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#BL
HIKARI
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夜の九時を過ぎると、この街は少しだけ正直になる。昼間は誰もが何かを急いでいる。駅へ向かう人も、信号が変わるのを待つ人も、誰かと並んで歩きながら笑っている人も、みんな自分の行き先を知っているような顔をしている。けれど、夜が深くなるにつれて街から少しずつ音が減っていくと、取り繕うことに疲れた人たちが、行き場をなくした気持ちを抱えて歩いているのがわかる気がした。
俺の働く小さな書店は、駅から十分ほど離れた商店街の外れにある。大通りから一本入っただけなのに人通りは少なく、隣の喫茶店が閉まると、通りには古い街灯と店の看板だけが残る。新刊が平積みされた大きな書店とは違い、棚と棚の間は狭く、奥へ進むほど照明が薄暗くなる。雨の日には古い木の床が湿気を吸って、紙と土の匂いが混ざった。売り場の隅には、前の店主が置いていったらしい古い椅子が一脚ある。誰も座らないのに、なぜか撤去されることもなく、ずっとそこにあった。
俺はこの店が好きだった。
本は、読んだ人の事情を勝手に決めつけたりしない。途中で閉じても、最後まで読めなくても、何年も放っておいてから続きを開いても、文句ひとつ言わない。どんなにひどい読み方をしても、前に読んだときとは違う感想を抱いても、それを間違いだとは言わない。人間同士なら当たり前にできるはずのことが、本の中ではひどく簡単に叶えられる。そのことに救われていると認めるのは、少し悔しかった。
午後から降り始めた雨は、閉店時間が近づいてもやまなかった。
俺はレジの横に積まれた返本予定の本を整理しながら、壁の時計を見た。九時十二分。閉店まで、あと十八分。そろそろ入口の看板を裏返そうかと考えていたとき、ガラス戸の向こうに人影が差した。
ベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、見覚えのある男が立っていた。
濡れた髪を片手でかき上げながら、男は店内を見渡した。黒い上着の肩には雨粒が残っていて、手には何も持っていない。傘を持っているのかどうかもわからないまま、彼はいつものように、まっすぐ奥の棚へ向かった。
佐野さん。
心の中でそう呼ぶようになったのは、いつからだっただろう。
最初に来た日も、たしか雨だった。何を探しているのか尋ねたら、少し考えたあとで「なんか、今の自分が読んだほうがいい本」と答えた。あまりにも曖昧な注文に思わず笑ってしまったけれど、彼は困ったように笑うだけで、冗談にして逃げたりはしなかった。
結局、その日は一冊の小説を勧めた。
翌週、彼は同じ時間に現れて、その本を買った。さらに次の週には、読み終わったことを報告してきた。感想はひどく簡潔で、「よかったです」と、それだけだった。俺が「どこがですか」と聞くと、彼は少しだけ黙り、「最後のほう」と答えた。
「それ、ほとんど何も言ってないのと同じじゃないですか」
「そうかな」
「そうですよ。次来るときまでに、もうちょっと考えてきてください」
「宿題?」
「そうです。うち、感想文の提出が必須なんで」
そんなやり取りをしてから、彼は何度もこの店に来るようになった。
毎週決まった曜日というわけでもない。必ず本を買うわけでもない。それなのに、気がつけば俺は、夜の九時を過ぎた頃に入口のベルが鳴ると、無意識に顔を上げるようになっていた。
もちろん、本人には言っていない。
そんなことを知られたら、きっと面倒なことになる。
「佐野さん、今日も来たんですね」
奥の棚へ向かいかけた背中に声をかけると、彼は振り返った。
「来ちゃだめだった?」
「いえ。そろそろ店じまいなんで、何も買わないなら追い出そうかなって」
「ひどくない?」
「商売なんで」
「じゃあ買う。何買えばいい?」
「俺に聞くんですか、それ」
