「これは夢だと思えばいい」
「えっ?」
告げられた言葉に、青年は腰の動きを止めて、まじまじと高橋の顔を見つめた。
「はるくんは俺とこういうことをするのが、嫌で堪らないだろ。義務的な感じで行為をしてもそれが俺に伝わって、全然感じないんだ。だからいっそのこと、これは夢だと思えば少しは気が楽になると思ってね」
「夢だと思う?」
何てむちゃぶりなことを言い出すんだろうという感情が、自分を見つめる眼差しから伝わってきた。眉根を寄せながら目を見開き、愕然とした面持ちの青年に、高橋はなぜだか二の句を継げることができなかった。
(どうしてあのとき、あんなことを言ってしまったんだろう。いつもなら彼を徹底的に辱めた上に貶めて、楽しむ場面だったはず――)
「牧野さん、本社からわざわざいらしたんですか?」
同僚があげた歓喜の声で、高橋の考えていたことがプツンと中断された。
「やあ! 僕が去ってから、随分と部署の雰囲気が変わってしまったね。みんなが頑張っていることは、本社でも話に聞いているよ」
皆を労うような柔らかい声が響くと、疲弊していた同僚たちの顔が、安堵に満ちたものに変わっていった。
数か月前まで、元上司だった男に興味がなかった高橋は、目の前にあるパソコンの画面に視線を釘付けにする。青年に逢う時間を、何とかして作ろうと考えた。
残業中だというのに、こうして思い出してしまうなんて、相当溜まっているなと僅かな微苦笑を自嘲的に口角に浮かべた瞬間、肩を強く叩かれる衝撃に、躰を竦める。
「僕が高橋くんをサブチーフに抜擢したというのに、随分と冷たい態度をとってくれるじゃないか。本社に行った人間には、もう興味がないっていうこと?」
背後からにゅっと顔を覗き込まれて、高橋は顎を引きながら距離をとった。心情を悟られてしまったことに驚きを隠せず、いつものポーカーフェイスを作れなかった。
「すみません、今日中に終わらせなければいけない仕事がありまして」
「悪いがそれを一時中断して、隣にある第一会議室に一緒に来てくれ」
近づけられた顔が、意味深な微笑で高橋に笑いかけるなり、すっと離れていく。こんな過度な感じのスキンシップをする男じゃなかっただけに、どうにも違和感が拭えなかった。
人はいい印象よりも、悪い印象のほうが記憶に残る――そういう経験をもとにして、常に神経をとがらせて、最悪の事態が起こったときを想定し、対処できるように心の準備をする。
そんな自己防衛本能で、どんなショックなことが起きても、予防線を張っておけば大丈夫だと自分に言い聞かせながら、牧野と一緒に第一会議室に向かった。
「単刀直入に言おう。高橋くん、君を迎えに来た」
会議室の扉を閉めたと同時に、告げられた言葉で、疑問符が頭の中に浮かんだ。
「……迎えに来た、とは?」
「今の部署は近いうちに、クラッシャーの手によって壊される予定だ。会社の予算の関係でね、売り上げのないところを潰しているんだよ。その前に、君を助けに来たというわけ」
オウム返しをした高橋に、牧野は背を向けたまま、どこか楽しげに会社のことを語っていく。
「クラッシャーって、もしかして橘さんのことでしょうか?」
「そうだよ。仕事のできない人間にうってつけのいい仕事を、会社側はさせているよね」
(予算削減のためだけに、あんなバカ上司にこき使われていたなんて――)
「本社での君の地位は、きちんと確保してある。僕の部下という形になっちゃうんだけど、サブチーフっていう中途半端な肩書じゃない。これって、そんなに悪くない話だろ?」
「俺だけ、本社に異動なんでしょうか?」
「仕事のできる高橋くんを優遇するのは、当然のことだと思う。何か問題でもある?」
自分を目にかけてくれる牧野の采配は嬉しいが、バカ上司とやり合うために一緒に頑張った同僚に対して、後ろめたい気持ちもあった。
「高橋くんは誠実で、とても優しい人柄だからね。苦労を分かち合った仲間と、離れがたいと考えたんだ」
高橋よりも大柄な背中が音もなく動き、しっかりと正面に向き合う。自分を見下ろす柔和な笑みの形を表す瞳と、バッチリ目が合った。
「ねぇ知ってる? 新田くんのこと」
いきなりなされた質問に、高橋の眉間に深い溝が刻まれる。
「何のことでしょうか?」
新田とは、先ほど高橋に栄養ドリンクを差し入れしてくれた、入社2年目の部下のことだった。彼を含めて同僚のプライベートについては、世間話からの情報のみだったので、正直なところよくわかっていない。