春は嫌いだ。
「先生っ!」
「ああ、篠原さん」
すっかり片付けられた体育館の中、見慣れた細い背中がひとつ立っていた。
「い、一緒に写真を撮ってもらいたくて、探してたんです」
跳ねる呼吸を落ち着かせるように私は胸に手を当てた。
「ああ、そうでしたか。すみませんね。式の片付けでバタバタしてしまっていて」
先生の紡ぐ言葉はおっとりとしているけれど、丁寧で、優しい温かさがあった。
「あ、あの、せっかくですから、桜の下で撮りたいんですけど」
「そうですね。じゃあ行きましょうか」
学校がいつにも増して活気立つ中、私の耳は重なる2つの足音と、早まる心臓の音でいっぱいだった。
「ここでどうでしょう?」
先生が立ち止まって上をあおぐ。大きくて美しい桜の木だった。満開の花を背負った枝が思い思いに空へ伸びている。
「いいですね。とても素敵です」
私は携帯を片手に持ち、斜め上に手を伸ばす。
そのとき、薄紅色が風とともに舞い、優しく咲いた先生の笑顔を桜の花びらが彩った。
カシャッ
思い出がひとつ増えた音がした。
「忙しいのに無理言ってすみませんでした。ありがとうございました」
私は先生の方を振り返った。
「いえいえ、これくらい。最後ですし、僕も篠原さんと話せて嬉しかったです」
先生が微笑んだ。温かい風に柔らかそうな黒い髪が揺れる。
桜の花びらがひらひらと楽しそうに舞う。刻一刻と時が進み、終わりが足音をたてて近づいてくる。
私は思わず、こぶしをぎゅっと握り、しどろもどろの頭で必死に言葉を探した。
何か、何か言わないと。終わってしまう。この時間が終わってしまう。もう二度と、戻れないのに。
もう少し、あと少しだけ時間がほしい。この気持ちをちゃんと捨てることができるように。
「僕ね、春って大好きなんですよ」
投げられた言葉の方を向くと、桜を見上げる先生の横顔があった。
「毎年こうやってきれいな桜が見られますし、何より、大切な教え子が立派になって巣立っていくのが嬉しいんです」
太陽の光に照らされた白い頬が動き、先生は丁寧に誠実に、はっきりと言葉を紡ぐ。
対して私は、何も言うことが出来なかった。
春が嫌いだ。
春が来なければ、あと少しだけでも先生の授業を受けられたかもしれない。
終わりが来ることを寂しく思わなくてよかったかもしれない。
こんなに胸が痛くて苦しくなることもなかったかもしれない。
結局、私の涙が止まるまで、先生はもう少しだけとなりにいてくれた。
そういうところが大好きだった。
「卒業おめでとう。篠原さくらさん」
そして最後に優しく頭をなでて、先生はそう言った。
涙で揺れる視界の中、変わらぬ笑顔と温もりと、少しかすれた先生の声が春風に溶けた。
私は少しだけ春が好きになった。
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