夢魔はじっと見つめるように真奈ちゃんに顔(だと思う)を向けており、私が扉を開けたことに気が付くと、ゆっくりとした動作でこちらに頭をあげた。
ただの黒い影のはずなのに、そこにはちゃんとした顔があって、無表情でこちらを見ているような、そんな気持ち悪い、怖しい感覚。
私は逃げることもできなくて、ただその場にじっとしていることしかできなかった。
どうしよう、助けを呼びたいのに、声が出ない。
逃げ出してしまいたいのに、足も動かない。
真奈ちゃんは瞼を閉じて、すうすうと寝息を立てていた。
アリスさんも、そんな真奈ちゃんの足元に突っ伏し、ぴくりとも動かない。
もしかして、アリスさんは、この夢魔に襲われて――
そんな恐ろしい妄想が頭に浮かぶ。
しばらく視線|(だと思う)が交わり、やがて一歩、夢魔が足を踏み出した。
まるで猫のような足の動き。
足音もなく、夢魔は動けない私との距離を詰めてくる。
私は思わず悲鳴をあげようと口を開いて。
「――静かに」
夢魔が数歩手前で手を動かし、宙に横線を引くようにして、私の口を無理矢理閉じた。
魔法使いが、人を黙らせるために使っている魔法だ。
「んんっ! んんん――っ!」
まるでファスナーで閉じられたように、私の口は開かなくなる。
私は焦り、両手で口を覆った。
これでは何もできない。助けも呼べない。
一気に恐怖が押し寄せ、目に涙が浮かぶ。
そんな私の目の前に佇む、夢魔。
「静かに」
夢魔の見えない口が、聞き覚えのある声で再びそう言った。
真帆さんだ。
真帆さんの声で、夢魔が喋っているのだ。
かつて、夢の中で真帆さんに擬態して私たちを襲った、あの時のように。
夢魔は小さくため息|(それが本当にため息なのか、私にはわからない)を吐くと、
「……危害を加えるつもりは、ない」
そう口にした。
そんなの、信じられるはずもない。
あちら側でジャバウォックをひと飲みにしてしまったほどの化け物だ。
私なんて、ひとたまりもないだろう。
そんな化け物の言うことなんて、信じられない。
「なら、これならどうだ」
夢魔が口にした途端、その身体がするすると収縮していった。
それまで人の形をしていた影が、途端に小さな黒い猫へと姿を変えたのだ。
黄色い瞳に、ピンと尖った三角の耳。足元は白い靴下を履いているかのようで、ちょこんと座り、私を見上げる。
「――これなら、怖くないだろう」
その声は、低い、男性のものになっていた。
「え、あ、あぁ……」
変なうめき声が、私の口から漏れた。
なんて答えればいいのか、わからなかった。
見た目の上でいえば、確かに怖くはなくなったかもしれない。
けれど、だからと言って、この存在が夢魔であることに変わりはない。
いつまた襲ってくるかわからないのに、猫に擬態したところで、怖くなくなる、なんてこと、あるわけがない。
「落ち着け」
再び夢魔が、その猫の形で口を開いた。
それからすっと真奈ちゃんの方に顔を向けて、
「真奈なら、無事だ。あの白い女にも、何もしていない」
真奈ちゃんは相変わらず静かに寝息を立てており、アリスさんもよくよく見れば、背中が静かに上下し、ちゃんと息をしているようだった。
それに安堵していいのかどうか、私にはわからなかったけれども。
夢魔は再びこちらに顔を向けると、
「真奈を守るためには、その心を覆うしかなかったんだ」
「心を、覆う――あっ」
いつの間にか、私にかけられていた魔法が解けていた。
今なら、叫ぶことも、助けを呼ぶこともできるだろう。
だけど、夢魔にじっと見つめられて、私にはそんなことをする勇気が出なかった。
夢魔は続けた。
「ワタシが真奈の心を覆ってしまえば、真奈は記憶を失わずにすむからな。助けがくるまで、ワタシはただ、真奈を守るために注力していたんだ」
「……なんで、そんなことを」
すると夢魔は少し考えるような仕草をして、
「子を思う親の心、というやつだ」
「お、親……?」
「ワタシは、ずっと真奈の母親……真帆の中にいた。真帆が成長するにつれて、ワタシという存在には、やがて自我が芽生えた。かつてのワタシは、ただそこに存在する為だけに魔力を貪る獣だった。だが、今は違う。ワタシは真帆を介して、この世界について、社会について、生命体について、人について、様々なことを学んでいった。ワタシもその中の、魔力から新たに生まれた、ある種の生命体的存在なのだと認識するようになっていった。これは、非常に興味深かった。ワタシの学んだ限り、魔力から直接新たな生命体が生まれたという記録はなかった」
あまりに饒舌なものだから、私は呆気にとられるばかりだった。
この猫は、この夢魔は、いったい何を言っているのだろうか。
これは、何の話をしているのだろうか。
「ワタシはワタシを知らない。ゆえに、ワタシは真帆の中で、真帆と共に、ワタシという存在を見つけていくことにした。これまでの数十年、ワタシは真帆と共にあったのだ。しかし、ある時を境に、ワタシは真帆の娘――真奈の中にいた」
「そ、それは、どういうこと……?」
わからん、と夢魔は首を振って、
「真帆が真奈を産んだ瞬間から、ワタシは真奈の中にいたのだ。或いは、真奈が優と真帆の複製であるように、ワタシもまた、真帆の身体から真奈の身体に複製された存在なのかもしれない。それを確かめたことはない。いずれにせよ、ワタシは真奈が生まれた時から今まで、ずっと真奈の中にいた。真奈を娘のように、ずっと見守っていたのだ」
夢魔が、見守っていた? 真奈ちゃんを?
