『なあなあ、知っているか?』
『何をだよ?』
『狂座ってサイトの事……』
『都市伝説だろ? 殺したい奴を代わりに殺してくれるってサイト。有名じゃん?』
『今時何処の仕事人だよって話だよなぁ』
『大体検索にも引っ掛かんねぇし、妄想が生んだ噂だろ?』
『最近凶悪事件多いし、恨み持ってる奴多そうだしな。俺も殺したい奴一杯いるわ……』
『俺もだよ。実際あれば依頼してぇなあ……』
『やっちゃいますか?』
『いいねぇ!』
『それがよ……その狂座ってサイト、普通に検索じゃ絶対引っ掛からないらしいぜ?』
『はぁ? じゃあどうやってアクセスすんだよ?』
『本当の“恨み”を持った者だけが、アクセス出来る……らしい』
『ぶっ!』
『なんだそれ、笑えるし!』
『そんなんでアクセス出来たら、今頃発見されて大問題だっちゅうの!』
『大体機械が感情読んでるんかい?』
“ワハハハ”
『まあ所詮は噂、都市伝説だよなぁ……』
『それよか、帰りゲーセン寄っていこうぜ?』
『おう! 行こ行こ――』
…
漆黒の闇の中、月明かりに照らされた都会の喧騒。
「オイ、早く代われよ!」
「あっ……慌てんなよ。も……もう少し……うっ!」
路地裏の死角となった片隅で、何やら複数の男達の声が響き渡る。
「たまんねぇなオイ!」
それは決して愉快な声では無い。
酷く不快で、醜いまでに浅ましい声。
“どうして……こんな事に?”
断続的に聴こえてくる笑い声と、荒い息遣いを遠く残響を背に思う。
声は出せない。出す事が出来ない。
何故ならその口内には、白い布切れらしき物を押し込まれていたから。
両腕は体格の良い二人の男に、がっしりと押さえつけられている。
それは女性の力で抗える訳が無かった。
「次は俺だ! オイ、へばってんじゃねえよ!!」
代わるように次なる、その声の男が重なってくる。
再度揺れ動くその身体。衣服は胸からはだけ、震動に身を任せるしか無い生気が失われた表情を見せる女性の瞳には、既に現実を映してはいない。
ただ涙が無常に線を引くその瞳、その視線の先にある光景だけを映して。
“絶対に……許さない!”
片隅には無惨にも頭部を踏み潰され、どす黒い血溜まりの中横たわる、白い仔犬の変わり果てた姿が其処にあった。
「はい、もう大丈夫ですよ」
白い清涼感溢れる室内に、これまた穏やかで、透き通る様な優しい声が通る。
「ありがとうユキ先生」
まだ小学生位であろう三つ編みの少女が、満面の笑みでそう言いながら、愛しそうに小さな三毛猫を、その腕で包み込む様に抱えていた。
「体調が悪いと思ったら、いつでも連れて来るようにね」
白衣を纏い、印象的な四角の銀縁眼鏡の奥に映された、切れの長い瞳がとても穏やかそうな、それでいて精悍な顔立ちと、黒いサラサラの髪質とが相まって、芸術的な造形美を醸し出しているユキ先生と呼ばれた長身の男性は、少女と子猫の頭を交互に優しく撫でる。
その白く大きな掌には、有象無象の安心感に溢れ、少女のみならず子猫まで表情をほころばせている様に見えた。
「でも……お金が……」
途端に少女の目が曇る。
現実的に診て貰う為には、金銭が必要である事は小学生でも分かる常識。
「お金の事よりミクの事を心配する事。診察料はいつか恵美ちゃんが払える時で良いんだから……」
だがそれを意に返さぬ言葉の意味に、恵美と呼ばれた少女の表情は、明るさを取り戻す。
「うん! いつか絶対にミクと一緒に払いに来るからね」
少女はそう言い踵を返す。それと同時にミクと名付けられた子猫が“にゃあ”と、まるで御礼の声を上げた。
「お大事に……」
最後に『はぁい』との声と共に、少女と子猫は室内を跡にしていた。
「ふぅ……」
白衣の男は無人となった室内を見回し、椅子に腰掛け一息吐く。
“如月動物病院”
都心の外れに構える、新規開拓したばかりのこの小さな病院。
ここを一人で切り盛りする獣医基、院長である如月 幸人(キサラギ ユキト)は、まだ齢25の新米獣医だが、既に評判の名医として忙しい日々を送っていた。
“何故新規の筈なのに、ここまで評判が良いのか?”
