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あれは、恭香がまだ入社して間もない頃だった。
当時、父さんに呼ばれて会社に行くことがたまにあった。
俺はカメラマンとしていろいろ経験を積んで、同時に経営学なども学んでいた。
いずれは…
父さんが死ぬ思いで築いた文映堂を、一人っ子の俺が跡を継いで守らなければ…
そう強く思っていた。
たまに会社に行って会議に出たり、取引先の役員に顔つなぎをしてもらったり、将来に向けての修行も始まっていた。
俺のことは、会社でも役員クラスのごく一部の人間しか知らなかったと思う。
ある日、俺は会議に参加しようと部屋に向かっていた。
その時、一人の女性に出会った。
と、言うか、俺が一方的に見てたんだ。
その女性は、事務の仕事をしてるのか、会議に出すお茶を給湯室で入れてくれていた。
『ちょっと!何してるの、ちゃんとしてよ!』
先輩なんだろう…
冷たい声でその女性を叱りつけている。
『すみません…入れ直します』
『まったく本当に使えな~い。だから新人は嫌なのよね』
辛辣だ。
こういう女性は正直…
苦手だ…
いや、嫌いだ。
先輩の女性は、
『出来たら呼んで』
と、言ってどこかに行ってしまった。
二十個以上のお茶を入れながら、その女性は言ったんだ。
『頑張ってたら良いことあるよね、絶対に』
ポツリとつぶやいたその言葉。
そのひとことが、がむしゃらに頑張って、がむしゃらに生きてきた俺の心に無性に響いた。
疲れた心を優しく癒してくれるような…そんな感覚でもあった。
彼女がいれてくれたお茶は本当に美味しくて…
ホッとした。
それから、何度かお茶をいれてもらう機会があって…
先輩の女性が、いかにも自分が入れたように愛想をふりまいていたのが気に入らなかったが、そんなことより彼女の優しくおだやかな笑顔を見るのが、毎回楽しみになっていった。
いつしか彼女は、別の部署に異動になってしまったようだったが、その頃にはもう、俺の気持ちの中には…
完全に…恭香がいたんだ。
以前の俺は、黒髪短髪で少しヒゲもあって、眼鏡をかけてたから、今とは雰囲気もずいぶん違うんだろう。
恭香はあの時の俺だとは、全く気付いていないみたいだ。
俺は、生まれて初めて…
一目惚れ…をした。
話したわけでもない彼女に…
ただ、恭香の優しい笑顔に…
俺は惹かれてしまったんだ。
でも…
俺は、昔から上手く女性に話しかけられないところがある。
そのせいで恭香には怖い人だと思われてる…だろうな。
早くに母を亡くして、そういうことを感覚的に教えてくれる人が居なかったからなのか…
今、強引に恭香にアタックして一緒に住むようになったが…
俺の本当の想いは、まだ何も言葉に出来ていない。
したくても、出来ない…
情けない男だ。
恭香に…
いつかはちゃんと、好きだって…
言わないとな。
結婚も、もちろん考えている。
俺は恭香と暮らして、二人でもっといろんな世界を見たい。