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「ふぅ……ちょっと遅くなっちゃったかなぁ」
もうすでに日が暮れていた。
時刻は十九時三十分。いつもより帰宅が一時間くらい遅い。
ソフィアさんとの雑談が盛り上がってしまったせいだ。
あの人は不愛想だし、基本的に無表情なんだけど、お話が好きなのである。まぁ、人見知りする血筋らしいので、心を許した相手としかおしゃべりしてくれないのだが。
とはいえ、遅くなったことについては……きっと、怒っているんだろうなぁって思った。
「た、ただいまー」
恐る恐る帰宅する。
扉を開けると、すでに玄関で彼女が待っていた。
もちろん、娘のさつきである。
彼女は体育座りで俯いている。目に光はなく、ひたすら指先で床をこすっていた。
ガリガリガリガリガリガリガリガリ。
一定のリズムで刻まれている音をずっと聞いていると、精神が崩壊しそうである。
「遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い」
ぶつぶつと呟いている娘がちょっと怖い。
俺が帰ってきたことにまだ気付いていないのは、きっと自我がどこかに飛んで行っているからだろう。
「ただいまっ」
彼女を呼び戻そうと、大きな声をかける。
すると、さつきはガバッ!と顔を上げて、俺に飛びついてきた。
「んぁあああああああああ!!」
「ひぃぃいいいい!?」
いきなり叫ぶから腰が抜けた。
しりもちをつきながらも、飛びついてきたさつきには怪我がないように気を付ける。抱きとめたら、彼女は俺の胸をぽかぽかと叩いてきた。
「遅いよ、パパぁ……おかえりなさい!!」
良かった。やっと目に光が戻ってきた。
いつもの娘になってくれたので、安堵で胸をなでおろす。
この子は俺のことが大好きすぎるので、ちょっとでも会えなくなったらこんな感じになるのだ。
愛されているのは嬉しいんだけどね。
さつき? 君の愛は、お父さんですらちょっと重いなぁ。
お父さん、もう四十手前だし、さすがにちょっとたいへんです。
「ふぇぇえ、心配したんだからねっ! パパが事故とかに巻き込まれてたらどうしようって、怖かったんだもん!」
「ごめんごめん……って、ちゃんとメッセージ送ったぞ? 『今日は仕事先の関係者と喫茶店で話をするから遅れる』って」
「……ピコピコするやつ、嫌いっ。わたしは顔を見てお話するのが好きだもん!」
なるほど。携帯電話は見てなかったみたいだ。
この子、年頃の娘だけどあんまり機械が得意じゃないらしい。機械音痴というわけではないようだが、どうも電話とかメールとかチャットは無機質で慣れないようだ。
だから普段から確認する習慣がないのだろう。
父親としては、何かあった時に連絡が取れるように、しっかりと使いこなしてほしいけどなぁ。
「今度からは事前に伝えるようにするよ。とにかく、ごめんな……心配したか?」
抱きしめて、頭を撫でる。
あやすように優しく触れると、さつきは小さく頷いた。
「うん……でも、大丈夫! パパの顔見たら、安心したっ」
良かった、いつも通りの可愛いさつきである。
「えへへ~。パパ、お仕事お疲れ様!」
ぐりぐりとさつきが顔を押し付けてくる。
胸元に彼女の鼻があたってくすぐったかった。
まるで匂いを嗅ぐように顔を埋められると、恥ずかしい。
もうちょっと離れてくれないかなぁと、苦笑していたときだった。
「くんくん……あれ? パパ、別の女の匂いがするよ? なんで?」
またしても、緊急事態に突入しそうだった。
「お仕事先の関係者と会っていただけなのに、どうして? この匂い…‥四十代くらいの女性だけど、見た目はとっても若々しくて、素敵な人の匂いだよ!」
「なんでそこまで断定できるんだ!?」
匂いだけで相手の特徴まで嗅ぎ当てる娘にびっくりする。
この子はたまに、人間を越える。身体能力とか、知能とか、サーシャ譲りの才能を発揮するときがある。
生まれつき五感も鋭いのだろう。
あと、五感を越えた超感覚もあるみたいだ。匂いで個人まで特定されそうになって、俺は焦った。
「え、えっと、あれだ。仕事先の関係者が女性だったんだ……し、心配しないで大丈夫だぞ? お話したのは、全部仕事のことだから!」
少し嘘をついているけど、素直にソフィアさんと会っていたことを伝えるのは、ちょっと抵抗があった。
さつきとソフィアさんは、もう長らく顔を合わせていないのだ。
ちょっと話がややこしくなるので、あえて詳細を伏せたのである。
「……パパ、浮気してない? わたしの他に、女ができてたりしない?」
#名誉回復
空乃 美晴
1,141
you
89
雨晒しの原稿用紙
163
「浮気って……いや、なんでもない。まぁ、うん。付き合っている女性や、好きな女性は、いないよ」
「わたしは?」
「世界で一番愛している。娘として、な?」
とりあえず機嫌を取るためにも大好きを伝ておく。
もちろん、俺の愛は親愛であるとはっきり伝えておいたけど、さつきはやっぱり聞いてないようだった。
「うん。わたしもパパの事大好き! 男として、ね!」
俺の気持ちを聞いて、さつきは笑ってくれた。良かった、機嫌が直った!
愛は重いし、ちょっとめんどくさいけど、基本的にさつきは扱いが簡単な女の子なのである。
「やれやれ……まぁ、いっか」
好きという認識にも大きな齟齬があるのだが、訂正はもう諦めているので、スルーすることにした。
「そういうわけだから……そろそろ離れてくれないか? お父さん、そろそろ玄関じゃなくて、リビングでゆっくりしたいなぁ」
今の俺たちは、玄関抱き合っている状態だ。
正確に言うなら、さつきがしがみついているのだが。
「や! 今、いっぱいすりすりして、わたしの匂いをこすりつけてるのっ。マーキング中だから、離れないもん!」
さっきからやけに体をこすりつけていると思ったら、そんな変なことをしていたみたいだ。
「他の女の匂いを上書きするのっ」
一生懸命、すりすりしてくる娘は可愛いけれど。
「さつきの将来が心配だ……」
この子に愛される男は、果たしてこの重い愛を受け止めることができるのか。
それがものすごく、不安になってしまうのだった――
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