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あれは、恭香が入社してまだ間もない頃だった。
当時、父さんに呼ばれて会社に行くことがたまにあった。
俺はカメラマンとしていろいろ経験を積んで、同時に経営学なども学んでいた。
いずれは父さんが死ぬ思いで築いた『文映堂』を、一人っ子の俺が跡を継いで守らなければならない。
そう強く思っていた。
たまに会社に行って会議に出たり、取引先の役員に顔つなぎをしてもらったり、将来に向けての修行も始まっていた。
俺のことは、会社でも役員クラスのごく一部の人間しか知らなかったと思う。
ある日、俺は会議に参加しようと部屋に向かっていた。
その時、一人の女性に出会った。
というか、離れた場所から俺が一方的に見ていた。
その女性は、事務の仕事をしているのか、会議に出すお茶を給湯室で準備していた。
「ちょっと! 何してるの!」
「す、すみません! 手が滑ってしまって」
「あ~あ、もうちゃんとしてよ! こんなにこぼして。時間が無いのよ、わかってる? 遅れて怒られるのは私なんだからね」
きっと先輩なんだろう。
誰も聞いていないと思って、とても冷たい声でその女性を叱りつけている。
「す、すみません! すぐ入れ直します」
「ほんと、まったく使えな~い。だから新人は嫌なのよね。お茶のひとつもまともに入れられないなんて、『文映堂』ともあろう会社がどうしてこんな人を雇ったんでしょ。面接官の顔が見たいわ」
とても辛辣な言葉。
俺に言わせれば、なぜこんな女性が『文映堂』にいるのかが不思議だ。
会社の品格まで疑われてしまう。
こういう女性は苦手……いや、嫌いだ。
きっと、面接では上手く立ち回ったに違いない。様々な角度から人柄を見抜く力を養うことも、我々経営側には必要だと思った。
先輩の女性は、「終わったら呼んで」と言ってどこかに行ってしまった。
20個以上のお茶を準備しながら、その女性は言った。
「うん……大丈夫。頑張ってたらいつかきっと良いことあるよね」
ポツリとつぶやいたその言葉――
そのひとことが、がむしゃらに頑張り、がむしゃらに生きてきた俺の心に無性に響いた。
疲れた心を優しく癒してくれるような……
そんな感覚でもあった。
会議が始まり、彼女がいれてくれたお茶を飲むと、本当に美味しくて心からホッとした。
今までお茶を飲んでも、誰かにここまで感謝したことが無かった自分を恥じた。当たり前ではないのだと、勉強させてもらえた。
こうして心を込めて入れてくれる人がいることを肝に銘じなければ、一流の経営者にはなれないのだろう。
それから、何度かそういう機会があって、先輩の女性が、いかにも自分がいれたかのように愛想をふりまいていたのは気に入らなかったが、そんなことよりも、彼女の優しくおだやかな笑顔を見るのが毎回楽しみになっていった。
いつしか彼女は、別の部署に異動になってしまったようだったが、その頃にはもう、俺の気持ちの中には……森咲 恭香がいた。
以前の俺は、黒髪短髪で少しヒゲもあって眼鏡をかけていたから、今とは雰囲気もずいぶん違う。
恭香はあの時の俺だとは、全く気付いていないようだ。あんな大勢の中に混ざっていて、しかも、一生懸命動いていたのだから、気づかなくても仕方がない。
俺は、生まれて初めて……
一目惚れをした。
話したこともない彼女に――
恭香の優しい笑顔に俺は惹かれてしまった。
なのに、昔から上手く女性に話しかけられない俺は、今でもいろいろな人に怖い人だと思われてしまう。
恭香も……例外ではないだろう。
早くに母を亡くして、そういうことを感覚的に教えてくれる人が居なかったからなのか。
せっかく勇気を出して強引にアタックして、何とか一緒に住むようになったというのに、俺の本当の想いはまだ何も彼女には届いていない。
言葉にしたくてもできない。
嫌われてしまうのがたまらなく怖い。
初めて本気で好きになった人だから。
本当に、情けない男だ。
よくこんな人間が未来の『文映堂』の社長などと言われているものだ。
恭香には、いつかはちゃんと言わないとな。
「ずっとずっと一途に君だけを愛していた」と。