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そうして長い静養期間を無事に終えて自宅に帰った翌日
8月14日───
約一ヶ月ぶりに、俺は自分の花屋のシャッターを開けていた。
がらら、と埃っぽい音を立てて巻き上がっていくシャッターの隙間から、真夏の強い光が店内に差し込む。
一ヶ月閉め切っていた店内は空気が淀んでいて
ひんやりというよりは、じっとりとした熱気がこもっていた。
「ただいま…」
誰もいない店内に呟いて、店の中に足を踏み入れる。
ホコリがうっすら積もった床や陳列棚を見て
本当に長い間ここを離れていたんだな、と実感した。
兄の家で過ごした一ヶ月は
最初は体の回復を優先し、その後は少しずつ心を休めるための時間だった。
兄さんの過保護には少々閉口したが、静かで安全な空間で
無理なく過ごせたのは本当にありがたかった。
今日からまたいつもの日常を取り戻す番だ。
まずは換気、と入り口のドアを開け放つ。
生ぬるい外気が流れ込んできて、蝉の声が一気に近くに聞こえるようになった。
次にレジ周りや棚を軽く拭き
そして、開店準備で一番好きな作業に取り掛かる。
花台の上に、新しく仕入れた花たちを並べていく。
色とりどりの花が、萎れていた俺の心に少しずつ活力を分けてくれるような気がした。
瑞々しい緑や鮮やかなピンク、清涼感のある白
花に触れていると、心のもやもやが晴れていくのを感じる。
エアコンをつけ、店内にひんやりとした空気が満ちていくのを感じる。
外の喧騒と暑さが嘘のように遠ざかる、この店の空間が好きだ。
準備を終え、開店の札を「OPEN」にひっくり返す。
◆◇◆◇
午前14時
お盆に入って2日目ということもあり
朝からひっきりなしにお客さんが訪れては仏花や供花を手にしていく。
いつもより冷房を強めにしているはずなのに
作業台の前はすでに汗ばむほど蒸していて、エプロンの腰紐がじっとりと背中に張りつく。
暑さもあるけど、それ以上に手が追いつかない。
「はい、こちら、ユリとカーネーションで組ませていただきました。お会計は、1,200円になります」
レジを打ちながら、指先の花粉や水滴をタオルで拭い、またすぐに次の注文に取り掛かる。
花の顔色を見て、萎れかけている葉を素早く摘み取り、水揚げし直して束を整える。
この時期は、どんなに寝不足でも
仕入れのタイミングを一日でも誤れば命取りにな
る。
花は待ってくれないし
お客さんの「故人に届けたい想い」だって日にちをずらせるものじゃない。
けれど今年は、体がうまくついていかない。
無理をすると、少し胸の奥がぎゅっと縮むような痛みがする。
それでも──手を止めたくない。
止まると、いろんなことを考えてしまうから。
そんな時、ふと店先の風鈴がちりんと鳴って
涼しい音に少しだけ力が抜ける。
「……ふう」
エプロンの胸ポケットに差し込んでいたメモ帳を取り出し
未処理の注文を再確認していると、ガラス戸の向こうに人影が現れた。
(───あ、仁さんだ…)
入ってきた人物の特徴的な髪の毛にすぐ仁さんだと気付き
目が合うと、俺は胸の前で軽く手を振った。
すると、いつものように黒のチェルシーブーツをカツカツと鳴らして仁さんが近づいてきて
「仁さん、早速来てくれたんですね」
「久々にね。体の方はもう大丈夫なの?」
優しい口調、前までは違和感なんてなかったけど
規格外の握力や、本物のヤクザというのを知ってからは「あっちが素なのかな」と思うばかり。
今日の仁さんは、深い色合いの抽象的な模様が入ったシャツを多織っている。
首元のチョーカーや耳朶で揺れるピアスも
この暑い中、着崩れた様子もなく
