
上のロートをセットする。
「お、手つきはいいな」
兄さんがからかうように言うのを聞き流しながら、アルコールランプに火を灯した。
ゆらゆらと燃え上がる青い炎が、ガラスのサイフォンを照らす。
お湯が温まり
ぽこぽこと音を立てながらゆっくりと上のロートに上がっていく様子を見ていると
自然と顔がニヤけてくる。
兄さんがテーブルに並べてくれたのは
ハニーマスタードチキントースト、というものらしい。
焼かれたチキンの香ばしさと、甘い蜂蜜
そしてマスタードのピリッとした香りが食欲をそそる。
サイフォンからぽとぽとと、淹れたてのコーヒーがカップに落ちる音を聞きながら
焼き立てのトーストと美味しい匂いに満たされた兄の家で迎える朝に、じんわりと幸せを感じていた。
「できたっと……はい、兄さんの分」
淹れたての熱いコーヒーを兄さんのカップに注ぎ、自分の分も用意する。
湯気と共に立ち上る豊かなコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「んー、いい匂い…いただきます!」
ダイニングテーブルにつくと、二人で手を合わせた。
目の前にはハニーマスタードチキントースト
そして、俺が初めてサイフォンで淹れたコーヒー。
「…うまっ!コーヒー、いつもより美味しい気がする!」
気のせいかもしれないけど、自分で淹れた
しかも高級っぽいサイフォンで淹れたというだけで
格別に美味しく感じた。
ハニーマスタードチキンも
甘辛くてジューシーなチキンとカリッとしたトーストの相性が抜群で、ペろりと平らげてしまえそうだ。
兄さんもコーヒーを一口飲み
「さすがは俺の楓」とまたブラコンじみたことを言ってきて。
その顔を見て、また少し胸が温かくなった。
二人で並んで、美味しい朝食と淹れたてのコーヒーを楽しむ。
テレビでは朝のニュース番組が流れている。
俺がカップから口を離し、テーブルに置くと
「……そういえばさ」
兄が突然、少し間を置いて、話題を切り出した。
「…あの犬飼仁さんって人「ヒビカセ」ってファッションブランドのチーフやってる人なんだってな」
その声に、どこか探るような響きが含まれている。
調べたんだ、とだけ短く答えた。
友人兼客のことを疑われるのは気分は良くないが
兄が心配する気持ちも分からないわけではない。
だから敢えて、言ってみた。
「…ねえ兄さん、そんなに心配なら、今度店に来てみれば?」
「そしたら仁さんのこと、どんな人か分かるから」
俺の提案に、兄は一瞬目を丸くした。
予想外だったらしい。
「店に?俺が?」
「そうだよ、仁さん、俺の店の常連さんだし」
「いつも決まった曜日に来てくれるし、会ってちゃんと話してみれば、兄さんが思ってるような怪しい人じゃないって、きっと分かるから!」
俺が説得するようにそう言うと
兄は黙って考え込んでいるようだった。
そしてコーヒーカップを手に取って、一口飲む。
サイフォンで淹れたばかりのコーヒーの湯気が、兄の顔の前で揺れた。
「……まあ、確かにそうすればどんな人か直接わかるけどさ…でも」
まだ何か言いたげな兄に、俺は続けた。
「兄さんが俺のこと心配してくれるのは理解してるよ」
「でも、仁さんは俺のこと助けてくれた恩人なんだ、そんな人を疑われるのは…俺だって良い気はしないよ」
「楓……」
「…それでもダメ、かな」
言葉に詰まる俺を見て、兄は再び静かに息をついた。
「もう、わかったよ。店に行く約束はする」
「えっ、本当に…?!」
「ただし、その時に俺が見て、話して、判断する」
兄の言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
完全に納得してくれたわけではないけれど
一方的に仁さんを否定するのではなく
直接会って判断すると言ってくれたことが
今は、それだけでもありがたかった。
「……うん…!分かった。ありがと、兄さん」
俺は自分のコーヒーカップに手を伸ばし、温かいそれを両手に包み込んだ。