〇ひまりと滉星の暮らす家
話を聞いて、頭を抱えるひまり。
ひまり「……ねぇ、相手はどんな人なの?」
滉星「……」
ひまり「教えてくれないなら、会社まで見に行くけど」
滉星「……わかったよ……」
諦めてスマホを差し出す滉星。
その画面には女性の顔がはっきりと映し出されていた。
N「……負けた、と思った」
ひまり(……美人すぎる。これじゃあ敵わないわ……)
ひまり「……すごい美人。会社でも人気あるんじゃないの?」
滉星「うん……社内の男連中はほとんどみんな狙ってると思う……」
ひまり「だろうねぇ……」
N「滉星は私と結婚する前からこの人と……」
ひまり「ねぇ、この人って私と付き合う前から会社にいたの? それともあとから来たの?」
滉星「えっと……ひまりと付き合い始めて1年後ぐらいだったのかな。
異動で本社から来て、同じ部になった」
ひまり「その頃から、いいなって思ってた?」
滉星「……」
ひまり「正直に言って」
滉星「綺麗な人だとは思ってたけど、付き合うなんてことは……全然」
ひまり「それは、彼女が高嶺の花だったから?」
滉星「……」
ひまり(図星、か……)
N「『あんな美人が自分のことを好いてくれるわけがない』……そう思っていた相手から
言い寄られたときには、さぞ舞い上がったことだろう。
同時に、私のことがさぞかし邪魔になったことだろう」
ひまり「……滉星くんもさ、『好きな人ができたから別れたい』って言ってくれれば
よかったのに。そのときはまだ籍も入れてなかったんだから。
好きな人と付き合いながら私と結婚するだなんてさすがにひどすぎるよ。
本当に……あんまりだよ」
滉星「本当にごめん……。
好きだって言われて舞い上がったのは確かだけど……でも、違うんだ。
このままじゃダメだって、別れないとって、別れ話もしたんだ。
自分はもうすぐ結婚する身だし、このままってわけにはいかないから
もうこれっきりにしようって。
だけど、石田さん……あ、その相手の名前だけど……石田さんが
『結婚してからも時々でいいから会ってほしい』
『結婚してくれなんて言わないし、奥さんからあなたを奪おうなんて思ってない』
って縋ってきて……」
ひまり(……ひどい人。「奪おうなんて思ってない」って嘘ばっかり。
結婚前から滉星のことを狙って現にこうやって奪ってるじゃない。
滉星に裏切らせてるじゃない、私のことを。
……結婚前の男に告白すること自体、奪う気満々の行為でしょ? 笑わせないで)
滉星「……本当に馬鹿みたいだけど、俺自身が一番驚いてる。
浮気や不倫なんて自分には縁のない世界のことだと思ってたから。
告白されたときだって『えっ、何で俺? 結婚するって言ったじゃん』って
不思議でしょうがなかった」
ひまり「滉星くん、彼女からの告白が私と付き合う前だったらよかったのにね。
彼女がもっと早くに異動してくれば、私なんかに告白してなかったんじゃない?
……うん、そうだよ。だから、滉星くんは滉星くんで困ったんだよね。
高嶺の花が言い寄ってくるわけなんてないって思ってたのにそれが現実になって、
私の存在が邪魔くさい漬物石みたいになって。つらかったよね。ごめんね。
私、滉星くんの重荷になっちゃって。
……でも、大丈夫。今からでも遅くないから。
私が身を引けば丸く収まるじゃない。
私、好き合ってる人同士の気持ちを引き裂いたりするような趣味はないから。
安心して。
離婚してあげるから、どうぞその高嶺の花と再婚でも何でもしてください」
N「自分でも驚いた。こんなにも嫌味たっぷりな言葉がすらすらと出てくるなんて。
でも、こうでも言ってやらないと気が済まなかった」
滉星はさらに顔を青くして、ひまりのほうへと身を乗り出した。
滉星「まっ、待って! 石田さんとのことは謝る! もう会わないし、きっぱり別れるから、
ひまり……そんなこと言わないでくれ……」
ひまり「私、2番目の女になんてなりたくない。
滉星くんもさ、変なところで意地張ってないで自分の気持ちに正直になればいいじゃない。
そりゃあ、しばらくは会社にいづらいかもしれないけど、そんなの大丈夫だって。
人の噂も七十五日って言うけど、今はどこもかしこもゴシップまみれで毎日がすごいスピードで
過ぎ去っていくじゃない。すぐにみんな忘れちゃうよ。
ほら、妻である私がそれでいいって言ってるんだから。そうしなよ」
滉星「いやいや、待って。待ってよ、ひまり……。
俺、ひまりと別れるなんて一度も考えたことないから」
N「じゃあ、何で不倫なんてしたの?」
ひまり「いいよ、いいよ。そんな最後までいい人ぶらなくて。
もう私に気を遣う必要なんてないんだから」
ひまりは他人事のように「ふふっ」と笑った。
滉星「違う……違うんだ。本心からだよ。約束な。絶対に離婚はしないから」
滉星はひまりの返事も待たずにすぐにスマホを取って、必死の形相でどこかに電話をかけ始めた。
ひまりは他人事のようにそれをぼーっと見ている。
ひまり(何してるんだろう……あっ、まさか……っ!)
滉星「もしもし、俺……日比野です。君とのことを妻に知られた。
だからもう、こういう関係じゃいられない。
今日で君とのことは終わりにする……終わりにします。
今までありがとうございました」
滉星は一方的に言いたいことだけを言って、電話を切った。
相手の反応は一切わからない。
N「滉星、それで禊を済ませたつもり? でも、もう遅いよ。今さらだよ。
そんな簡単に別れられるなら、何でもっと早くに……私が知ってしまう前に
関係を終わらせてくれなかったの……」
ひまり(……なんて思っても、たぶん違うんだろうなぁ)
N「……6か月。
6か月の関係だったからこそ、今終わらせることができたのかもしれない」
ひまり(これが1か月早かったら、こんなきっぱり別れられなかったのかも……)
N「考えたところでもう意味のないこと。
そんなことばかりが頭に浮かんできながらも、私は物分かりの良い女を演じた。
……演じた? 半分は本心でもあったのだから、そうとも言えないのかもしれないけれど」
何度も謝罪を続ける滉星を前に、ただただ笑顔を浮かべるだけのひまり。
N「夫を不倫相手と分け合うなんて気持ちが悪すぎる。
……2か月前のあの日、私たちは困難にもめげず、お互いに助け合い、
生涯仲睦まじく暮らしていくことを誓ったのではないか。
祝福してくれた大勢の人たちの前で、夫婦として添い遂げるための『誓い』を……
『決意』を……2人の言葉で紡いだというのに。
あの日の神聖な誓いと決意を反故にした相手とこの先、どう生きていけばいいというのか」
ひまり(……あぁ、やっぱりダメだ。全然生きていける気がしない……)
ひまりは息を吐きながらうなだれた。