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◆◇◆◇
クリニックの自動ドアを出た瞬間
ふっと、足元から力が抜けるようだった。
まるで、全身の骨が溶けてしまったかのように、立っているのがやっとだった。
あんなに怖がっていたのに。
何も終わらなかった。
むしろ、ここからが始まりなのだと、突きつけられたようだった。
「これから」に向き合わなきゃいけない現実を突きつけられて、僕は逃げ出したくなった。
帰りの電車では、ずっと診断書が入ったトートバッグを握りしめてた。
その布地の感触だけが、僕を現実につなぎとめている唯一のものだった。
手汗で、紙の端がしっとり湿っていくのを感じながら、ひたすら指を動かして気を紛らわせてた。
座席の硬い感触も、周囲のざわめきも、僕の耳には届かなかった。
ただ、早く家に帰って、敦の顔を見たいと、それだけを願った。
「おかえり、ひろくん。……ちょっと疲れた顔してるけど…大丈夫?」
玄関を開けると、エプロン姿の敦が、心配そうな顔で僕を迎えてくれた。
彼の優しい声が、僕の胸を締め付ける。
「もうっ、心配しなくても大丈夫ですよ」
そう言って、笑ってみせた。
少しの罪悪感と、少しの甘えが混ざった嘘。
無理に作った笑顔は、きっと彼には見抜かれているだろう。
彼の優しさに甘えたい気持ちと、嘘をついていることへの罪悪感が、僕の心を揺さぶった。
彼の真っ直ぐな瞳は、僕の心の奥底を見透かしているようだった。
それでも無理に聞かずに、いつも通りの声で
「もうすぐご飯できるからさ、一緒に食べよ」
って呼んでくれる。
その気遣いが、僕の胸に温かく染み渡った。
チキン南蛮だった
僕の大好物
食卓に並んだそれを見た瞬間、少しだけ心が軽くなった気がした。
タルタルも、甘酢も、いつもより少し濃いめで
敦の気遣いが染みた。
一口食べるたびに、彼の愛情が僕の全身に広がるようだった。
でも、ご飯を食べ終わった頃、僕の心は限界を迎えていた。
我ながら自分勝手だと思うが、敦に全部を打ち明けたくて仕方なかった。
「……敦」
意を決して、彼の名前を呼んだ。
声が震えないよう、必死に唇を噛み締める。
「ん?」
敦は、僕の言葉を待つように、静かに顔を上げた。
「僕、敦に謝らないといけないことがあるんです」
絞り出すような声だった。
「…なに?謝らなきゃいけないことって」
彼の声には、僅かな戸惑いが混じっていた。
「……今日…本当はBL本買いに行ってたんじゃなくて、病院、行ってたんです」
箸を置いて、敦がまっすぐ僕を見る。
その瞳には、驚きと、そして深い心配の色が浮かんでいた。
その優しすぎる目に、泣きそうになった。
彼の慈愛に満ちた眼差しが、僕の罪悪感をさらに募らせる。
「精神科……自分で、調べて、予約して……ひとりで行ったんです」
言葉を紡ぐたびに、喉の奥がひりつくような痛みが走る。
「……うん」
敦は、何も言わず、ただ僕の言葉を受け止めてくれた。
その沈黙が、僕にはとても温かく感じられた。
「なんか……やっぱり、夢とか、フラッシュバックとか、まだ、続いてて……」
笑って平静を装って言おうとすればするほど声が震えて
僕の意思とは関係なく、涙が、ひと粒
ぽたんとこぼれた。
それは、僕がこれまで必死に抑え込んできた感情の雫だった。
「PTSDの可能性が高いって……僕、やっぱり、普通じゃなかったんだな、って……」
声が途切れ途切れになる。
僕の頭の中には〝普通じゃない〟という言葉が何度も反響し、僕を追い詰めた。
「……」
敦は、ただ僕の言葉に耳を傾けている。
「それで、明日…パートナーと一緒に来て、詳しい話がしたいって言われて」
そこまで言うと、敦は一呼吸置いてから
「…そっか」とだけ言った。
「ごめん、しゅん……せっかく同棲始めて、僕も大手企業への内定も決まったのに、もしかしたらそれも取消ざるを得ないかもしれ、ないし……むしろ…僕、しゅんの荷物に、なっちゃったよね……」
僕の口から出た言葉は、自己嫌悪と絶望に満ちていた。
彼の人生を、僕が台無しにしてしまうのではないかという恐怖が、僕の心を支配した。
そう言った瞬間
椅子が引かれる音と共に、敦が隣にきた。
ビクッとしたのも束の間
彼の温かい体温が、僕の隣に寄り添う。
そっと僕の頬に触れて、濡れた目元を指で拭ってくれた。
「ひろ、落ち着いて」
その声は、ただ名前を呼ぶだけなのに
どうしてこんなに心臓を締め付けるんだろう。
「明日、一緒に行こう。その病院……それで、ひろの心と体、どういう状態なのかちゃんと知りたいし、俺に出来ることを知りたい」
敦の言葉は、僕の心を縛っていた鎖を一つ一つ解いていくようだった。
彼は僕の全てを受け入れ、共に歩もうとしてくれている。
「……しゅん…っ、ごめん」
僕は、もう一度謝罪の言葉を口にした。
「謝んないの。それに…ひろは荷物なんかじゃないよ」
敦の言葉は、僕の心を深く貫いた。
彼のまっすぐな言葉が、僕の自己否定の感情を打ち砕いていく。
「ひろは俺の恋人で、未来の婚約者でしょ?」
冗談みたいなトーンで、でも、瞳はまっすぐで、嘘ひとつない顔だった。
その言葉は、僕の心に、これまで感じたことのないほどの幸福感をもたらした。
彼が僕を、未来のパートナーとして見てくれている。
その事実が、僕の心を温かく満たした。
「…今まで気づいてあげれなくてごめんね、ひろ」
敦の謝罪の言葉に、僕はさらに涙が溢れた。
「…っ、し、しゅんは悪くないよ…!しゅんは、気にかけてくれてた……でも、僕が、黙って…たから…」
僕は首を横に振り、必死に言葉を紡いだ。
すると
「ひろは優しいもんね……俺に言いづらかったんでしょ?」
敦は僕の頭を優しく撫でながら、そう言った。
その理解ある言葉に、僕はただ頷くことしかできなかった。
「…う、ぅん…黙ってて、ごめん、ね」
僕の涙は止まらず、嗚咽が漏れた。
「それでも…今日、ちゃんと伝えてくれたじゃん。
ひろが勇気出してくれたの、俺はすごく嬉しいよ」
言いながら、敦は僕の頭ごと身体を抱きしめてくれて
その温かい腕の中に、僕は完全に身を委ねた。
彼の胸の鼓動が、僕の耳に心地よく響く。
「大丈夫、大丈夫だよ。ひろは悪くないからね」
その言葉に、僕はもう何も言えなくなって
ただ、敦の胸に顔をうずめた。
彼の温かさと、揺るぎない愛情が、僕の心を深く癒していくようだった。