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なんだか嫌な予感がする。
『ううぅ…』
本能的に感じ取ったその感情に、拭っても拭いきれない不安の跡が胸にこびりつく。
そんな隙間風のように心の中に吹き込んでくるザワザワとした胸騒ぎに、不穏な空気が背筋を冷たく流れる。砂嵐のようなザワザワとした不愉快な音が脳内をぐるぐると駆け巡り、頭に重い痛みが圧し掛かる。
時間が経てばいずれ収まるだろうと痛みが去るのを待つが、時間が経てば経つほど、嵐のような不穏な空気に全身がばらばらになりそうになり無意識に低く獣めいた呻き声が唇の端から零れ落ちる。頭の芯が熱湯をかけられたように熱くなり、キーンと鼓膜に響く耳鳴りがさらにうるさい騒音へと変わる。
「○○?どっか痛ぇの?」
ぼんやりと宙を眺め蹲るあたしの耳に困惑と心配の2つが滲んだいざなの声が蝟集する。
その声に連れられるまま視線を宙から切りいざなの方へと移すと、不安げに揺れた桔梗の花のような青紫の瞳と目が合う。
その瞬間、ふと痺れるような愛情の渇欲に駆けられ、心臓がドクンと高く脈打った。
『…いざな、だっこ!』
目の前でこちらを覗き込むいざなに向って両手を開け、抱きしめろと訴える。
そんな突然のあたしの行動にいざなは一瞬だけ呆気にとられたようにぽかんとすると、すぐに嬉しそうに口角を上げ、ぐいっと優しくあたしを抱き上げてくれた。
『…わ、』
いつもよりずっと高くなった視界と近くなった大好きな人の体温に、思わず頬に紅が差す。
どんどんと止まることなく上昇していく体温に赤く染まった今の自分の顔を見られることに恥じらいを覚え、そんな自分の表情を隠すようにいざなの首元辺りに自身の顔を埋める。
「今日あんま元気ねぇな、しんどい?」
その動作に体調がすぐれないと捉えたのか、いざなは先ほどよりもずっと心配に染まった声であたしの耳に気遣うような言葉を投げ込む。そんないざなの甘い声と言葉があたしを苦しめていた酷い頭痛と耳鳴りを溶かしていき、恍惚感に似た幸福を残す。
『だいじょうぶ、』
『なんか……ちょっとだけさびしいだけ』
耳鳴りも、頭痛も収まった。
だけど胸に残る異様な違和感だけがいくら経っても取り除けない。
いざながこのまま居なくなってしまうのではないのかという根拠もない不安が胸に広がる。
寂しさに似た胸がしぼんでいくような、穴が開いたような、あたしが知らない感情。
「あ?なんでだよ」
一拍間を開けて告げられたいざなの少し不機嫌に変わった声にびくりと体を震わせ、なにかいけないこと言っちゃったかなと上目遣いになりながら恐る恐る顔を覗き込む。
だが、あたしの視界がいざなを捉えるよりも先にギュッとあたしを抱える力を強められ、体全体に覆いかぶさるように抱き締められる。そのせいでいざなの顔は見られず、結局見えたのは真っ暗で無機質な部屋の一部分だけ。うなじ辺りをいざなの綺麗な髪がさらりと撫で、少しだけくすぐったい。カランという澄んだピアスの音が異様に大きく聞こえる。
「寂しさなんて感じさせねぇぐらい愛してるつもりなんだけど。伝わんなかったか?」
「何すればもっと伝わる?○○の為なら何でもやってやるよ。」
「…あ、オマエの親殺すか?もう少しで殺す予定だったしすぐ殺せるぜ?」
妖艶で、どこか不気味な雰囲気が漂ういざなの口から告げられた言葉の数々の意味が理解できず、頭の上にクエスチョンマークが飛び交う。
『…んー、?』
ころす?よてい?つたわる?
