酔っ払いの二刀流
酔っ払いの二刀流
「じゃあ、ここでお別れだ。お紺姐さんも志麻姉ちゃんも道中気をつけて」
街道に出るとイトが振り返って言った。
「待って・・・これ」
お紺が懐紙に包んだ銭をイトに差し出した。
「なんだ、これ?」
「せめてものお礼よ」
「そんなもんは受け取れねぇ、俺の取り分は婆ちゃんからちゃんと貰ってる」
「でも、あんなこと手伝わせちゃったし、命の危険まで・・・」
「それも含めて、おらの仕事はあんた達を無事関所抜けさせる事だ、余分な気は使わねぇでくれ」
イトは頑かたくなにお紺の差し出す銭を拒んだ。
「でもそれじゃ、あっちの気持ちが・・・」
「お紺さん、イトの気持ちを大切にしてあげましょう。立派な、人としての矜持きょうじだわ」
「志麻姉ちゃんありがとう。おら、きっと自分の金であんな豪勢な料理を食えるようになる」
「分かったわ、イト。もう何も言わない」お紺も諦めて銭を差し出した手を引っ込めた。
「じゃあな!」
「気をつけて帰るんだよ、お婆ちゃんによろしく!」
イトはにっこり笑って手を振ると林道の奥に消えて行った。
「いい子だったね」
「あの子ならきっと成功するさ」
「うん・・・」
*******
小さな木橋の上に差し掛かると、前方に富士が美しい姿を見せていた。
江戸を出る時、日本橋の上からあんなに遠くに見えていた富士のお山が、今は目の前にある。
二人は立ち止まり、万感の思いで暫く眺めてからまた歩き出した。
「おっきな宿場だねぇ!」
三島の宿に入ると、開口一番お紺が言った。
「ここなら為替を換金できそう」
「ごめんね志麻ちゃん、江戸に帰ったら必ず返すから」
「ううん、お陰で楽しかった、あんな経験滅多に出来ないよ」
「そう言ってもらうと、肩の荷が軽くなった気がする」お紺がホッと溜息を吐いた。
「私、両替屋を探してくるから、お紺さんはこの辺りで待ってて」
「ああ、あの辺りの一膳飯屋で一杯やってるから、ゆっくり探しておいで」
お紺は居酒屋や飯屋の立ち並ぶ辺りを右手で指した。
「うん、なるべく早く戻って来るね」
志麻はそう言うと、お紺に背を向けて駆けて行った。
「さて、どの店にしようかな・・・と」
お紺は通りをぶらぶら歩きながら、鼻をひくつかせたり暖簾のれんを捲めくったりして店を物色した。
「あ、ここだここだ、いい匂いをさせている店は」
藍染の暖簾を潜って店に足を踏み入れる。昼時とあって店はとても混んでいたが、奥の卓が一つ空いていた。
「あそこ座ってもいいかい?」店主に聞いた。
「いいけど、次の客が来たら相席だよ」
「構わないよ」
「だったら座ってくれ」
卓の周りに空の酒樽が四つ、逆さまにして置いてある。その一つにお紺は腰を落ち着けた。
小女が注文を取りに来たので、自慢の料理を聞いてそれを頼んだ。もちろん酒も忘れない。
料理が出て来た。カレイの煮付けと焼き蛤、それに新鮮な鯛の刺身も付いている。
それらを肴にちびちび飲んでいると、客が一人入って来た。まだ若いが身なりの良い二本差しだ。
「亭主、満員か?」
「相席でいいなら奥の席が空いてるよ」
「おお、それは有難い」
若い侍は腰の刀を鞘ごと抜くと、混雑する店の中をお紺の座る卓に向かってズンズンと歩いてくる。
「迷惑ではないか?」
お紺に向かって訊いた。
『あら、いい男・・・』
「いえ迷惑だなんて、ちっとも・・・四人の席を一人で占領しちまってたんで、後ろめたかったところでござんすよ」
「それは良かった、では遠慮なく」
侍はお紺の向かい側に腰を下ろした。
「姐さん江戸から参られたか?」
「深川でござんす。お侍様は?」
「拙者も江戸でござる、大阪の蔵屋敷に所用があり、二日前に出て参った」
「さすが男の方は強健でいらっしゃる、あっちらなんか今日で四日目ですよ」
「と申されると、お連れがおられるのですな?」
「はい、もうじきここへ来る筈ですが・・・」
そこへ小女が注文を取りに来た。
