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リフェアリー
128
十月。甲府の会長が、木曽に来た。
飛脚でも、蝋で封じた手紙でもなかった。本人が、来た。七十近い男が、二百キロを、二週間かけて歩いて。塩尻峠は、通れなかった。山を、迂回した。
会長は、峠の小屋の机の前に座ると、しばらく、何も言わなかった。
「市が、終わった」
それだけ言って、また、黙った。
要は、待った。
「九月の終わりだ」会長は、ようやく続けた。「御殿が、米を止めた。倉庫を閉めた。『評判台帳を、三冊とも渡せ。渡せば、米を出す』と。おれは、渡さなかった。二冊は、諏訪と木曽にある。渡せない。三週間、市は、御殿の米なしで、持った。四週目に、持たなくなった」
「それで」
「市の人間が、御殿に行った。御殿は、米を出した。ただし、御殿の台帳に、名前を書いた者にだけ。御殿の台帳は、おれが渡した一冊だ。あんたの言うとおり、御殿は、それを書き換えてた。御殿に逆らった者は、バツ。御殿に従った者は、丸。市の人間は、丸が欲しくて、御殿の台帳に、名前を書いた」
「残りの二冊は」
「生きてる。諏訪と木曽に。でも、甲府の人間は、もう、それを見ない。見えないから。目の前にあるのは、御殿の台帳だけだ。目の前の台帳で、米がもらえる。二百キロ先の本物の台帳では、米はもらえない」
要は、何も言えなかった。
三冊に分ける。一冊が書き換えられても、二冊が残る。それが、仕組みだった。仕組みは、正しかった。二冊は、残った。
でも、残った二冊は、二百キロ先にあった。甲府の人間の目の前には、なかった。目の前にない台帳は、ない台帳と同じだった。
「おれの負けだ」会長は言った。「いや、あんたの仕組みの負けじゃない。おれの負けだ。あんたは、二冊を遠くに置けと言った。おれは、置いた。でも、遠くに置いた二冊を、甲府の人間に、見せる方法が、なかった。飛脚で写しを運んでも、一週間かかる。一週間前の台帳と、目の前の御殿の台帳。腹が減ってるやつは、目の前を選ぶ」
「……会長の負けじゃないです」
「じゃあ、誰の負けだ」
要は、答えられなかった。
*
夜、要は、一人で、峠の小屋にいた。
壁の十二条を見た。二条。『一冊を信じるな。三冊を、三つの村に分けよ』。正しかった。でも、足りなかった。三冊を分けても、目の前にある一冊が、人を動かす。遠くの二冊は、人を動かさない。
遠さ。
要は、ずっと、遠さを、信用の敵だと思っていた。遠くの他人を、記録だけで信用する社会が、終わった。だから、近くに戻す。十キロに。顔の見える距離に。それで、壊れないものを作る。
でも、遠さは、守りにも使っていた。三冊を遠くに分ける。書き換えに行くのに二日かかる。その二日が、守りだった。
守りに使った遠さが、今度は、弱さになった。遠くの台帳は、見えない。見えない台帳は、使えない。
「……両方だ」要は、つぶやいた。
遠くに置くのは、正しい。でも、遠くに置いた台帳を、近くで見えるようにする方法も、要る。写しを、毎日、運ぶ。飛脚を、毎日。遅い。でも、一週間ではなく、一日なら、腹が減る前に、届く。
それが、できていれば、甲府は、持ったかもしれない。たぶん。
要は、ノートを開いた。九、遠隔。蝋と、二人の印と、合言葉。それは、手紙が本物かどうかを確かめる方法だった。台帳の写しを、毎日運ぶ方法ではなかった。
九が、足りなかった。
「要さん」
つむぎが、戸口に立っていた。
「会長さん、眠った。ひかりちゃんの家で」
「そうか」
「落ち込んでる?」
要は、少し考えてから、言った。
「落ち込んでる。でも、それより、わかったことがある」
「何」
「御殿は、僕の仕組みを、使ってる。三冊。評判台帳。現金。全部。権田さんは、僕が言ったことを、全部、やってる。やって、甲府を取った」
「じゃあ、要さんの仕組みは、御殿のものになった?」
「半分、なった」要は言った。「道具は、誰が使うかで、変わる。権田さんは、僕の道具を、権田さんの秩序のために使ってる。僕は、止められない。道具は、止められない」
「じゃあ、どうするの」
要は、壁の十二条を見た。十二条。『守れると思うな。侵入される前提で、それでも回る形を作れ』。
御殿が、要の道具を使うのは、侵入だ。道具が、侵入された。
侵入されても、回る形は、何か。
「道具じゃないものを、作る」要は言った。
「道具じゃないもの?」
「道具は、誰でも使える。三冊も、台帳も、証も。権田さんにも使える。でも、権田さんに使えないものが、一つある」
「何」
「顔だ」要は言った。「権田さんの御殿は、権田さんの顔で持ってる。権田さんが倒れたら、終わる。市は、違う。四人の長の顔で持ってる。一人倒れても、三人が残る。それと、君の顔だ。君が覚えた千五百人の顔。それは、権田さんには、盗めない」
つむぎは、少し、驚いた顔をした。
「私の顔が、仕組み?」
「仕組みじゃない。仕組みの、前にあるもの。〇だ。目だ。権田さんは、台帳を取れる。証を真似できる。でも、君の目は、取れない」
要は、ノートの、〇を見た。四月に書いた。『〇、目』。
「甲府には、君がいなかった。会長は、顔を覚える人を、持ってなかった。だから、台帳だけで戦った。台帳は、取られた」
つむぎは、長い間、黙っていた。
「……私、一人しかいない」
「知ってる。だから、増やす。君みたいに、顔を覚える人を。四つの村に、一人ずつ。君が、教える」
「教えられるかな。私、生まれつきだから」
「生まれつきの分は、教えられない。でも、見る癖は、教えられる。漉き目を見る。朱の色を見る。顔を見る。君は、米屋の全員に、それを教えた。四月に」
つむぎは、うなずいた。
外は、秋の夜だった。甲府の市は、終わった。でも、二冊の台帳は、諏訪と木曽にあった。甲府の人間が、いつか、取りに来られるように。
コメント
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第43話、すごく重くて美しい回でしたね…。甲府の会長が歩いて報告に来る姿から、もう胸が詰まりました。「遠くの台帳は見えない」――要の作った仕組みが、完璧に見えて、実は「距離」という弱点を抱えていたんだなって。そして要が気づく、「道具じゃないもの=顔」という答え。つむぎさんの目は確かに盗めない。仕組みの前にある"〇"を彼女が体現している感じがして、じんわりきました。