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「……まずは、執務室からだな」
「……ちょっと待って、本当に全部やる気ですの!?」
執務机へ両手をつかされ、スカートの裾をたくし上げられる。机がガタガタと揺れ始めた。
「っ……あ……っ、ちょ、まっ……!」
バサバサバサッ!
机の端に積み上げられていた書類の束が、雪崩のように床へ散らばった。
「書類が……!」
「後で拾う」
さらに振動で、隅に置かれていたガラスのインク瓶がぐらりと傾く。
「ね、ねえ、インクが倒れるってば……っ!」
カイル殿下は私の腰を掴んだまま、片手を伸ばした。インク瓶を隣のチェストへ置き直し、そのまま蓋をしっかり閉める。
「――これでいいだろう。よそ見をするな」
「っ……! 普段のあなたなら、こんなこと絶対しないでしょう!?」
「今は公務ではない。新婚旅行中だ」
部屋には甘い吐息と、机の軋む音だけが響き渡った。
***
どれくらい経ったのだろう。ようやく解放され、机に片手をついたまま肩で息をする。
「……ちょ、ちょっと……休憩……」
「まだだ」
「まだ!?」
信じられない思いで顔を上げる。カイル殿下は涼しい顔のまま、片手で例のロマンス小説を持ち、まるで指南書のように真剣な顔でページをめくっていた。
「……次は窓辺だな」
「勉強熱心になるところを完全に間違え――」
必死の抗議は、落ちてきた唇によって途中で塞がれた。
「んっ……!?」
(……誰か、この真面目すぎる体力おばけを止めてーっ!)
***
「……待って」
窓辺での“再現”まで終え、ふと床へ視線を落とした私は固まった。淡い色の絨毯に――さっきまでなかった染みが、くっきり残っている。
「……ねえ」
「何だ」
「これ……どうするのよ?」
カイル殿下は染みを見下ろし、至って平然と言った。
「水でもこぼしたと思うだろう」
「いや、どう見ても無理でしょ!?」
***
「よし、次は廊下だ」
「ちょっと待って。その前に一つ条件がありますわ」
「何だ?」
「今度は絶対、床を汚さないで」
――しばらくして。
「……はぁっ……はぁ……今度こそ、大丈夫よね?」
「問題ない」
終わるなり、カイル殿下が用意していたタオルを素早く当てる。私は真っ先に床へ視線を落とした。
「…………」
一滴も落ちていない。
(よし!)
(今度こそ完璧だわ!)
ほっと胸を撫で下ろした、そのとき。
――ぐぅぅ。
静まり返った廊下に、なんとも間の抜けた音が響いた。
「…………」
カイル殿下と目が合う。
「……お腹すいた……」
そういえば、朝食を食べたきり何も口にしていない。
「そうだな。何か食べるか」
「ええ……」
乱れた室内着をざっと整え、食堂へ向かう。――けれど、数歩進んだところで。
「…………ん?」
ぴたりと足が止まった。
「どうした?」
震える声で告げる。
「……今、歩けない……」
カイル殿下は一瞬きょとんとしたあと、状況を察したらしい。気まずそうに、目を逸らした。
「……分かった。食堂まで運ぶ」
脱いでいたガウンを拾い上げ、私の身体へ巻きつける。そのまま軽々と横抱きにされた。
「……もう、やだ……」
「誰もいないから問題ない」
「そういう問題じゃないわよ……!」
***
離宮の使用人を全員下がらせてしまったため、食堂に残っていたのは、あらかじめ用意されていた軽食だけだった。それでもテーブルには、パンやチーズ、色とりどりの果物、蜂蜜を添えた焼き菓子が並んでいる。
私は、椅子へぐったりと腰を下ろした。
「…………」
「どうした? 食べないのか」
隣では、カイル殿下が何事もなかったかのようにパンをちぎり、口へ運んでいる。じろりと睨みつけた。
「……なんで、そんなに普通にしていられるのよ」
(こっちは足がガクガクだっていうのに!)
「お前が好んで読んでいる小説を再現しただけだが」
「だからって、物語のシチュエーションを全部再現する人がどこにいるのよ!?」
するとカイル殿下は、テーブルの端に置いていた例の本へ視線を落とした。
「いや、全部ではない。まだ半分ほどだ」
「今すぐその本を閉じなさい!!」
思わず手を伸ばす。けれど、さっと本を遠ざけられた。
(むかつく……!)
何よ、その余裕たっぷりの顔は。いつもは私のほうが主導権を握っていたはずなのに。
(……このまま、やられっぱなしで終わるなんて絶対に嫌!)
(そっちがその気なら――その余裕ぶった顔、ぐちゃぐちゃにしてあげるわ!)