「拙者もこの姐さんと同じ物を貰おう。それから銚子を二本・・・お近付きの印に姐さんに一献差し上げたい」
「あら、嬉しい。では、新しいお銚子が来るまで、あっちの酒で良ければ・・・如何です?」
「ありがたい、道を急いで来たので喉がカラカラだったのだ」
お紺は小女に盃を持って来させると、侍に酌をした。
「遠慮なく頂こう」
そう言うと、一気に酒を飲み干した。
「まぁ、いい飲みっぷり・・・さ、もう一杯」
「かたじけない、では・・・」
「駆け付け三杯ですよ」
「プハッ!これは堪らん」
「ささ、もう一杯」
「いや、今度は拙者がお注ぎいたそう」
そこに小女が酒と料理を持って来た。侍が新しい銚子を取り上げる。
「ではあらためて、熱いところを」
「さいですか、なら少しだけ・・・」
お紺もグッと盃を干す。
「さすが深川の姐さんだ・・・拙者、河合拓馬と申す」
「あっちはお紺」
「以後、お見知り置きを」
「こちらこそ・・・」
意気投合した二人は次々に銚子のお代わりを注文していった。
*******
「両替に手間取っちゃった・・・お紺さん待ちくたびれてるだろうな」
志麻は両替した金子を大事に懐にしまうと、食べ物屋を片っ端から覗いて行った。
何軒目かの店先を覗いた時、聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「気に入った、あんたお侍にしては太っ腹だね!」
「そう言う姐さんこそ、女にしとくのは勿体無い!」
「なに!女を馬鹿におしでないよ!」
「こ、これは失言。失敬、失敬・・・」
「分かりゃいいのさ!」
「わはははははは!」
志麻は驚いて店に飛び込んだ。
「お、お紺さん!」
「やあ、志麻ちゃん、遅かったじゃないか!」
お紺はすっかり出来上がっている。
「お連れ様の御成おなりか?・・・お、これは美形の若衆ではないか、お紺さんも隅に置けぬな」拓馬も目の縁を赤く染めていい機嫌だ。
「いやだねぇ、よく見てごらんよ。この娘こ女だよ」
「な、なんと・・・これはお見それした」
「お紺さん!」志麻はお紺を睨みつけた。
「怖い顔だねぇ・・・クワバラクワバラ」
「そんな事より、この人誰!」
「せ、拙者佐賀藩家臣、河合拓馬と申す・・・以後お見知り置きを・・・」
呂律ろれつが少し怪しい。
「あんたこの人達の連れかい?」
店の亭主が渋い顔で奥から出て来て志麻に訊いた。
「は、はい・・・」
「昼間からこんなに酔っぱらわれちゃ、商売上がったりだ。どっか連れてってもらえねぇか?」
「す、すみません・・・お代は?」
「二百五十文だよ」
「高っ!台場人足の一日分の日当じゃないか」お紺が文句を言った。
「文句があるならお役人に言いな」
「ま、待て・・・それは困る。藩邸に知れたら切腹ものだ」
「だったら文句言わずに払いなよ」
「わ、分かりました、払います!」志麻が慌てて財布を出した。
「志麻ちゃん、払うこたぁ無いよ!深川芸者を舐めんじゃない!」
『お紺さん、今お役人に捕まるわけには行かないわよ。なんたって関所抜けしてきたんだから』
志麻は心の中でお紺に訴えた。
「よし、拙者が払う、お紺さんは先に出ておれ」
「いいよ、自分の分は払うから」
「武士が一度口にした事を覆す訳にはいかん!いいから、出ていてくれ!」
「お紺さん、出ていましょう。私たちがいると、この人引っ込みがつかないのよ」
志麻は無理矢理お紺を引っ張って店を出た。
「この先の橋の袂たもとで待ってましょう」
お紺はブツブツ言いながら千鳥足で志麻に着いてくる。慣れぬ旅の疲れと昼間の酒で一気に酔いが回ったようだ。
橋の袂の土手に座ると、お紺は大の字に寝転んで大きな鼾いびきをかき始めた。
*******
「あんた、黒霧志麻さんだね?」
志麻がお紺を介抱していると後ろから声を掛けられた。
「あなたさっきの・・・もう話はついたの?」
「家宝の根付を置いてきた、金にすれば十両は下るまい。帰りに寄るから預かって置いてくれと言ったら、あの亭主め平身低頭しておった」
