テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜の帳が下りた稲荷崎高校の体育館。
部員たちの賑やかな声も、バレーボールが床を叩く高い音も、もう聞こえない。
「……先輩。まだ、そこにいてよ」
居残り練習の片付けを終えたばかりの角名くんが、額の汗を拭いながら歩み寄ってきた。
広い体育館には、私たち二人きり。
天井の高い照明がいくつか落とされ、フロアの一部が深い影に沈んでいる。
「……角名くん。もう八時だよ。北さんに『早う帰りなさい』って怒られちゃう」
「北さんはもう帰った。……今は、俺の言うこと聞いて」
彼はいつものようにスマホを取り出そうとして……ふと、その手を止めた。
そのまま、スマホを近くのパイプ椅子の上に無造作に放り出す。
「……えっ、撮らないの?」
「……撮るの、飽きた。……レンズ越しじゃ、先輩の温度、わかんないから」
角名くんが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
逃げようとしても、背後は冷たい壁。
彼は私の両脇に手をつき、逃げ道を完璧に塞いだ。
ミドルブロッカーとしての、鉄壁のブロック。
「……さっき、ツムさんとサムさんにベタベタ触られて。……嫌じゃなかったの?」
「……嫌じゃないけど、困ったよ。二人とも力が強いし……」
「……俺はもっと強いよ。……先輩が他の男の匂いさせてるの、我慢できないんだけど」
角名くんの声が、いつもより一段と低く、喉の奥で震えている。
彼は私の肩に顔を埋め、深く、重い吐息を吐いた。
ユニフォーム越しに伝わる、バレー部員らしい熱い体温。
「……スマホの中のフォルダ、見たでしょ。……あれ、本当は動画や写真じゃ足りないんだよね」
「……角名、くん……?」
「……もっと、生々しいやつが欲しい。……俺にだけ見せる、余裕のない顔。……それを、今から俺が、独り占めしてもいい?」
彼は顔を上げると、至近距離で私の瞳をじっと覗き込んできた。
スナギツネのような細い瞳が、今は獲物を完封する時のように、鋭く、激しい執着を宿している。
角名くんの手が、私の頬を包み込み、親指でゆっくりと唇をなぞった。
「……先輩。……許可、して。……俺以外の男の記憶、全部上書きしてあげるから」
スマホを捨てた彼は、いつもよりずっと強引で、ずっと熱い。
シャッター音のない静寂の中で、私は彼の「甘い罠」という名の独占欲に、ただ深く、深く、沈んでいくことしかできなかった。
翌朝の登校時間。私は校門をくぐる前から、首元を何度も手で押さえていた。
昨夜の放課後、誰もいない体育館で角名くんに付けられた、熱い「印」。
制服の襟を一番上まで留めても、動くたびにその赤い痕が覗きそうで、心臓がずっとうるさい。
「……愛加先輩。おはよ。顔、真っ赤」
背後から、低くて気だるげな声。
振り返ると、角名くんがいつも通りスマホを片手に、眠そうな目で立っていた。
でも、その視線はまっすぐに私の首元を射抜いている。
「……角名くん。もう、昨日の……あんなの、困るよ」
「……何が? 俺はただ、先輩が誰のものか、分かりやすくしただけ」
彼は平然と言い放つと、私の横に並んで歩き出した。
校舎に入り、下駄箱で上履きに履き替えようとしたその時。
「……あ、愛加ちゃん! おはよ……って、えっ!? なぁ、その首元!!」
階段の上から猛ダッシュで降りてきたのは、宮侑くんだった。
その後ろからは、おにぎりを頬張る治くんも続いている。
「ツム、朝からうるさ……って、自分、それ……」
双子が私の首元を凝視して、凍りつく。
襟元からチラリと見えたのは、間違いなく「誰か」が付けた、生々しい独占の跡。
「角名ァ!! お前、愛加ちゃんに何したんや! 昨日の居残り、お前ら二人きりやったやろ!!」
「……何って。見ての通りだけど。……先輩、隙だらけだから、俺がガード固めといた」
角名くんは侑くんの絶叫を無視して、私の肩をグイッと自分の方へ引き寄せた。
双子の前で堂々と見せつける、圧倒的な所有権の主張。
「……角名! お前、最低やぞ! 愛加ちゃんはみんなの癒やしやのに!」
「……癒やしじゃない。……俺の、唯一の『非公開』だから。……これ以上騒ぐなら、二人の変顔動画、全校生徒にバラすよ?」
角名くんはスマホを双子に向け、不敵に口角を上げた。
スナギツネの冷徹な脅しに、双子は「……卑怯やぞ……」と呻きながらも、手出しができなくなる。
嵐のような騒ぎの中、角名くんは私の耳元に顔を寄せた。
「……先輩。……隠そうとしても無駄。……放課後、また上書きしてあげるから」
意地悪く、でも熱っぽく囁く声。
双子の視線よりも、首元に残る彼の「残像」が熱くて。
私は、彼の仕掛けた甘い罠から、もう一生逃げられないことを悟っていた。