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「――っ!」
慎は、はっと目を覚ました。
見慣れた寝室。隣に遥斗の姿はなく、スマートフォンからもRe:Birthの文字は消えている。
(戻ってきた……?)
そのとき、リビングから遥斗の泣き声が聞こえた。
慎は反射的にベッドを飛び出す。
*
リビングでは、遥斗がベビーゲートにしがみついて泣いていた。
キッチンでは、美咲がフライパンを見ながら朝食を作っている。
「待っててね、遥斗。もうすぐできるから」
慎は何も考えるより先に、遥斗を抱き上げた。
「おー、どうしたどうした」
背中をゆっくり撫でると、遥斗の泣き声が少しだけ小さくなる。
「……慎?」
美咲が驚いたように振り返った。
「あ……おはよう、美咲」
その顔を見た瞬間、慎はひどく懐かしい気持ちになった。
「遥斗は俺が見てるから、美咲はそのまま続けて」
「え……いいの?」
「うん」
慎は遥斗を抱いて、プレイマットへ向かった。
美咲はしばらく、その後ろ姿を呆然と見つめていた。
*
朝食が始まっても、慎の行動は変わらなかった。
「遥斗、あーんして」
美咲が差し出したヨーグルトから、遥斗が顔を背ける。
「美咲、代わるよ」
「え?」
「俺、もう食べ終わったから」
慎は遥斗の前へ座り、スプーンを少しだけ近づけた。
「ほら。食べられたらでいいぞ」
急かさず待っていると、遥斗がぱくりと口にする。
「お、食べた。すごいな」
美咲は目を丸くしながら、自分のトーストを口へ運んだ。
「……美味しい」
その声が、ほんの少し震えていた。
朝食後、遥斗のオムツにも慎が真っ先に気づいた。
「よーし、替えるぞ」
「えっ、慎が?」
「うんちだな。お尻もちょっと赤いし、薬塗っとくか」
お尻拭きと新しいオムツを用意し、慣れた手つきで替えていく。
その様子を、美咲は信じられないものを見るような顔で眺めていた。
今までの慎なら、うんちのオムツなんて絶対に替えなかった。
*
「……慎」
「ん?」
「本当に、どうしちゃったの?」
リビングで尋ねられ、慎は言葉に詰まった。
そう思われて当然だ。それほど、自分は何もしてこなかった。
ふと、美咲がこめかみを押さえた。
「頭痛い?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫。薬飲んだし、あとで買い出しにも――」
「じゃあ、俺が行ってくるよ。遥斗も連れてく」
「慎が?」
「うん」
美咲はますます戸惑った顔をする。
慎はそんな妻を見つめ、ゆっくり口を開いた。
「……ごめん、美咲」
「え?」
「俺、今まで何も分かってなかった」
美咲の表情が変わる。
「美咲がどれだけ大変で、どれだけ頑張ってくれてたのか。それを知らないまま、“家にいるんだから楽だろ”って軽く扱ってた」
「慎……」
「あとで、ちゃんと話す。俺、美咲にもっと謝りたいことがあるから」
美咲はしばらく慎を見つめてから、小さく頷いた。
「……うん」
*
その夜。
遥斗を寝かしつけたあと、二人はリビングのソファに並んで座った。
「……何があったの?」
美咲に尋ねられ、慎は少し迷ってから答えた。
「信じてもらえないと思うけど……俺、少しの間、美咲の立場になってた」
「私の?」
「美咲が一週間出張に行って、俺が一人で遥斗を見てたんだ」
ミルクを作るだけで手間取ったこと。
洗濯も食事も、遥斗が泣けばすべて中断されること。
公園で一瞬目を離しただけで、危険な目に遭わせそうになったこと。
夜泣きで眠れず、三十九度の熱を出した遥斗を抱えて、夜中に病院へ向かったこと。
「夢だったのかもしれない。でも……俺には全部、本当にあったことなんだ」
話しているうちに、慎の声が震えた。
「一日が、全然終わらないんだ。頑張っても誰かに褒められるわけじゃない。でも少し目を離しただけで、遥斗の命に関わるかもしれない」
慎は膝の上で拳を握る。
「怖かった」
美咲は何も言わず、慎の話を聞いていた。
「美咲は毎日、それをやってたんだよな。俺が“家にいるんだから気楽だろ”って言ってた間も」
慎は美咲を見る。
「ずっと、一人で」
美咲の目に、みるみる涙が溜まっていった。
「……寂しかったの」
小さな声だった。
「ずっと、一人で育児してるみたいで。慎は仕事が忙しいのも分かってたし、責めちゃいけないって思ってた」
