なんかどっと疲れたな。
っていうか、帰ってこなくてよかったのなら、また夏菜を連れて戻ろうか、と思いながら有生は庭で銀次や雪丸と話している夏菜を見る。
周りに他の建物がないので、夜は何処よりも暗く、星が綺麗だ。
山の上で瞬く星々を見上げたとき、夏菜が小さな植物を持ってやってきた。
アイビーのようだ。
「これ、銀次さんのおねえさんが挿し木して増やしたのをひとつ、いただいたんですよ。
素敵な鉢に入れたらいいかなと思うんですけどね」
と黒いビニールポットに入ったそれを見せながら、夏菜は言う。
ツルが元気にピンと持ち上がったアイビーを見ながら、
「……あの部屋の窓辺に置いたら素敵だな」
と夏菜が呟くのが聞こえてきた。
二人で二日暮らしたあのマンションのことのようだった。
もう自分の家のように思ってくれているのかなとちょっと嬉しくなる。
「でも、このアイビー、どんな鉢に植えましょうかね~?
今、いいのがないんですよね、買いに行かないと」
と呟きながら、夏菜は縁側の下を見ていた。
奥の方に今、使われていない鉢などがしまわれているようだった。
「あ、そうだ」
と夏菜は縁側の下をごそごそやり、可愛らしい、ころんとした丸い素焼きの鉢を取り出してきた。
「これならあるんですけどね。
なにを植えても、何故か枯れる可愛い呪いの鉢なんですが」
「じゃあ、植えるな……」
と確かに可愛いその鉢を見ながら、有生は言った。
「で、道場に戻らなくてもいいと言われたのに、そのまま道場にいるんですか?」
月曜の朝、社長室で指月が訊いてきた。
「土日だけ二人きりという方がなんだか盛り上がる気がしないか?」
と機嫌よく言う有生を、そうですかねーとちょっぴり冷ややかな目で見て指月は言う。
「なんだその顔は……」
と有生が言うと、
「いや、男女の仲なんて、盛り上がってもすぐ盛り下がりますよ」
と指月は言ってくる。
「……水をさすようなようなことを言うなよ。
だがまあ、盛り上がったところで。
夏菜が予想外に強いのがちょっと問題だな」
「貴方からいったら抵抗されるのなら、藤原が自分から来るように仕向ければいいじゃないですか」
「そんな技術が俺にあると思うのか……」
「まあ、藤原は反射神経がいいですからね。
向こうが乗り気になってくれない限り、なかなか難しいでしょうね」
「そうだな。
気配は読む、動体視力はいい、動きも速い」
言っているうちに、夏菜を押さえ込むのは不可能なような気がしてきて、絶望的な気分になってしまう。
「……かくなる上は、夏菜を目隠しして、縛り上げるしか」
「それはただの趣味では?」
と切り捨てたあとで、指月が訊いてきた。
「それにしても、いつの間に藤原を好きだと自覚されたのですか?」
「一緒に暮らしているうちになんとなくかな。
気がついたら好きだったというか」
と言ってみたが、指月は訊いておいて、へえーと気の無い返事をしてくる。
じゃあ、訊くな、と思いながらも、なんとなく語りたい気分だったので。
「今、好きだと自覚して思い返してみるからかもしれないが。
どの時点の夏菜も可愛く思えて、何処から好きだったかわからないんだ。
でもまあやっぱり、最初に突っ込んできたときのあの一途な瞳かな」
俺のハートに響いたんだ、と言うと、
「リアルにペットボトルが胸に響いたんじゃないですかね」
と指月は言う。
「……当たってないだろうが」
と言ったときには、
「では失礼します」
と言って、指月は部屋を出ていってしまっていた。
「……指月さん。
なんでずっとこっち見てるんですか」
上林に頼まれた書類を打ち直しながら、夏菜は言った。
「いや、社長はこんな忍者の隠れ里に住んでいるような女の何処がいいのかと思って」
だから、忍者じゃないですからね、と思いながら夏菜は言う。
「指月さんは本当に社長がお好きなんですね」
だから、自分のような女が社長の側をチョロチョロするのを好ましく思わないのだろうと思ったのだが。
