テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#夢
凪川 彩絵
朝の食卓は、静かだった。
並ぶ料理も時間もいつもと同じはずなのに、空気だけがどこか噛み合っていない。
向かいに座る晴永の視線を、瑠璃香は感じていた。
顔を上げれば、きっと目が合う。
でも――それが怖くて、視線を落としたまま箸を動かす。
(……聞けない)
昨日見た光景が、頭から離れない。
聞けばいい。ただそれだけなのに、喉の奥で言葉が引っかかって、どうしても出てこなかった。
「……」
ふと、こちらに視線が向けられたような気がする。
晴永が、何か言おうとしている。
手元ばかり見ていて、確かめることはできない。
それでも――そんな気がした。
実際に、口を開きかけて――。
「……っ」
小さく、言葉を飲み込む気配。
なのに、それ以上は何も続かなかった。
沈黙が落ちる。
それだけで、息苦しさが増していく気がした。
(……やっぱり)
胸の奥が、じくりと痛んだ。
自分が妙な態度を取っているせいかもしれない。
それでも――何かある。そう思ってしまう自分を、止められなかった。
「……ごめんなさい。今日はちょっと早く出ます」
耐えきれなくなって、先に席を立った瑠璃香に、
「ああ」
短い返事が返ってくる。
いつもの晴永なら、「何かあるのか?」と聞いてきそうなのに、それもない。
そのわずかな違いが、胸に引っかかった。
振り返ることもできないまま、瑠璃香はその場を離れた。
***
早く出たものの、急ぎの用件があったわけではない。
会社に着くなり、瑠璃香は企画宣伝課のフロア内にあるリフレッシュルームへ向かった。
自動販売機でホットのミルクティを買って窓辺のスツールに腰掛けると、見るとは無しに眼下の街並みを見下ろす。
プルタブを引き開けて温かな液体を口に含むと、甘ったるい味が喉の奥に引っかかった。
いつもなら美味しいと思える味が、今日はそう思えない。
それだけで、小さく吐息が落ちる。
そんな調子で、一日中気持ちが落ち着かなかった。
目の前の仕事に集中しなければならないのに、ふとした拍子に昨日の光景が浮かぶ。
そのたびに思考が途切れて、手が止まった。
――視線が、上がる。
無意識に向いた先。
そこにあるのは瑠璃香の席からはかなり近い、課長の席。
けれど、そこにいるのはもう――晴永ではない。
代わりに座っているのは、新しく配属された課長――河瀬道雄だった。
五十代前半くらいの、物腰の柔らかな男だ。
「……小笹さん」
名前を呼ばれて、はっと意識が引き戻される。
「はいっ」
思わず、少し強い声が出た。
河瀬は手にしていた書類をデスクに置くと、瑠璃香を見て心配そうに眉根を寄せた。
「さっきから手が止まってるみたいだけど……体調でも悪い?」
「……あ、いえ、そういうわけでは……。あのっ、すみません」
慌てて視線を落とす。
自分でも分かるくらい、仕事に集中できていなかった。
「ならいいんだけど……あまり無理はしないでね? 新沼社長補佐からキミの評判はちゃんと聞いてる。――しんどいなら、今日は早めに上がってもいいからね?」
「いえっ、本当に大丈夫です。……ちゃんと集中します」
即座に首を振る。
折角晴永が新しい課長へいい部下として話してくれたみたいなのに、ここで休むわけにはいかない。
そんな気がした。
河瀬は一瞬だけ何か言いかけて、それから小さく息を吐いた。
コメント
2件
るりかちゃん、頑張れ(泣)
朝の食卓で交わされる、触れそうで触れない視線と沈黙の描写、すごくリアルでした。晴永の「何か言いかけて飲み込む」小さな動作に、二人の間に流れている確かなズレを感じます。職場に移ってからも河瀬課長の優しさに甘えず集中しようとする瑠璃香の不器用な強さに胸が詰まりました。この静かな緊張、続きが気になります…!