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校舎の窓は薄曇りの空を飲み込み、光は柔らかいまま、しかしどこか落ち着かない。 綾音は渡り廊下の端に立ち、昨日までよりも少し深く呼吸を数えた。胸の奥に残る歌は、もう恐怖の輪郭だけじゃない。温度になり、裏返しの安らぎになり、時々、彼女の喉を震わせて名前の手前でほどける。 「闇より深く、光より静かに」——一節が、彼女の背骨に沿ってまっすぐ降りてくる。指先は冷たい手すりの感触を覚えながら、ほんの少し、誰かを呼ぼうとした。
廊下の角で、姫歌は影を浅く広げる。黒いコートの裾が風を受け、床の光を丸く削っていく。 彼女の中では、歌と沈黙が重なり、祈りとためらいが同じ色になった。近づけば夢が濃くなる。離れれば孤独が濃くなる。選ぶのはいつも、重さの違う痛みだった。 姫歌は一歩を踏み出し、そこで止まり、目を上げて綾音の横顔を見た。
「綾音」 名前は、風より静かに届いた。綾音はわずかに振り返り、目の奥の揺れを整える。 「…聞こえる。昨日より、はっきり」 姫歌は頷く。言葉の代わりに、小さく笑う。その笑いは、影の縁で光った。
放課後、二人は図書室の古書棚へ降りた。紙の匂いは夕方の色を吸い込み、ページの隙間が風を撫でる。 綾音は擦り切れた表紙に指を置き、挿絵の黒い布を見つめる。炎を飲み込む瞬間だけが永久に切り取られた絵。昨日よりも近い。遠いまま、近い。 姫歌は隣でページの角を整え、視線を下げる。指先から滲む霧は、音のように触れれば消えた。
古い記録の引き出しを開くと、黄ばんだ紙片が一枚、斜めに立ったまま止まっている。綾音がそっと抜き取り、息を吸った。 「事故の記録…十年前。校内火災。避難誘導——未記名の『影』による救助の証言」 姫歌のまつ毛が、光に短く震える。記録は名前を持たないまま、影だけを残していた。紙の端には薄く走り書きがある。 『闇より深く、光より静かに』 綾音は文字をなぞり、喉の奥で歌がほどけるのを感じた。彼女は目を閉じ、短く息を吐いた。
「怖いのに、手を離せない。…この歌、私を泣かせないの。泣く手前で止まって、胸に落ちてくる」 姫歌は視線を上げ、綾音の横顔の輪郭をまっすぐ拾う。声にしない頷き。 沈黙は、優しさの形をとった。
まどかがドアの隙間から顔を出す。空気の重さに気づいて、すぐに笑って見せた。 「今日、カフェアメ多めに買ったの。机の上、置いとくね」 綾音は小さく頷き、そのあいだの沈黙に救われた。
夜、綾音は夢の手前で目を閉じた。 炎は遠く、影は近く、歌は額に触れてくる。言葉ではなく、息で紡がれる一節が、喉に降りて名前の形になる。 彼女は初めて、それを拒まなかった。拒むことで守ってきた時間を、ひとつだけ手放した。 「…姫歌」 声は夢の縁を割らず、静かに落ちた。影が揺れ、温度が柔らかく彼女を包む。砕ける音はしない。代わりに、水が壁を削るような細い音が、遠くで続いた。
同じ夜、姫歌は屋上で目を閉じ、塔を低くした。 影の翼は床に丸く広がり、風が歌の断片を拾っていく。 「わたしが名を持つことは、彼女に痛みを運ぶかもしれない。それでも、鍵になるなら」 姫歌は指先に霧を括り、祈りを静かに折りたたんだ。 闇より深く、光より静かに。 彼女は、その一節を自分の名に結び始めた。
翌朝、綾音は早く席につき、窓の曇りの向こうを見た。 まどかが机に小さなキャンディを置く。言葉はない。 甘さが、今日を少しだけ軽くした。綾音は包み紙の端を指でなぞり、小さく笑う。
前列では風間凛がプリントを配り、時々こちらを見る。踏み込まない視線。 踏み込まないことは、優しさの種類の一つ。 翼は何も言わずに通りかかり、机にバンドエイドを一枚、置いていった。意味はなく、意味があった。 綾音は受け取り、胸の奥で歌を整える。名前を持つ準備を、誰も知らない支えの中で続けた。
姫歌は教室の端で静かに息を沈め、影を薄く保つ。夢を濃くしすぎない距離。孤独を濃くしすぎない距離。 その中間に、彼女は立っていた。
昼休みの終わり、理科室で試験準備が始まる。器具は光を持ち、薬品棚は整列する。 教師の注意は丁寧で、空気は規則に沿って動く。だが、奥底に小さなひびが走っていた。過去より小さく、未来より近いひび。 綾音は廊下の隅で深呼吸を繰り返す。逃げない。怖いけれど、逃げない。それは昨日よりも強い約束だった。