彼は声を立てて笑った。俺もつられて笑う。そうしている間に、店内に流れていた静かな音楽が、やけに遠く感じられた。
佐野さんはいつも、こういう何でもない会話を楽しそうにする。俺が適当なことを言っても、わざと意地悪な返事をしても、面倒くさそうな顔をしない。むしろ、俺が次に何を言うのか待っているようなところがあった。
不思議な人だと思う。
俺は、誰かと親しくなるのが得意だった。
相手が何を言ってほしいのか、どんな言葉をかければ笑うのか、どこまで踏み込めば喜ばれて、どこから先は嫌がられるのか。そういうものを考えるのは、息をするのと同じくらい自然にできた。相手に合わせて声の調子を変えたり、冗談を言ったり、少し大げさに驚いてみせたりする。そうすると大抵の人は、俺と話すことを楽しいと思ってくれた。
好かれることは難しくない。
難しいのは、好かれたあとだった。
相手が自分のことをもっと知りたがったとき。何でもない会話の隙間に、隠していたものがこぼれそうになったとき。こちらが何かを与えるだけでは済まなくなったとき。
俺はいつも、その少し手前で立ち止まる。
それなのに、佐野さんは時々、俺が立ち止まったことに気づいているような顔をした。
「……仁人?」
名前を呼ばれ、俺は我に返った。
「え?」
「いや、ぼーっとしてたから。疲れてる?」
「全然。佐野さんこそ、こんな時間まで何してるんですか。暇なんですか?」
「仁人に会いに来た」
あまりにも自然に言われたので、最初は意味がわからなかった。
それから、遅れて言葉の意味が頭に届く。
「……うわ。そういうこと、さらっと言うのやめてもらっていいですか」
「なんで?」
「勘違いする人いるんで」
「誰が?」
「俺とか」
冗談だった。
いつもどおりの、軽い冗談。相手が笑えばそれで終わるし、少し困った顔をされても、すぐに別の話題へ移れる。俺はそういう言葉を、これまで何度も使ってきた。
けれど佐野さんは、笑わなかった。
「……仁人なら、勘違いしてもいいけど」
店の奥で、古い時計が秒針を進めていた。
雨の音が、さっきよりも大きくなった気がした。
俺は何か返そうとして、うまく言葉を見つけられなかった。こんなときに何を言えばいいのか、知らないわけじゃない。適当に笑って、からかい返して、相手が本気なのか冗談なのかわからないままにしておけばいい。それなのに、目の前の男は、俺が逃げ道を探していることまでわかっているみたいに、ただ静かにこちらを見ていた。
先に視線を逸らしたのは、俺だった。
「……本、選ぶんじゃなかったんですか」
「そうだった」
佐野さんは、何事もなかったように棚へ向かった。
その背中を見送りながら、俺は手元の本に視線を落とした。文字はひとつも頭に入ってこなかった。
会いに来た。
たったそれだけの言葉が、こんなにも厄介なものだとは思わなかった。
俺は誰かに会いたいと思うことを、ずいぶん前にやめたはずだった。
待たなければ、来ないことに傷つかずに済む。求めなければ、与えられなかったことを悲しまなくて済む。最初から自分ひとりで何とかできる人間になってしまえば、誰かの気まぐれに人生を左右されることもない。
そうやって生きてきた。
それなのに最近、閉店間際のベルが鳴るたび、ほんの少しだけ期待してしまう。
そのことを、俺はまだ誰にも知られたくなかった。
ましてや、本人には。
「仁人、これにする」
佐野さんが一冊の本を持って戻ってきた。
表紙を見て、俺は思わず眉を上げる。
「……それ、前にも勧めませんでしたっけ」
「そうだっけ?」
「そうですよ。俺が好きなやつ」
「じゃあ、もう一回読んでもいいかなって」
「感想、言いました?」
「言ったよ」
「何て?」
彼は少し考えてから、困ったように笑った。
「仁人が好きなもの、もうちょっと知りたいって思った」
今度こそ、俺は何も言えなかった。
彼は本をレジに置き、財布を取り出した。俺は値段を告げ、会計を済ませ、いつもどおりに紙袋へ入れた。手渡すとき、指先がほんの少し触れた。
たったそれだけのことだった。
