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月曜の夜、部屋の机で、手帳を開いた。
茶色い表紙。入社したときから、毎年同じ型を買っている。何でも書く。決裁の番号、棚の数、父に振り込んだ日、傘を貸した人の名前。
十月六日のページ。
『契約。期限四月五日。報酬一千万円。寝室は別。第七条、恋愛感情を要求しない。』
自分の字で、そう書いてある。その横に、指輪から剥がしたテープ。その下に、書斎の鍵。
全部書くんだろ、何でも。佐伯さんは、そう言った。
本当だった。二年付き合って、私が手帳に何でも書くのを、何度も見ている。鍵の場所と同じだ。癖を、知られている。
このページを破れば、手帳に契約の証拠はなくなる。
指で、ページの端を持った。
破れなかった。
記録を消したことが、六年で一度もない。間違えたときも、線を引いて横に直す。消さない。この一枚も、私が十月六日に決めたことの記録で、消したら、その日の私がいなくなる。
手を離した。
手帳を閉じて、鞄の内ポケットに入れた。いつもは鞄の外側のポケットだ。今日から、内側。鞄は、机から離れるときも持つ。それだけを決めた。
火曜、課長が、申し訳なさそうな顔でもなく、困った顔でもなく、少し嬉しそうな顔で来た。
「水瀬さん。忘年会、秘書室が手伝ってくれるって」
「……秘書室が」
「氷室さんが申し出てくれて。受付とか、景品の管理とか。総務だけだと人手が足りないでしょう、って」
会社の忘年会の幹事は、毎年、総務の備品係がやる。私だ。今年は、来週の火曜。神田の貸しホール。
小森さんが、机の下で私の袖を引いた。
「怪しいです」
小声だった。私は、返事をしなかった。
断る理由を、課長には出せない。人手が足りないのは本当で、秘書室が手伝うと言えば、総務は断れない。
「お願いします、と伝えてください」
「分かった。氷室さんも、水瀬さんと一緒に働けるのを楽しみにしてるって」
楽しみ。私は、鞄の内ポケットに手を当てた。
来週の火曜。受付と、名簿と、景品と、鞄の番。幹事は会場のどこにでもいて、どこにもいない。それを、氷室さんは知っている。秘書室の人が去年の忘年会にも来ていたことを、私は名簿で覚えていた。
日曜の朝、専務が玄関で言った。
「出る。付き合え」
「どこへ」
「車の中で言う」
高梨さんの車は、来なかった。専務が自分で運転した。初めて見た。紺のネクタイはしていない。
三十分ほど走って、都内の寺の前で止まった。
石の階段。墓が並んでいる。専務は、花を一つ買っていた。白い花。来る途中の店で、何も言わずに。
一つの墓の前で、止まった。
桐谷家、と彫ってある。横の石に、名前が並んでいて、いちばん新しい名前が、桐谷千代。
石は、きれいだった。落ち葉が一枚もない。十二月の寺で、ここだけ掃いてある。誰が掃いているのかは、聞かなかった。
専務は、花を置いた。
「母だ」
「……はい」
「母に、紹介する」
専務は、墓を見たまま、言った。
「契約だが」
私は、頭を下げた。深く。何と言えばいいのか分からなかったので、水瀬ひよりです、とだけ言った。それだけ、は、この家の人の言い方だ。私にも、移っていた。
石の前で、専務は帽子も手袋もしていなかった。十二月の風の中で、手を下げて立っている。会社で見る姿と、同じ姿勢だった。
専務は、しばらく何も言わなかった。
それから、一文ずつ、話した。
「母は、総務の社員だった」
「はい」
「親父が、祖父の反対を押して、結婚した」
「はい」
「家では、釣り合わないと言われ続けた。祖父にも、親戚にも。親父は、それを止めなかった」
東雲さんが言ったことと、同じだった。
「母は、結婚してからも、総務の仕事を続けた。家の中では黙っていて、会社では台帳を付けていた。十年前に、病気で死んだ」
「……はい」
「俺は、家に決められた相手と結婚しない。それだけだ」
それだけ、と専務は言った。
私は、墓の名前を見た。桐谷千代。緑の表紙のノートを抱えて、笑っていた人。
「お母様の台帳、見てみたかったです」
「ない」
「はい」
「親父が捨てた。写真が一枚、残っただけだ」
専務は、花の向きを少し直した。それだけで、手を離した。
「寒い。戻る」
言ってから、専務は、もう一度だけ名前の石を見た。
階段を降りるとき、専務は一度、振り返った。花の白が、石のあいだに見えた。それを確かめて、また前を向いた。
帰りの車で、専務は一度だけ言った。
「母の墓に人を連れてきたのは、初めてだ」
「……契約でも、ですか」
「契約でも、だ」
私は、窓の外を見た。十二月の日曜の道は、空いていた。
◇
専務のスマホが震えて、専務は画面を見て、長く動かなかった。
「兄さんからだ。金曜の、あれの返事だ」
「はい」
「親父が、俺たちの同居を調べさせた」
顔を上げた。
「寝室が二つだと、秘書室から報告が上がっている。指輪は人前ではめた、とも。矛盾している、と」
「……十二日に」
「十二日に、親族の前で、俺に聞くつもりだ。本物か、と」
専務は、スマホを伏せた。
私は、鞄の内ポケットに手を当てた。
コメント
1件
おお…第22話、すごく心に響きました。手帳のページを破れないシーン、あの「消したらその日の私がいなくなる」って感覚、すごく分かる気がしました。記録って、自分の選択の証なんですよね。 それから専務がお母様の墓に連れて行く場面、胸が詰まりました。「初めてだ」って一言に、どれだけ信頼しているかが滲んでて…契約の中だけど確かに二人の間に何かが育ってる感じがします。 最後のスマホの震えで一気に緊張が走りました。続きが気になりすぎます…!