それは従来の平均より、半額近い破格ともいえる診察料金に加え、幸人の親身なまでに労るその人柄も大きい。
それは損得勘定等、最初から頭に入っていないかの振る舞いに。
「ジュウベエ?」
一人で切り盛りする幸人にとって、助手では無いが、病院のマスコット的存在に、彼はそっと呟いた。
反応したのか幸人に向かって、とことこと歩み寄って来る黒猫。
ジュウベエと呼ばれた黒猫は幸人の膝の上に飛び乗り、身体を丸める。
左目の傷が印象的な片盲眼の黒猫だが、それがかえって目を惹くらしく、このジュウベエと名付けられた黒猫に会いに、足を運ぶ客もいる程だ。
「まったく……」
ジュウベエは幸人に“さっさと撫でろ”ジェスチャーでせがみ、口ではそう呟きながらも、幸人はジュウベエの咽元を撫で続けた。
ジュウベエもゴロゴロと、咽を鳴らす事でそれに応えている。
それは一時の休息の空間であった。
************
穏やかな室内に、突如静寂が破られる。
「こっ……この子を助けてあげてっ!!」
その動揺に満ちた声と共に、一人の女性が舞い込んで来たからだ。
両手には白い仔犬が抱えられている。
左前脚には白い毛並みに映える程の、夥しい出血が見られた。
「お願い! 助けて!!」
半場泣き叫ぶ様な彼女の腕の中で、仔犬はぐったりともたれている。
「落ち着いて。大丈夫ですから……」
幸人は動揺を与えないかの様に、優しく穏やかに諭しながら、そっと女性から仔犬を受け取った。
「痛かったね……。もう大丈夫だからね」
その有無を言わせぬ安心感のある声と共に。
************
――1時間後
診察室の白い小さな動物用ベッドの上には、左前脚にしっかり包帯が巻かれた、先程の白い仔犬が鎮座していた。
傷自体は深くなく、数針縫う事で事無きを得た。
「もう心配ありません。ただ少し衰弱しているので、充分な栄養と安静で、すぐに元気になりますよ」
「良かった……」
幸人の診断に、女性は安堵の吐息を洩らす。
幸人は女性から仔犬に目を向ける。
“この子の飼い犬だろうか?”
だが仔犬に首輪は無かった。しかも毛並みの薄汚れ方から、捨て犬である事を幸人は推測する。
元はスタンダード・プードルの一種だろう。
「この子、道端に血を流して踞ってて……。ほっとけなかったんです……」
まだあどけなさの残る女性は、仔犬の頭を撫でながらおもむろに状況を説明する。
「あっ! 突然押し掛けて済みません! ありがとうございました」
女性は杉村 葵(スギムラ アオイ)18才。今年の春に就職の為、東京に上京して来たという。仕事帰りなのか、葵はビジネススーツを着こなしている。
慣れない都心での独り暮らしは、さぞ大変な事だろう。
いつの間にか葵は幸人に身の上話までしていた。
「頑張ってるね」
幸人もまたこの、不自然に色染めしてないショートヘアに、あどけないが芯のしっかりした瞳を持つこの女性に、親身になって話を聞いていた。
************
日も落ちそうな時間帯。幸人はおもむろに口を開く。
「この子は私の方で、里親を探す事にしますね」
葵がこの仔犬の飼い主でも無く、捨て犬であるならばそれが最善であるという幸人の配慮。
「あっ! その事なんですけど、良かったら私……この子を引き取りたいんです」
葵は最初から決意してるかの様に、仔犬の頬に手を添える。仔犬も葵の掌を舐める事でそれに応えていた。
「私……家に帰ってもいつも独りだし、帰りを待ってくれる家族がいたらなぁって」
葵は最初からそのつもりだったのだろう。
「それは良かった。この子もそれを望んでる」
幸人はそう穏やかな表情を二人に見せる。それは獣医という旁、ペットは家族も同然である事を知っていた。だからこそ獣医という職業があるのだという事も。
“この子もそれを望んでる”
その言葉には御世辞としてではなく、まるで動物の気持ちまで汲んでいるかの様に。