最初に揺れたのは、音だった。 熱ではなく、音の波がガラスを張り詰め、ビーカーの水面が静かに立ち上がる。 白い蒸気が輪郭を持ち、狼の耳のように跳ねて廊下へ逃げる。 教師の声は遠くでほどけ、生徒たちの足音が一拍ずれて重なる。 綾音の視界は細くなり、胸の奥で歌が震えた。壁に背を預け、目を逸らさないと決めた。昨日の約束を、そのまま今日に持ってきた。
影が走る。 姫歌は人の波を割り、窓辺に立った。指先から冷たい霧が滲み、音の輪郭を包む。 霧は翼になり、ひび割れの音を柔らかく折り畳んでいく。 だが今日は、音が強すぎた。 霧の端が揺らぎ、影の翼が一瞬だけ崩れた。姫歌の喉がわずかに震える。抑えていた力の層が、ひとつずれて軋んだ。
綾音はその揺れを見て、息を深く吸った。喉の奥で歌がほどける。言葉にならない一節を、言葉にする。 「——姫歌!」 名前は音の波に真っ直ぐ投げ込まれ、ひびの線に触れて止まった。 霧は整い、影の翼は再び広がり、音は静かに沈んだ。 理科室は呼吸を取り戻し、教師は言葉の遅れに気づかぬまま安堵の気配をつくる。 綾音は目を逸らさず、姫歌は窓辺から振り返る。二人の視線が絡み、昨日よりも近く、今日として新しい距離になった。
騒ぎの後、二人は校舎裏の小さな庭へ出た。草は秋の色をまとい、風は低く流れる。 綾音は息を吸い、姫歌を見る。 「さっき、名前を呼んだ。怖かったけど…そうしないと、どこかが割れてしまいそうで」 姫歌は小さく頷き、地面に丸く影を広げる。指先は震えず、目だけがわずかに揺れた。
「名前は、鍵になる。開ける鍵でもあり、閉じる鍵でもある。…あなたが呼んだことで、音は止まった」 綾音は目を閉じ、歌を胸に落とす。 「姫歌、なの」 薄い声は、土の上でほどけず、そこに留まった。 姫歌は逃げない。彼女の瞳は綾音をまっすぐ拾い、目で頷いた。
綾音の夢の核心に、小さな穴が開く。恐怖は消えない。焦げた匂いも、まだ残る。 だが穴から光が差し込み、黒い影の縁に明星が増える。 綾音は手を伸ばし、姫歌の指先に触れた。温かくて、冷たい。矛盾は形になり、二人の間に橋が架かった。
数日、綾音の夢は走らなかった。炎は遠く、影は側にいて、歌った。 言葉はない。音だけ。 砕ける音の代わりに、遠くで水の音が続く。壁を削る細い水路。やがて、静かな流れに変わる。
昼の教室では、まどかの沈黙が続く。笑いは練習のように柔らかく、綾音の心を乱さない。 翼は余計な言葉を持たず、必要のないバンドエイドを置く。意味はなく、意味がある。 風間凛は空を見上げる癖を増やし、踏み込まない距離を保つ。 それぞれの沈黙が、物語の重さを支え始めた。
姫歌は影を薄くし、近すぎない距離を選ぶ。夢を濃くしすぎないために。 それでも、彼女は決めていた。核心を避け続けることは、綾音の孤独を延長する。ならば、共に歩く。 塔は低く、歌は近い。名前は鍵であり、扉でもある。
三階の地図室。夜の人影はなく、窓の外の街灯が細い線を床に落とす。 姫歌は扉を閉め、影を呼吸させた。指先から滲む霧が、薄い翼になり、塔の輪郭を作る。 彼女は目を閉じ、祈りの断片を息で紡ぐ。言葉は拒まれ、音だけが残った。 闇が温度を持ち、光が沈黙を持つ。影の塔は狭く、高く、彼女の内側をまっすぐ貫く。
頂で見るのは、恐怖。 綾音を傷つける恐怖。嫌われる恐怖。守る誓いが相手を縛る恐怖。 姫歌は目を逸らさず、塔を低くした。 「名前は渡す。すべてではない。けれど鍵になる一節を」 彼女は影を折り畳み、静かに息を吐いた。
翌夕、校舎裏の庭。空は低く、風は止んでいる。 綾音は姫歌と並んで立ち、距離を本一冊分だけ空けた。 「教えて。全部じゃなくてもいい。…触れたい」 姫歌は頷き、指先で影を丸く広げる。土の上に黒い輪ができ、音の気配が柔らかく立ち上がる。
「闇より深く、光より静かに」 姫歌は息で歌い、綾音の胸に音を落とした。 綾音は目を閉じ、そのまま受け取る。震えは小さく、涙は落ちない。音だけが落ちる。 「…姫歌」 名前が鍵穴に入り、静かに回転して止まる。 影の輪はほどけず、むしろ整った。姫歌の瞳に、短い光が宿る。
その瞬間、綾音の夢の核心に、もうひとつ小さな穴が開いた。 恐怖は消えない。焦げた匂いは、まだ残る。 けれど穴から差す光は強くなり、明星は増え、影は薄い温度を持つ。 橋は太くなり、渡れる形をとり始めた。
