翌日、奏太は友と共に大学のゼミ室へ向かった。
久々のゼミ室は、以前と変わらず、壁には過去の作品のポスターが貼られ、古いカメラやフィルムが並んでいる。
「お前が戻ってきたって言ったら、みんな驚くぞ。」
友が笑いながら肩を叩いた。
ゼミ室のドアを開けると、すでに数人のメンバーが集まっていた。
その中に、一人の女性がいた。
黒髪を後ろで束ね、鋭い眼光を持つ彼女。
長めのカーディガンの袖を腕まくりし、腕組みをしながらパソコン画面を睨んでいた。
喜以(きい)。
彼女は脚本担当としてゼミ内でも厳しい評価を下すことで有名だった。
些細なミスでも許さず、納得できないシナリオは徹底的に突き返す。
その反面、彼女の手がけた脚本は、確実に質の高い作品へと仕上がる。
奏太が入ってくると、喜以は冷ややかな視線を向けた。
「……久しぶりね。」
その声には、懐かしさも喜びも感じられなかった。
「まあな。」
奏太が曖昧に答えると、彼女は腕を組み直し、さらに視線を鋭くした。
「それで?あなた、また映画を作る気になったわけ?」
「……そうだ。」
「なんで?」
突然の問いに、奏太は戸惑った。
「なんでって……映画が好きだからだ。」
喜以は鼻で笑った。
「今までゼミにも来なかったくせに、いきなり復帰して何を撮るつもり?」
彼女の言葉には、どこか棘があった。
だが、それはただの意地悪ではなく、彼に対する疑問と苛立ちが混ざっているようにも感じられた。
友が間に入る。
「まあまあ、喜以。奏太にもいろいろあったんだよ。」
「いろいろ? 具体的に何が?」
喜以は、奏太の目をじっと見つめた。
彼女は感情ではなく、事実を知りたがる性格だ。
適当な言葉では、誤魔化せない。
奏太は、一瞬だけ迷った。
——ここで言うべきか?
「……俺、病気なんだ。」
その言葉に、ゼミ室が静まり返る。
「……え?」
喜以の表情が、わずかに揺れた。
「余命、長くて一年だって。」
その事実を告げると、空気が変わった。
友は俯き、他のメンバーも言葉を失う。
だが、喜以だけは違った。
彼女は静かに腕を組み直し、低い声で言った。
「だから?」
「……え?」
奏太は、思わず聞き返した。
「だから何? それが映画を作る理由?」
喜以の目には、一切の同情がなかった。
「病気だからって、急に『最後の作品を撮りたい』とか、そんな理由で戻ってきたわけ?」
彼女の言葉は、あまりにも鋭かった。
他のゼミ生たちが息を呑む中、友が口を開く。
「おい、喜以! それは言いすぎだろ!」
「違うわ。」
彼女は静かに友の言葉を遮った。
「私は、映画が撮りたい人間のために脚本を書いてるの。」
喜以は奏太をまっすぐに見つめる。
「あなたが本当に撮りたい映画は何? それを明確に言えないなら、私の時間を無駄にしないで。」
冷たい言葉だった。
しかし、彼女の目には確かな信念が宿っていた。
生半可な覚悟では、映画を作る資格などない。
それは、喜以なりの「映画に対する愛情」だった。
奏太は、拳を握りしめた。
確かに、彼の動機は曖昧だった。
「最後に何かを残したい」という漠然とした想い。
だが、それだけで映画は撮れるのか?
——違う。
映画は、作り手の魂を映すものだ。
本気で何かを伝えたいと思わなければ、観る者の心には響かない。
「……俺は……。」
奏太は、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、自分が生きた証を残したい。」
「証?」
「俺がここにいたこと。俺が何を感じて、何を伝えたかったのか……それを形にしたい。」
喜以は、黙って彼の言葉を聞いていた。
「病気だからじゃない。ただ、俺は、俺が生きた証をこの世界に残したいんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、喜以は初めて少しだけ表情を緩めた。
「……悪くないわね。」
それは、彼女なりの認める言葉だった。
喜以は椅子に座り直し、パソコンを開いた。
「じゃあ、テーマを決めましょう。」
「え?」
「あなたの映画、私が脚本を書くわ。」
奏太は、驚きで言葉を失った。
「……いいのか?」
「当然よ。私が書きたいと思える作品ならね。」
喜以は、クスッと笑った。
「あなた、本当に厳しいわね。」
友が苦笑しながら言うと、喜以は肩をすくめた。
「中途半端な作品なんて、作る意味ないでしょ?」
そう言いながら、彼女は画面に何かを打ち込み始めた。
「さあ、最高の映画を作るわよ。」
奏太は、久々に心が震えるのを感じた。
彼は、まだ終わっていない。
今ここから、最後の映画作りが始まる。
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