どこか涼しげに見えるのはやはり彼の纏う雰囲気のせいだろうか。
そのコツコツという足音が、店内の熱気や忙しさから切り離された、別の世界の音のように響く。
黒いチェルシーブーツの光沢が、埃っぽい床の上でも目を引く。
この花屋の空間では少し異質に映るけれど、それがまた仁さんらしかった。
俺は一瞬、胸の痛みを誤魔化すように軽く咳払いをして、努めて明るく答えた。
「ええ、まあ、なんとか。この通り、お盆でバタバ夕してますけど」
「そっか、今日は俺もそのつもりで来たんだ」
お盆期間ということもあり、仁さんも誰かへのお供え花でも買いに来たのだろうか
と思った次の瞬間
仁さんは真っ直ぐ俺を見て言った。
「ちょっと、親父の墓参りに。早速お供えの花買いに来たってとこ」
「なるほど…お供えの花でしたらちょうど今朝仕入れたリンドウとケイトウが綺麗に咲いてて、季節感もあると思います。どうぞ、こちらに」
そう言いながら、俺は作業台の奥からまだ触れていなかった数本を丁寧に取り出す。
深い青紫のリンドウと、まるで炎のように赤く揺れるケイトウ。
そのコントラストが妙に鮮やかに目に映った。
仁さんは、少しだけ目を細めてそれを見つめた。
「……うん、いいね。じゃ、そのふたつで」
「ありがとうございます。ラッピングしますので、少々お待ちください」
俺は、竜胆を数本束ねた小ぶりの花束とケイトウを1本だけ束ねた小ぶりの花束を
それぞれセロファンと不織布で包み、仁さんに渡す。
「お待たせいたしました」
「ん、ありがと」
仁さんはそれを受け取ると、すぐに踵を返して店を出て行った。
◆◇◆◇
2日後、土曜日の朝───
ふと兄の家で食べたトースト料理を思い出し、俺もなにか作るっかな、とキッチンに立った。
そこで、冷蔵庫にバニラアイスがあったのを思い出し
暑いしアイストーストでも作るか、と考え
冷凍庫から食パンを一斤取り出し、軽くバターを塗ってからトースターにセットする。
焼きあがるまでの間
キッチンにバターとチョコソース、ナッツの袋を並べる。
トースターの中でじりじりときつね色に色づいていくパンを眺めながら
冷凍庫からアイスを取り出した。
箱のふたを開けると、真っ白なアイスの表面がわずかに霜をまとっている。
スプーンですくおうとして、ちょっと硬すぎたかと眉をひそめた。
「まぁ、トーストに乗せたら多分すぐ溶けるしいっ
か」
そんな独り言をつぶやいているうちに、トースターが「チン」と鳴いた。
ふちがこんがりと色づいたパンをトングでつまんで取り出し、皿に置く。
待ってましたと言わんばかりにバニラアイスをスプーンで大きくすくい取り
溶けるのも構わずトーストの真ん中に「ドン!」と大胆に乗せる。
途端に、ひんやりとしたアイスが熱に反応してゆっくりと蕩けはじめる。
仕上げに冷蔵庫にあったチョコソースをたらりとかけ
さらに香ばしさを足そうとアーモンドスライスも散らしてみた。
熱々のトースト、冷たいアイス、甘いソース
そしてナッツの香ばしさ。
見た目にもなかなかの罪悪感…いや、魅力だ。
見た目はシンプルだけど、甘さと香ばしさ
そして温冷のギャップがたまらない。
コーヒーでも淹れるか、と思いながら
兄から貰ったサイフォンを一昨日キッチンの横に設置したのを思い出し
それを愛おしく眺め
「よし、今日もこれで一息着こうかな」
と、食器棚に向かってコーヒーカップとソーサーを取り出した。
キッチンに立ち、コーヒーの準備を始める。
お湯を沸かしている間
サイフォンから漂ってくるコーヒー特有の香ばしい香りを楽しみながら、ふと思い付く。
「そうだ、こんな機会でもなきゃ飲めないし、豆を変えてみよう」
ダイニングの戸棚を開けると、小さな紙製の引き出しを見つける。