その言葉に、何故か指月は考え込んでいるようだった。
「ちょっと出てくる」
と言って立ち上がる。
「女は恋をすると急に可愛くなるものなのよ」
という昔昔、従姉が言っていたセリフを思い出しながら、指月は廊下を歩いていた。
そうか。
最近、藤原がやけに可愛く見えるのは、きっとそのせいに違いない、と思う。
藤原が社長と恋に落ちたから、可愛くなって。
それで、俺にも可愛く見えるのだろう。
そんなことを考えながら、真剣な顔で廊下を歩く自分を、利南子たちが何故か怖々窺いながら通っていく。
「お、お疲れ様です~っ」
「お疲れ様」
と返しながら、指月の心は少し明るくなっていた。
うん、そうだな。
藤原が可愛く見えるのは、きっと、そのせいだ。
よし、ひとつ懸案事項が片付いたぞ。
では次、と指月は仕事のときと変わらぬ几帳面さで、おのれの感情を整理しようとしていた。
藤原と社長がときどき視線だけで会話をしているのを見て、イラッと来るのは……
イラッと来るのは……。
今度はちょうどいい理由を思いつかずに焦る。
というか、避けたい答えならすぐに見つかるのだが。
それ以外の理由が思いつかず、指月はいろいろ考えてみた。
そして、今度は、夏菜が言っていた言葉が思い当たった。
「指月さんは本当に社長がお好きなんですね」
そうか。
きっと俺は社長が好きなんだ!
最悪の理由を避けるためなら、その方がまだマシだ!
そう思った指月は、迷走したまま、特に急いで持っていく必要もない書類を手に、有生の許を訪ねてみた。
有生は忙しそうにしていたので、そっとデスクにその書類を置く。
電話していた有生はこちら見て、ありがとう、というように頷いた。
仕事中の有生の顔は男が見ても、惚れ惚れする。
藤原よりは断然、こっちを好きになりたい! と改めて思った。
軽く頭を下げて社長室を出ると、ちょうど珈琲を手にした夏菜が現れた。
今から運ぶところのようだ。
「お疲れ様です」
とこちらに微笑みかけたあとで、社長室のドアをノックしようとしたので、
「社長は電話中だ。
ついでがあるから、あとで俺が持っていく。
秘書室に戻れ」
と言った。
電話の邪魔になるといけないからだ。
決して、社長室で二人きりにしたくなかったからではない。
「そうなんですか。
ありがとうございます」
と夏菜にまた微笑まれた。
……可愛い。
ぎゅっとか抱きしめてみたい、ハムスター的な可愛らしさだ。
あんな凶悪なまでに強いのに、何故だっ。
指月は今、夏菜にしてみたいと思ったことを有生相手にしてみる。
夏菜なら、社長を好きになった方がマシ、というおのれの考えに従って。
妄想の中で、有生の大きな手をつかみ、ごついな、と思いながら、抱き寄せてみた。
「……駄目だ。
どうしても投げ飛ばしてしまう……。
やはり、男は駄目だ」
如何に崇拝する有生と言えども、夏菜にしたいと思うようなことはしたくない。
妄想の中で、自分で抱き寄せておいて、投げ飛ばしていた。
社長……、
すみません、
と心の中で詫び思いながら、指月はその場を後にした。
ちょっと歩いて頭を冷やし、秘書室に戻ったとき、ドア越しに夏菜が話しているのが聞こえてきた。
「……なにか体術のことに関して、深く悩まれているようなんですよね、指月さん。
大丈夫ですかね?
今度、道場にお誘いしてみましょうか」
「指月さん、真面目ですからね~」
と上林が笑う。
……何故、そんな話になっている。
自分が、どうしても投げ飛ばしてしまうなどと呟いていたからだろうか。
いや、全然違うっ、と思いながらも、指月はなにも聞こえていなかったフリをして、ドアを開け、無言で仕事を続けた。
違う、と夏菜たちに主張すれば、妄想の中で有生を抱き寄せたことや、そう妄想するに至った原因までも話さねばならなくなるからだ。
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