それなのに、彼が店を出ていったあとも、俺はしばらくレジの前から動けなかった。
ガラス戸の向こうを、佐野さんが傘も差さずに歩いていく。少し先で立ち止まり、鞄から折り畳み傘を取り出した。ちゃんと持っていたらしい。俺はなぜか、それを見てほっとした。
雨の中、彼の背中が小さくなっていく。
ベルが鳴り、店内はまた静かになった。
俺は閉店の札を裏返し、入口の鍵をかけた。それから、いつものように照明をひとつずつ消していった。最後に残ったレジ横の明かりの下で、さっきまで佐野さんが立っていた場所を見た。
会いに来た。
もう一度、その言葉を思い出す。
馬鹿みたいだと思った。客が店員に会いに来ることくらい、別に珍しくもない。俺が勝手に意味を見つけて、勝手に期待しているだけだ。そうやって自分に言い聞かせることなら、いくらでもできた。
それでも、胸の奥に生まれた小さな熱は、簡単には消えてくれなかった。
俺は鞄を肩にかけ、店の明かりをすべて落とした。
暗くなった店内で、窓の向こうの街灯だけが、棚の背表紙をぼんやりと照らしていた。
帰り道、スマートフォンを取り出す。
通知は何もなかった。
当たり前だ。誰かからの連絡を待っていたわけじゃない。そう思いながら画面を閉じようとして、指が止まった。
連絡先の一覧には、もう何年も開いていない名前がひとつ残っていた。
消せなかったのか、消したくなかったのか、自分でもわからない。
その人の名前を見ると、今でも時々、あの頃の自分を思い出す。
誰かに頼ることを、恥ずかしいと思わなかった頃。
明日も会えると、疑わずにいられた頃。
あの人は、俺が初めて、自分から助けてほしいと思った相手だった。
何でもない話をするために連絡して、何でもない顔で隣に座って、どうしようもなく苦しいときには、理由を説明しなくても隣にいてくれると信じていた。俺はその人の前でだけ、うまく笑おうとしなくてもよかった。
それが、いつから変わってしまったのか。
今でも、はっきりとは思い出せない。
覚えているのは、最後に見た背中と、何度送っても返ってこなかった言葉と、自分の中に残された問いだけだった。
どうして。
たったそれだけのことを、俺は何年も聞けずにいる。
俺は画面を伏せ、ポケットにしまった。
雨はまだ降っていた。
明日も、佐野さんは来るだろうか。
そんなことを考えた自分が、ひどく嫌だった。
誰かが来ることを期待するのは、来なかったときに傷つく準備をすることだ。誰かの言葉を信じるのは、いつかその言葉が嘘になる可能性まで引き受けることだ。
俺はもう、そんなことをするつもりはなかった。
誰かを特別にしなければ、その人を失うこともない。
誰かに自分を預けなければ、置き去りにされることもない。
そうやって生きていくと決めたはずだった。
それなのに、翌日の夜。
九時を少し過ぎた頃、入口のベルが鳴った瞬間、俺は考えるより先に顔を上げていた。
そこに立っていたのは、佐野さんだった。
「こんばんは、仁人」
昨日と同じ声。昨日と同じ、少し困ったような笑顔。
まるで、俺が彼の来る時間を気にしていたことなんて、知るはずもないという顔で。
「……いらっしゃいませ」
俺はいつものように笑った。
それが始まりだった。
この人が来る夜を、待つようになった。
そして、いつかその夜が来なくなることを、何よりも恐れるようになった。
まだ、このときの俺は知らなかった。
人を好きになることよりも、人を好きになってしまった自分を許すことのほうが、ずっと難しいのだということを。
コメント
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雨の夜の書店の雰囲気がとてもよくて、特に最後の一文が胸にしみました……。あの仄かな灯りの下で、本を手渡す指先が触れるだけのやり取りが、逆にとても甘いし、切ない。佐野さんの「仁人が好きなものをもうちょっと知りたい」は不意打ちすぎますね。二人の距離が少しずつ縮まる感じが、雨の夜と重なってとても美しかったです。