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紫陽花色の傘を借りたお礼だと、佐川さんは言った。
俺もそのつもりでエレベーターのボタンを押した。
いつもの五階を通り過ぎ、黄色いランプが最上階の八階で止まる。
ポーン。
手には、居酒屋で「これ好き」と彼女が照れながら教えてくれた、日本酒『立山』の瓶があった。
佐川さんと飲むのは、これが二度目だ。
前回は会社の近くの居酒屋で生ビールのジョッキをぶつけ合っただけだった。
後から同僚が合流してカラオケに行き、酔った彼女はいつもよりずっと明るく笑っていた。
「何だ、佐川さんって意外と明るいじゃん」
「もっと冷たい人かと思ってた」と周りに言われ、彼女は嬉しそうに目を細めていた。
「奈良くん、ありがとう」
「ありがとう?」
「私、周りから冷たいとか、付き合いにくいって言われてたの」
「え、そんなことないじゃん」
「だから……嬉しかった」
「ん?」
「みんなとあんな風に楽しめたのも、奈良くんのおかげだと思う」
「そんなことないだろ」
「そんなこと、あるのよ。ありがとう」
ほろ酔い気分の佐川さんは、エレベーターの中で化粧っけのない白い頰をほんのり赤く染め、手を振った。
俺は五階で降り、その笑顔を見送った。
同じマンション、同じ会社、同じチーム。
距離は、急速に縮まっていた。
──そして今夜。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ、ようこそ、我が家へ」
「なんだよ、我が家って。居酒屋かよ」
俺の手には、再び『立山』の瓶。
初めて訪ねた佐川さんの部屋は、木の柔らかい匂いがした。
玄関にはガラスの小瓶に透明な液体が揺れ、竹串が何本も刺さっていた。
「何、これ。焼き鳥の串?」
「違うわよ。アロマオイルのウッドスティック。……この匂い、嫌い?」
「好きでもないけど、嫌いでもない」
「あ、そ」
その頃にはもう、苗字ではなく名前で呼び合うようになっていた。
「ほら、座って座って!」
「居酒屋じゃん。砂肝ってオヤジかよ」
「うるさい!」
リビングにはベージュの短い毛足のカーペットが敷かれ、脚の短い焦茶のフロアテーブルが置かれていた。
テーブルの上には砂肝の串焼き、枝豆、鶏の唐揚げ、胡瓜と茄子の自家製漬物。
冷蔵庫を開けると、糠味噌の強い臭いが鼻を突いた。
「クッセェ!」
「失礼ね、美味しいのよ!」
派手なネイルのない、ほっそりとした指先が胡瓜を一つ摘み、俺の口元に運ばれてくる。
俺が唇を窄めると、彼女の指先を舌で軽く舐め取ってしまった。
お互い、ぴたりと動きが止まる。
佐川さんはゆっくりと、横長のフレームの眼鏡を外し、テーブルに置いた。
二重の綺麗で、それでいてどこか冷たい――月みたいな瞳が、上目遣いに俺を見つめた。
俺たちは、一線を超えてしまった。
白いTシャツにグレーのボクサーパンツ姿の俺と、余韻を味わうように白いボタンを色味のない爪先で留めている佐川さん。
ベージュの二人掛けソファに肩を寄せ合い、気怠くハイバックにもたれかかっていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
水滴の付いたグラスを回し飲みする。
ミネラルウォーターの冷たさが、熱を持った体に染みていく。
ぎこちない、しかし確かに生まれた親近感。
俺は、金沢にいる瑠璃の顔と、今隣に座る佐川さんの横顔を交互に思い浮かべていた。
その沈黙を、佐川さんは察したらしい。
彼女はそっと右手を俺の手に重ねてきた。
「分かってるわ」
「なにが」
「みんな知ってる」
「なんの事」
「私も知ってる」
佐川さんは、豆の形をした茶色いテーブルの上に置かれたままの、俺のシルバーグレーの携帯電話を指差した。
「待受画面の彼女……金沢支店の満島瑠璃さんだよね」
「……」
「奈良くんに彼女がいること、私、知ってる」
「そっか」
「フロアのみんなに見せびらかしてたし」
「そっか」
「うん」
なら、どうして俺を拒まなかったのか。
俺が怪訝そうな顔をしていたのだろう。
佐川さんはゆっくりと手を離し、ソファの上で立膝になって背中を丸めた。
そして、聞こえるか聞こえないかの、ほんの小さな声で呟いた。
「側にいて欲しい人は、みんな居なくなる」
「いなくなる?」
「好きな人が急に居なくなることが、怖いのよ」
「だから?」
「……中途半端に好きな人が、丁度いいの」
その言葉に、胸の奥がざわりと疼いた。
思わず、俺は彼女の肩を引き寄せていた。
好意を抱く相手が突然いなくなることが怖い――そんな感情を、俺は今まで一度も抱いたことがなかった。
「佐川さん」
「なに?」
「中途半端な恋なら、しない方がいいんじゃないか」
緑色の刺繍が施された葉っぱ模様のベージュのソファを抱えた佐川さんは、小さく頷いた。
「好きだし」俺は膝に肘をつき、頬杖を付いたまま彼女の目を見た。
佐川さんは一瞬呆気にとられた顔をし、すぐに戸惑うように視線をテーブルの上の枝豆に落とした。
「奈良くんが何を言ってるのか、分からない」
「俺もよく分からない」
「ひどっ! 適当!」
「でも……佐川さんのことが、気になる」
彼女の二重の瞼がゆっくりと閉じて開いた。
ぽってりとした唇が、微かに震えるように動く。
「る、瑠璃さんは……?」
「瑠璃には一目惚れした。可愛かった」
「そんな事、聞いてない!」
手のひらで肩を思い切り叩かれた。結構痛かった。
「けれど今は、佐川さんのことが知りたい」
「……」
「瑠璃には一目惚れして、可愛いと思う。でも佐川さんとは、仕事もプライベートも何でも話せるし、相談もできる。信頼してる」
「そう」
「今はそれしか言えない」
「そう」
「でも、好きだ」
「そう……」
瑠璃とは、一目惚れから告白して一ヶ月で付き合い始めた。
それから二年、遠距離恋愛。
燃え上がるような情熱はあったけれど、深い部分での会話はほとんどしたことがない。
実際、瑠璃の家族のこと、生い立ち、何一つ知らない。
俺は、瑠璃という女性の「輪郭」しか知らなかった。
そういう意味では、俺は佐川さんの内面に、確かに惹かれ始めていた。
「片付けようか」
「手伝う」
「うん」
それから俺は枝豆の皮をまとめ、焼き鳥の串を新聞紙で包んでゴミ箱に捨てた。
皿をキッチンに運び、佐川さんがそれを洗う。
二人で「居酒屋我が家」の片付けを終えると、彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「また明日ね」
手を振り、俺は五階へ降りるエレベーターのボタンを押した。
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