「もう酔いは冷めたようね?」
「生憎あいにくと拙者は下戸げこでな、飲んだ振りをしてこいつに飲ませておった」
拓馬が懐から手拭いを取り出すと、プンと酒の匂いがした。
「何が目的?」
「あんたの首に掛かった五百両」
「やっぱり」
「お紺さんが寝ているうちにカタを付けよう、ちょっとそこまでご足労願いたい」
「一つだけ訊いていい?」
「なんだ?」
「あなたにこの仕事を頼んだのは誰?」
「それは言えんな」
「でしょうね・・・」
拓馬は踵を返して歩き出す。志麻は袴の泥を払って立ち上がると、拓馬の後をついて行った。
******
「この辺で良かろう」
人気の無い崩れかけた神社の境内で、拓馬が振り返る。
「無駄な事はやめにしない?」
「俺はどうしても金が要る」
「その為に人一人を殺あやめると言うわけ?」
「お前にはなんの恨みも無い、だが、お前を斬ってでも守りたい人がいる」
「自分が死ぬことは考えなかったの?」
「俺は負けない。何故なら自他共に認める、藩随一の遣い手だからだ」
「私も負けないわよ」
「やってみれば分かる」
「それしか方法は無いようね」
拓馬は右手で太刀を抜くと、左手で小太刀の鯉口を切った。
『二刀流・・・』
「佐賀に二天一流の流れを汲む流派が伝わっている、俺はその後継者になる男だ」
「宮本武蔵があの世で泣いてるわ」
「なんとでも言え」
拓馬は小太刀の切先を志麻に向けると、太刀を頭上高く構えた。
志麻は鬼神丸の柄を優しく撫でた。
「行くわよ・・・」
鯉口を切ると同時に、地を蹴って拓馬に突進した。
大きく踏み込んで、抜き打ちに小太刀を弾き飛ばして右へ飛ぶ。
太刀が上から落ちてきて、志麻の着物の袖を斬り裂いた。
志麻は戻って来た小太刀の下を掻い潜って拓馬の背後に出ようとする。
拓馬が振り向いて強引に太刀を打ち下ろす。
志麻は頭を下げながら刃を返し下から思い切り斬り上げた。
斬ざん!
拓馬の腕が大刀ごと宙に舞う。
志麻小太刀が来る・・・
眼前に小太刀の切先が迫っていた。
志麻の足が止まった時、鬼神丸が石火の如く動いて小太刀を叩き落とした。
「無、無念!」
小太刀を落とされた拓馬の躰が、埃ほこりを巻き上げて倒れた。
「鬼神丸、また助けられたわね・・・」
まだよ、油断しないで・・・
拓馬が左手を突いて必死に起きあがろうとしている。
「もう、勝負はついたわ」
「き、斬れ・・・このまま生き恥を晒したくはない・・・」
「私を殺してでも、守りたい人がいたんじゃないの?」
「もう、駄目だ・・・」
「ここに二十両ある、とても足りないとは思うけれど、何かの足しにはなるでしょ?」
「な、何故・・・」
「きっとその人にはあなたが必要だわ。あなたは生きてその人の元に行くべきよ」
「ううう・・・」
拓馬は残った左手で右腕を押さえた。
「止血をしてあげる。ここは大きな宿場だからいい医者もいるはずよ」
志麻は刀の下緒を解いて拓馬の傷口をきつく縛った。
「もう、会う事はないわね」
「待て・・・」
「なに?」
「俺にこの仕事を頼んだのは・・・大和屋仁平やまとやにへいだ」
「ありがと・・・」
志麻は踵を返して、傾いた鳥居を潜って出て行った。
*******
「志麻ちゃん、どこへ行ってたの?」お紺が頭を抱えて志麻を見上げた。「ああ、ズキズキする・・・あ、そういえばあの人どうなった?」
「急ぐからって、先に行ったわ」
「飯屋の払い、大丈夫だったかしら?」
「家宝の根付ねつけを預けたらしいわよ」
「そう、迷惑かけたわね、今度会ったら謝らなくちゃ」
「今度あったら・・・ね」
「あら、志麻ちゃんその袖どうしたの?」
お紺が切れた志麻の袖を見て首を傾げる。
「あ、これ?橋の欄干に出てた古釘に引っ掛けちゃった」
「志麻ちゃん、見かけによらず慌てん坊ね」
「えへへ・・・」
「さ、出発しようか。今日中に原宿まで行かなきゃ」
「うん」
志麻は拓馬と戦った神社の方に目を遣ると、急いで橋を渡って行った。