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「構いませんか?」
ふすまの向こうから声がする。
西条家の表向きを取り仕切る、瀬川のものだ。
月子の返事に、すっと、ふすまが開いて、確かに、瀬川が現れた。
長年、家長と共に西条家の表向きを取り仕切ってきた老人は、誰に対しても、折り目正しく接する。
が、それが逆に、威厳を増していた。
月子も、この瀬川は苦手だった。
その表の顔が、何故、この裏側にいるのか。未だかつて、月子の部屋へなど、瀬川は訪ねて来たことはない。
(ひょっとしたら……。)
瀬川が、月英と共に見合いの席へ同伴するのではなかろうか。
野口のおばや、佐紀子より、一番適した人物かもしれない。
一言挨拶しようかと思った矢先、月子へ瀬川が、何かを差し出した。
「先様への足代です。こちらをお使いくださいとのことで……」
月子の手に、銅貨が握らされた。
見ると、一銭銅貨が五枚ある。
「……神田方面と聞き及びましたので。路面電車をお使いになりますよう……」
それだけ言うと、瀬川も踵を返した。
──神田。五銭。
月子の頭の中に、路面電車の路線図が一瞬浮かびあがったが、同時に、瀬川が、同伴者ではないのなら、何のために月子の元へ来たのだろうと、不思議に思う。
聞き及んだ。お使いください。
と、いかにも、誰かに命じられた瀬川の口振りに、月子は、すぐさま佐紀子の影を思い浮かべた。
そして。握らされた五枚の銅貨。
それは電車の運賃。なのだろうけれど、片道分の料金しかない。
まだ、月子の母が西条家へ、後添いとして入る前。
月子は、義父、満に連れられ、良く神田周辺へ出かけた。
大学や、学校が多数あるからか、安価なカフェや洋食屋、映画館、演芸場などが立ち並び、賑わいを見せている街は、銀座より、敷居が低くいと、庶民の憩いの場になっていた。
母は、うどん屋の切り盛りで大変だろうと、満が、月英の子守りを買って出て、神田の街へ遊びに連れて行ってくれていたのだ。
だから、月子も多少土地勘はあり、路面電車の代金位は知っていたのだが……。
手のひらに乗る、銅貨の枚数に、月子の体は、固まった。
片道料金ということは……。つまり、佐紀子は、ここへは戻って来るなと、伝えている。
しかし、今日は、見合いのはず。
互いに顔見せするだけの日であって、嫁ぐ日ではない。
どうしても、佐紀子の意図が理解できず、いや、理解したくない月子の足は震えた。
とうとう、行き場がなくなってしまうのか。
西条家と、離れる事には異存はない。しかし、たとえ、どんな相手だろうと、見合いの日に、そのまま居座る事などできる訳もない。
「ちょいと!月子さん!遅れちまうよ!」
千代の呼び声がする。
出かける、いや、出て行かなくていけないのだと思うと、じんわり涙がにじんで来た。
西条家に、思い入れが有るわけではない。
こんな、理不尽なやり方を、最後まで通す西条家、いや、佐紀子が憎かった。
そんな非常識な仕打ちにも、逆らえず、従っている自身の弱さに、月子は、涙した。