この引き出しの中には各種コーヒーを焙煎した時に出来る粉が入っている。
「えっと……エチオピアはこの前飲んだし…マン
デリンはこの前飲んだしな…」
と、独り言を呟きながら引き出しの中を漁る。
「今回はブルーマウンテンでいってみよ」
ご機嫌に引き出しの中からコーヒー豆を取り出す。
それをサイフォンに入れお湯が沸くのを待ち
ゆったりとした時間を楽しむ。
お湯が沸き上がるまで何分も掛からない筈だがこの時間もまた楽しいものだ。
そして───…
「そろそろかな」
サイフォンからお湯が沸き上がった事を告げる音がし、火を止め
コーヒーの粉が入った紙製の引き出しをしまい
コーヒーカップを準備する。
そして、サイフォンのお湯が落ちきり
コーヒーの粉を入れた所にゆっくりお湯を注ぎ入れる。
すると、部屋にコーヒーの香ばしい香りが漂う。
「よし、やっと完成。」
そう呟き、カップとトーストの乗った皿を手に取ると
キッチンに置いてあるダイニングテーブルに移動する。
そして、席につき
バニラと甘いソースがかかったトーストにかぶりっいた。
ザクっというトーストの歯ごたえと共に
アイスは口の中で瞬時に溶けていき、甘さと香ばしさが同時に口の中に広がる。
「ん~美味い!」
思わず独り言が漏れてしまった。
そして、カップを手に取りコーヒーを口に含む。
すると、コーヒーの香ばしさとバニラアイスの甘さが混ざりあい
なんとも言えない至高の時間が流れる。
「はぁ~…幸せ……」
と、また独り言を呟いてしまうほど、この時間は最高に幸せな時間だ。
◆◇◆◇
午後1時ごろ
さっきは甘いものを食べたことだし、なにかヘルシーかつ美味しいものを食べようかと思案する。
慣れた手つきでコーヒーを作り
キッチンの棚からガラスのカップを取り出し、冷凍庫を開ける。
指先でつまんだ氷をひとつ、ふたつ
落とすたびに、澄んだ音がカラン、と響いた。
最後のひとかけが加わると
氷同士がぶつかりあって短く鳴り、静かな部屋にガラスの音だけが残った。
「さてと…なに作ろっかな……」
そんな独り言を呟きながら冷蔵庫に向かい、中身を物色する。
すると、今日が賞味期限のサーモンの刺身が冷蔵庫の片隅に眠っていたので
「ちょうどいいや、これでムニエル作っちゃお」
と意気込み、材料を取り出していく。
まずは戸棚から卵焼きを作る様の四角いフライパンを取り出す。
(できるだけ洗い物少なくしたいし、軽々と洗えるこれでいいか)
コンロの上に置き、下の棚からオリーブオイルを取り出しフライパンに注ぎ込む。
油が温まったのを確認してから中火で加熱しつつ
ボウルに塩、砂糖、牛乳を混ぜ合わせた液体を入れておく。
そしてサーモンの切り身の両面に小麦粉をまぶし余分な粉を落とす。
準備万端。
そして、そのサーモンをフライパンにそっと乗せ
る。
じゅう…と小気味いい音と共に香ばしい匂いがキッチンに広がる。
(うは〜うまそう…!!)
心の中で叫びながらサーモンを焼く。
そうしてサーモンとにらめっこをしていた
そんなとき、インターホンが鳴った。
「え、誰だろ?」
菜箸を盛り付け用の更に置いて、玄関に向かう。
「はーい」
と返事をしながらドアを開ける。
「あれ、仁さん?」
そこに立っていたのはシックなダークグレーの長袖シャツに黒いパンツを合わせ
微かにタバコの匂いを漂わせる完全オフの仁さんだった。
その手には、重ねたタッパー2つが。
「突然悪いね」
仁さんはいつもの優しい笑顔で聞いてくる。
「いいですけど……どうしたんですか?」
と俺が尋ねると
「ああ、実はさ」
仁さんは少し照れたように笑い、手にしたタッパーを軽く持ち上げながら続ける。
「今日の昼、ちょっと時間があったから色々作ってたんだ。気づいたら、えらく量が多くなっちゃってさ」