夜、綾音は夢の中で走らない。影は側にいて、歌う。 水の音は近づき、壁を削る線が広がる。やがて、静かな流れに変わる。 目覚めた綾音は窓を開け、夜の終わりを吸い込んだ。怖いのに、少しだけ安らいだ。
同じ夜、姫歌は屋上で目を閉じた。 塔はさらに低くなり、歌は彼女の内側にも流れる。 誓いは重いまま。だが、その重さを音で分け合えると、彼女は初めて知った。 名を持つ影は、名を持たない祈りとは違う。重さが増す。形が増える。 それでも、渡された音は綾音の胸に落ち、世界のひびを少しだけ遅らせた。
週末に向けて、理科室は神経質に整えられた。器具は光を持ち、薬品は規則を身に纏う。 だが、空気の奥で音のひびは増えていた。過去より近く、未来より鋭いひび。 姫歌はそれを感じ、綾音もまた夢の縁でそれを聞いた。 「来る」 言葉は短く、音は長い。嵐はまだ来ない。けれど、もう近い。
まどかは二人の空気の変化に敏感に気づき、踏み込まない笑いを練習した。 翼は机にバンドエイドを一枚、何度か置いていく。 風間凛は廊下の端で空を見上げ、言葉を飲み込んだ。 それぞれの沈黙が、前触れの重さを支える。
試験前日の午後。理科室の空気が、ふと重く沈んだ。 ビーカーの水面が立ち上がり、何も触れていないガラスが薄く震える。音が先に来る嵐。 教師の指示が遅れ、足音が重なり、息が乱れる。 姫歌は窓辺へ走り、霧を広げた。影は翼になり、音の波を包む。 だが、ひびの線が今日は多かった。霧が軋み、翼の端が裂ける。姫歌は胸の奥で塔を支え、目を閉じる。足りない。名前が足りない。
綾音は壁から離れ、まっすぐ前に出た。 「——姫歌!」 名前は刃にならず、鍵になった。音の波に差し込まれて、ひびの中心で止まる。 もう一度、静かに。 「姫歌」 二度目の呼び声は、影の翼の裂け目を縫い、霧の形を整える。 音は沈み、ガラスは張り詰めた緊張を解き、理科室は息を取り戻した。
教師は現実の説明を持たずに安堵し、生徒たちは拍手のタイミングを失い、ただ黙った。 姫歌は振り返り、綾音をまっすぐ拾う。 綾音は目を逸らさなかった。怖いのに、逃げない。 彼女の胸の奥で歌は静かに落ち、名前の刃は鍵のまま止まっていた。
夕暮れ、校舎の裏庭。風は低く、光は薄い。 綾音は深く息を吸い、姫歌の横顔を見る。 「教えて。全部じゃなくていい。…私、もう逃げない」 姫歌は小さく頷き、影の輪を土に広げた。 「わたしは影。あの時の『影』。…あなたを包んだのは、わたし」 綾音の喉が短く鳴る。涙は落ちない。音だけが落ちる。 「怖い。でも、ありがとう」 姫歌は目を伏せ、そして逃げずに上げた。 「嫌われても、拒絶されても、守る。名前を持って、守る。…それが、わたしの黒い誓い」
綾音は目を閉じ、頷く。 「私は忘れない。あなたの名前を。あなたの影の温度を」 二人の間に、橋が太くなり、重さを支えられる形をとった。
夜。校庭は静まり、月が高い。 姫歌は屋上に上がり、柵に指を置いた。風が髪を揺らし、影が足元で丸くなる。 「闇より深く、光より静かに」 祈りは言葉を拒み、音だけを残す。 綾音は窓辺に座り、星の少ない空を見上げる。耳の奥で、あの旋律が静かに鳴る。 もう、ただの恐怖ではない。恐怖の中に、誰かの温度がある。 彼女は小さく呟いた。 「…姫歌」 返事はない。けれど、笑いが少しだけ生まれる。それで、十分だった。
姫歌は柵から指を離し、手を胸に当てた。 誓いは古い。黒い。重い。 けれど今、それは音になり、月影と混じる。 「守る」 言葉は短く、音は長い。風が歌を運び、夜が静かに頷いた。
静かに進む時間の底で、前触れは形を増す。 理科室の器具は試験に向けて整い、校内は規則を磨く。 どこかに僅かな歪みが生まれ、音のひびは増え、塔の低さが試される。 姫歌はそれを感じ、綾音も夢の縁で聞いた。 歌は鍵になり、鍵は扉を開ける。 扉の向こうに何があるのかは、まだ見えない。 影は守り、光は静かに寄り添う。 二人の距離は近づき、その距離が新たな責任と痛みを生む。
まどかは踏み込まない笑いを続け、翼は無言のやさしさを置く。 風間凛は空を見上げ、言葉を飲み込む。 それぞれの沈黙が、物語の重さを支え、嵐の前で息を潜めた。
——名前は渡された。影は名を持った。 それは始まりであり、前触れでもあった。 やがて来る嵐の中で、呼ぶ声は刃にも鍵にもなる。 今日、綾音は逃げなかった。 今日、姫歌は逃げなかった。 世界は少しだけ、次の扉の前へ近づいた。