先ほどいざなが告げた言葉たちを心の中で繰り返すたびに、疑惑の花が脳裏に咲く。
でも言葉の意味は分からなくてもいざなの声や口調から怒っているということは察し、しゅん、と心が小さくしぼんでいくのを感じる。
『いざな、おこってる…?…あたしのせい?』
『…あたしのせいだったら…ごめんなさい。』
蚊の鳴くような弱々しい声で途切れた言葉の続きを綴る。
きらいにならないで、あたしのことおいてかないで。
ぽつりぽつりと雨音のようにあたしの口から滴り落ちていく細い声が、まるで遠いところから聞こえてくるように感じる。囁き声よりももっと小さくて、もっと抑えた声。
『……いざな?』
それでもずっと黙ったままのいざなに妄想に近い恐れが沸き上がり、涙に濡らされた泣き声が唇の間をするりと器用に通り抜け、じーんと鼻の奥が痺れるほど大粒の涙が溢れてきた。そんな溢れ出る泣き声をグッと口元に溜め込む。だけど、口内に佇む嗚咽は消化されることなく息を吸うたびに段々と膨張されていった。
ここでないたらもっときらわれちゃう。すてられちゃう。
ママとパパのときみたいに、
「…なあ、今オレに嫌われたかもって思って泣いてンの?」
突然、それまで黙っていたいざなが愛おしさに浮かされたような声色でそう囁いてきた。
どこか少しだけ嬉しそうに弾んだ彼の口調に不思議に思いながらもコクンと控えめに頷く。
「嫌いになんかなるわけねえだろ?バカかオマエ。」
『わっ!』
言葉は荒いが優しい響きがある口調でそう言葉を投げ捨てられ、ぐいっと肩に埋められていたいざなの顔が勢いよく上がると恍惚したようにうっとりと細められたいざなの瞳と視線がぶつかり合い、一瞬のうちに驚くほど柔らかな唇の感触があたしの唇に触れる。
困惑と驚愕でぽかんとした表情を浮かべながら、血液が透過され真っ赤に染まった唇がめまぐるしく上下に動かす。
「そういうところも全部大好き、ずっと。」
だから泣き止めよ、とまだ慈愛の抜けていない酔った口調でそう言い、涙で湿った目元にいざなの細い指先を添え、繊細な動きで涙を拭きとるように優しく撫でる。少し腫れた目の下をいざなの褐色の指が通るたび、追うようにピリリとした鈍い痛みが肌を刺す。
だが、それすらも気にならないほど目の前の人物に夢中になってしまう。
『…いざな、あたしのことすき?』
「大好き、愛してる。」
当たり前のように答えてくれるいざなにさきほどの不安も緊張も全て弾け飛び、体中がほぐれるように安心する。いつの間にか下睫毛に乗っかていた涙も引っ込んでいた。
『あたしもだいすき』
溶けるような安堵感の中に落ちていくように、あたしは息が多く含まれた声でそう告げた。
それから何日か経ったある日。
眉根を額の中央に寄せ、真剣な色を表情に乗せたいざなの褐色の手に自身の右手を握られる。いつもより少し着込んだ服装に、顔を隠す大きな黒い帽子と黒いマスクを顔全体に付けられ、場の緊張感も改まって心臓を締め付けられるような息苦しさを感じる。
「外から出ても絶対にオレから手ェ離すなよ。何があっても。」
固い口調で告げられたその言葉に、不意に口元を引き締めていざなを見た。顔の筋肉が水をかけられたようにキュッと強張る。
『…うん』
圧迫感から絞り出されるようにそう小さく声を落とし、ぎこちなく頷く。
今日は“外”に出る日。
起きてからずっと何度も何度も手を離すな、オレから離れるなと念押しされ、やっと玄関へ出る。靴を履こうと足を押し込んだ瞬間、ジャリ、と靴箱の床に散っていた小さな砂たちが靴底と擦れ合い、濁りのない澄んだ音を作り出す。
靴を履いて、いざなと手を握りなおして、
「行くぞ」
そして、扉の外へと出た。
……──関東事変まであともう少し。
続きます→♡1000