堪えていた涙が、頬を伝う。
「でも……心が追いつかなかった」
「……ごめん」
慎はそっと、美咲の手を握った。
「“気にしすぎ”って言ったこともあったよな。あれ、本当にひどい言葉だった」
今ならわかる。
美咲が欲しかったのは、正論でも効率的な解決策でもなかった。
「分かってなかった。どれだけ大変で、不安で……頑張ってくれてたか」
「うん……」
美咲は涙を拭いながら、それでも少しだけ笑った。
「でも、今日の慎を見て……伝わったんだなって思った」
「美咲……」
「すごく、嬉しかった」
慎は美咲の手を握り直した。
「これからは、一緒にやろう」
育児も、家事も。
どちらか一人が抱え込むのではなく、二人で。
「俺も頼るし、美咲にも頼ってほしい。美咲と遥斗と三人で……ちゃんと家族をやっていきたい」
「……うん」
慎は美咲をそっと抱き寄せた。
*
それから、慎は変わった。
朝はゴミをまとめ、食洗機を回す。美咲が遥斗を抱いていれば、自然と「俺が抱くよ」と声をかけるようになった。
けれど、変わったのは慎だけではなかった。
ある夜、仕事を終えた慎がリビングでノートパソコンを閉じると、美咲が温かい飲み物を持ってきた。
「お疲れ様」
「おお、ありがと」
「最近、家のこといっぱいやってくれてるよね。ありがとう」
「当然だよ。今まで美咲に任せすぎてたんだから」
美咲は何も言わず、慎の顔をじっと見つめた。
「……慎、仕事も大変なんでしょ?」
「え?」
「帰ってきたときの顔で分かるよ。肩もガチガチ」
美咲の手が、慎の肩へ触れる。
「無理しないで。私だって、慎の力になりたい」
慎は少し驚いたあと、照れくさそうに笑った。
「じゃあ……お願いしてもいい?」
「もちろん」
美咲が慎の肩をゆっくり揉みほぐす。
「……っ、そこ効く」
「ふふ。頑張ってる証拠だね」
しばらくして、慎が振り返った。
「じゃあ次、美咲の番」
「え?」
「毎日遥斗を抱っこしてるんだから、美咲の肩だってしんどいだろ?」
「……いいの?」
「当たり前だろ」
今度は慎が、美咲の肩へ手を伸ばす。
美咲は嬉しそうに笑った。
どちらか一人だけが頑張るのではない。
どちらの苦労が上かを競うのでもない。
互いの「つらい」に気づき、手を差し伸べる。
それが家族になるということなのかもしれない。
*
休日の午後。
慎と美咲は、遥斗を連れて三人で歩いていた。
慎の腕の中で、遥斗が楽しそうに笑う。
「最近、よく笑うよな」
「……慎がいっぱい関わってくれるからだよ」
「そうかな」
照れくさそうに頬を掻く慎の手を、美咲がそっと握った。
慎も、その手を握り返す。
(この時間を、守りたい)
仕事だけではない。
家事だけでも、育児だけでもない。
三人で過ごすこの時間もまた、自分が大切にしたい人生なのだ。
*
街灯に照らされた歩道に、長いコート姿の店主が立っていた。
その手元で、スマートフォンが淡く光る。
《Re:Birthプログラム》
《Case2:終了》
《理解度:100%》
《価値観の更新:完了》
店主は静かに目を細めた。
『変化というのは、気づいた者にだけ訪れる贈り物です』
指先で画面を滑らせる。
『ですが……それを必要としている人は、まだまだいます』
視線の先には、一棟のアパート。
カーテン越しに、言い争う夫婦の影が映っていた。
店主の指が《送信》に触れる。
次の瞬間、一通のメールが光の粒となって夜の街を駆け抜け、アパートの窓の向こうへ吸い込まれていった。
「さあ――次は、あなたたちの番です」
夜風が吹き、長いコートの裾を揺らした。
――Case3『じゃあ、あなたが“産後クライシス”を経験してみて』
#子育て
都築七美
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コメント
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都築七美さん、第7話お疲れ様でした……! 慎が本当の意味で「気づいた」瞬間から、家事も育児も「手伝う」じゃなくて「やる」に変わっていく流れ、すごく丁寧で胸に響きました。特に「美咲はずっと一人でやってたんだな」って慎が呟くところ、もう……。言葉の重みが違いますよね。最後の店主のカットインもゾクッとしました。次はどんな夫婦に届くんだろう……続きが気になります!