ふと、テーブルの上の小皿に入った蜂蜜が目に入った。私は銀の匙を手に取り、黄金色の蜂蜜をすくい上げる。
ぽたり。ぽたり。
隣に座る彼のガウンの裾から覗く太腿へ、蜂蜜を垂らした。
「まあ、ごめんなさい」
悪戯っぽく微笑み、彼の耳元へ顔を寄せる。
「うっかりこぼしてしまいましたわね。――今、綺麗にして差し上げますわ♡」
そのまま椅子から降り、彼の足元へ屈み込む。太腿に落ちた雫を、舌先で舐め取った。
「……っ、う……」
挑発するように、際どいところまでゆっくりと舌を這わせる。
「どうぞ、お気になさらず、お食事を続けてくださいませ♡」
そのままガウンの隙間へ指先を滑り込ませ、そっと撫で上げた。
「……っ……あ……」
掠れた声が、上から落ちてくる。
(ふふん)
(あなたの弱いところなんて、全部知ってるのよ!)
カイル殿下は熱を帯びた瞳で私を見下ろしていたが――やがて、ぽつりと呟いた。
「……そういえば、似た場面が本にあったな」
「…………え?」
テーブルの上の本へ手を伸ばす。
「確認する」
「今しなくていい!」
制止する間もなく、ぱらぱらとページがめくられる。
「……やはりそうだ」
カイル殿下が本から顔を上げる。
「なら、この続きも再現するか」
「ちょっ――」
ガタンッ!
勢いよく椅子が引かれた。次の瞬間、身体がふわりと浮く。
「…………っ!?」
背中が硬い木の天板へ触れた拍子に、カランッと銀のフォークが床へ落ちた。上から覆い被さってきたカイル殿下に、首筋を甘噛みされる。
「……自分から仕掛けたんだろう?」
目を細め、耳元で囁く。
「後悔するなよ」
(……あ)
(これ、完全に自爆したかも……!?)
***
結局、食堂での激しい“再現”が終わるころには幻装石の効果も切れ、銀狼大公も王女も、すっかり元の姿へと戻っていた。 そして――私の体力も、ほぼ同時に切れた。
(……タイミング良すぎでしょ……)
「……もう、無理……一歩も歩けない……」
「分かった」
カイル殿下にそのまま寝室まで運ばれ、私はふかふかのベッドへうつ伏せに沈み込んだ。
「背中も腰も痛い……脚もだるい……」
「侍医を呼ぶか?」
「絶対にやめて!」
「だが――」
「こんな状態、誰に見せられるのよ!」
「……それもそうだな」
さっきまでとは打って変わって、カイル殿下はすっかり過保護モードに戻っている。薬箱を開け、冷却用の湿布薬を取り出した。
「少し冷たいぞ」
「ん……」
ひやりとした湿布が、腰へ丁寧に貼られる。続いて背中へ。
「ここか?」
「もう少し上ですわ」
指先が背中をそっとなぞる。
「……少し赤くなっているな」
「硬いテーブルに押し倒したのは、どこの誰よ……」
恨めしそうに呟いた。
「もう、小説の再現なんて二度とやらないわ」
するとカイル殿下は、ベッドサイドに置いていた例の本をひょいと手に取る。
「まだ『夜の庭園』と『秘密の倉庫』が残っているが――」
「もう幻装石の効果も切れてるでしょう!!」
「別に、姿が戻っても再現はできる」
「今すぐその本を捨ててぇぇぇっ!!」
叫んだあと、ぷいっと横を向く。
「…………でも」
もごもごと付け足した。
「……まあ……楽しかったけど」
「…………そうか」
ちらりと横目で見上げる。案の定、カイル殿下の口元がこれ以上ないほど緩んでいた。
「ちょっと、その顔やめて!」
「なら、次は庭園から――」
「しないから!!」
悔しくて、枕を彼へ投げつけたのだった。
コメント
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# 第76話 感想 ひよりさん、毎回笑わせてもらってるわ……! 今回は「小説の再現シリーズ」の集大成って感じで、もうツッコミどころ満載だった(笑) カイル殿下の理論武装っぷりが半端なくて、「まだ半分だ」「確認する」とか完全にギャグ補正かかってるでしょ。あの真面目な顔で本を指南書扱いするの、地味にじわじわ来る。 しかも床の染み問題で「水でもこぼしたと思うだろう」って……いや、無理があるって!(笑) 一番好きだったのは、終盤の蜂蜜展開かな。 「今、綺麗にして差し上げますわ♡」とか言って挑発しといて、まんまと自爆するヒロインが可愛すぎる。 で、そのあとの「お腹すいた」「歩けない」の流れで一気に日常に戻る感じも、ギャップ萌えがすごかった。 最後に「楽しかったけど」って付け足すところがもうね……。 カイル殿下の口元が緩むシーン、頭に浮かんだわ。 この夫婦、ホントに仲良しで羨ましい。 次は夜の庭園と秘密の倉庫……って、まだ続くんかい!(笑) 完結まで応援してるよ、ひよりさん🔥