とても信じられなかった。
だって、かつて夢魔は、あれだけ私たちを襲っていたのに。
多くの魔法使いたちの命を奪ってきたというのに。
夢魔はもう一度真奈ちゃんの方に視線をやって、
「これまでワタシは、こちらの世界ではこのように実体化することができなかった。恐らく、真奈があちらの世界に迷い込んだことが関係しているのではないだろうか。あちらに漂っていた魔力が、ワタシという存在に、実体化させるほどの力を与えたのだ。そう考えて間違いないだろう」
「実体化……」
確かに、夢魔はこれまで、夢の中かあちらの世界に行ったときにしか、その姿を現すことはなかった。
けれど、そんな、そんなことって……
夢魔は私に視線を戻すと、
「――お前たちがワタシを恨んでいること、憎んでいること、恐れていることは重々承知している。かつてのワタシは、魔力を貪るだけの獣だった。だが、信じてほしい。今のワタシに、そのような意思は微塵もない。それよりもワタシはただ、真奈が元気に育ってくれることを、心から願っているのだ」
じっと私を見つめる夢魔の瞳は、とても真摯で、輝いていて。
だけど。
「それを、信じろって言うの……?」
夢魔は小さくため息を吐き、
「――まぁ、無理だろうな。ワタシがかつて魔法使いを死に至らしめていたのは、否定しようのない事実なのだから」
だから、と夢魔は真奈ちゃんの方へ身体を向け、まるで本当の猫のように、トテトテと歩きながら、その小さなお尻としっぽを揺らして、
「これからのワタシを見ていてくれ。今は、それしか言うことはできない」
言って、真奈ちゃんの眠るベッドにぴょんっと飛び乗った。
一瞬、私は身を乗り出し、手を伸ばして夢魔を真奈ちゃんから引き離そうと試みたのだけれど、
「クルルル――」
喉を鳴らしながら、真奈ちゃんの頬に頭を擦り付ける夢魔のその姿に、伸ばした手を再び下げた。
夢魔の姿は、猫以外の何者でもなかった。
そこには、かつて恐怖した夢魔の姿なんて、どこにもなかった。
ただの猫が、いるだけだった。
「――んっ」
真奈ちゃんが、ゆっくりと瞼を開いた。
自分の頬に擦り寄ってくる猫に気付き、驚くような表情を浮かべてから、けれどすぐに笑顔になって、
「猫ちゃん、どこから来たの?」
そんな真奈ちゃんの声に、アリスさんも「う……んんっ」と目を覚まして、上半身を起こした。何度も瞬きして、目を覚ました真奈ちゃんに、涙を浮かべる。
「ま、真奈ちゃん! 良かった! 真奈ちゃん!」
アリスさんはぎゅっと真奈ちゃんの身体を抱きしめ、
「良かった! 目が覚めたのね! 大丈夫? 自分のお名前、わかる? ママの名前は? パパの名前は? 私の――名前は?」
そんなアリスさんの様子に、真奈ちゃんは眼を大きく見開いて、戸惑いの表情を浮かべてから、
「な、なに、どうしたのアリスさん! えっ? ええっ?」
「良かった! 私の名前、ちゃんと言えるのね! ママの名前は? パパの名前は?」
「え、ええぇ! なになに? マホとユウでしょ? それが何? どういうこと?」
……この様子なら、たぶん、大丈夫なんじゃないだろうか。
夢魔は満足げに尻尾を揺らしながら、アリスさんと真奈ちゃんのふたりを見つめていた。
今もまだ夢魔の言っていたことを信じてよいものかわからないけれど、今はとにかく、みんなに真奈ちゃんが意識を取り戻したことを知らせるべきだろう。
私は寝室に背を向けると、今だ話し合いの声が聞こえる、応接間へ向かったのだった。
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