「はい! 大切にしますね」
葵は目を輝かせながら、仔犬を抱いて元気よく立ち上がった。
「あっ! 診察料はどの位でしょうか? 今持ち合わせが無くて……明日必ずお支払いに伺います」
だが幸人はかぶりを振ってそれを遮る。
「今回の診察料は結構ですよ。これは私からの二人の門出の祝という事で」
「えっ? でも……」
無料という有り得ない幸人の言葉に、葵は戸惑いながら呟く。
「それより……その子を大切にしてあげてくださいね。人に捨てられ傷付けられたこの子の為にも……」
それを全く意に返さない幸人の言葉の意味に、葵はようやく納得の表情を見せた。
「本当に……ありがとうございます。あの先生? またこの子を連れて、遊びに来ても良いですか?」
それは本心だった。ここまで親身になってくれた人を、葵はこれまで出会った記憶が無いからだ。
今日という日を絶対に忘れないだろう。
「いつでも歓迎しますからね。それまでその子に、良い名前を付けてあげてください」
「はい! また来ます。ありがとうございました」
葵は仔犬を抱えたまま、そっと病院を跡にし、幸人もまた二人を見送るのだった。
その旁では黒猫のジュウベエが、退屈そうに欠伸していたのはご愛嬌。
************
葵は夜の喧騒を、仔犬を抱いて歩く。
仔犬もまた安心しきった瞳で葵を見据え、その身を任せていた。
「これから宜しくね」
そう仔犬に囁き掛けながら、ふと気付き歩みを止める。
「あっ! まずはアナタの名前を考えなきゃね……」
またゆっくりと歩みを進めながら、葵は仔犬に名前の提案をする。
仔犬にとっては何でも良いのだろう。
付けて貰えるなら、それが自分の名前となる。
――裏通り。
人影は少ない。
葵は気付いてはいなかった。背後から忍び寄ってくる者達の存在に。
何時からかは定かでは無い。
だがその者達は虎視眈々と狙いを定めていた。
「ねえキミ……」
背後から突如掛けられる声。
「はい?」
振り向いた矢先、その瞳に映る姿。
「えっ……と」
葵から戸惑い出た言葉は、少なくとも愉快なものでは無い。
葵は思わず後ずさる。
闇に映る六つの瞳は、本当に浅ましい輝きで葵を見据えていたからだ。
「ククク」
「へへへ」
不快で残忍なまでの声が木霊する。そして――
――追う者と追われる者。
仔犬の瞳に最期に映した光景は、その姿をしっかりと焼き付けていた。
――――如月動物病院――――
本日は特に変わった事も無く、此所ではいつも通りの穏やかな時間が過ぎていく。
幸人は自宅と病院を兼用していた。何時でも急来に対応する為に。
************
「ふう……」
その日の夜、風呂上がりの幸人は手に缶ビールを持ちながら、目の前の小さなテーブルの前に座り込み、つまみも無しに一気にビールを飲み干した。
風呂上がりだというのに、黒いセーターと黒いジーンズというスタイルは、白衣を着れば何時でも対応するという顕れなのかもしれない。
一息付いた幸人は、部屋内をゆっくりと見回す。
本当に質素で小さな部屋だった。
白を基調とした、清涼感溢れるといえば聞こえは良いが、悪くいえば殺風景。
お洒落なインテリア等どこにも見当たらず、小さなテーブルの奥に、ディスクトップのパソコンと簡易机、その脇にパイプベッドとクローゼットが、無造作に“ただ並んで”置かれているだけだ。
“ニャア”
寛いでいる幸人の元に、飼い猫のジュウベエが何処からともなく歩み寄り、いつもの様に幸人の膝の上へと身を寄せる。
何気無い光景。ジュウベエは膝の上から見上げ、その片盲眼の瞳で幸人を見据えながら。
“それは早く撫でろジェスチャーなのか?”
一瞬の間を置いた刹那の事。
「――依頼が来てるぜ幸人」
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