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火曜の夕方六時、神田の貸しホールの入口に、受付の机を出した。
名簿。名札。景品の箱。それと、預かった鞄を置く段。幹事は、受付も鞄の番もやる。総務の忘年会は毎年そうで、今年は秘書室の人が三人、手伝いに入っている。
氷室さんは、その三人の先頭にいた。
「水瀬さん。景品は私たちで見ますから。受付をどうぞ」
「お願いします」
私の鞄は、受付の机の下に置いた。内ポケットに、手帳。外側のポケットには、月末に各部署へ配る未精算の催促の紙。会議室Fの十月分が、一枚、残っていた。机から離れるときは持つ、と決めていたけれど、受付は離れられない。離れないなら、ここでいい。そう思った。
小森さんが、名札の箱を抱えてきた。
「ひよりさん、名札、全部作りました。一人ずつ、色を変えて」
小森さんは、一週間かけて名札を作っていた。総務の人は緑、営業は青、役員は紺。手で切って、手で書いて。
「ありがとう。配ってくれる?」
「はい」
七時、課長が乾杯の音頭を取った。「まあまあ、今年もお疲れさまでした」。それだけで、短かった。短いのは、総務の恒例でもある。
七時半、佐伯さんが壇に上がった。頼まれてもいないのに、と小森さんが小さく言った。
「今年、営業企画では、オフィスコスト最適化のプロジェクトを立ち上げまして」
明るい色のスーツ。両手を広げる。
「年間二千万円の削減を見込んでいます。来年は、皆さんの働き方が変わります」
拍手が、少しあった。私は、受付の名簿に印を付けていた。遅れてきた人の分。
専務は、会場のいちばん奥の、壁際にいた。グラスを持たずに。社長は来ていない。常務は、佐伯さんの近くで笑っていた。
八時過ぎ、景品の箱のところで、声がした。
「総務の小間使いさん。グラス、足りてないわよ」
氷室さんの声だった。
小森さんが、名札の箱を抱えたまま、立っていた。
「あ、はい、すぐ」
「それと、その名札。手作りって、ちょっと。社内の行事なんだから、ちゃんとした物を発注すればいいのに。総務でしょう」
氷室さんは、小森さんの腕の中の箱を、手の甲で払った。
軽く。でも、箱は落ちた。
緑と、青と、紺の名札が、床に散らばった。一週間かけて作った、手で切った紙が。
小森さんが、しゃがんで、拾い始める。周りの数人が、見ている。見ていて、誰も動かない。
私は、受付の机を離れた。
鞄のことは、頭にない。
景品の箱の前まで歩いて、氷室さんの前で止まる。小森さんが床で名札を拾っている、その横で。
「氷室さん」
「あら、水瀬さん。受付は」
「十月二日の、会議室Fのご予約」
氷室さんの笑顔が、消えた。
「金曜の、午後六時から八時。社長のお名前で、秘書室として予約されています。業務の予約なら、部署の精算の欄に印が要ります。印が、ありません」
「……何の話」
「私用の予約は、精算の欄に、ご本人の印が要ります。それも、ありません。十月二日から、二か月、精算されていません」
私は、鞄の外側のポケットから出しておいた紙を、氷室さんに渡した。会議室Fの予約表の、十月のコピー。二日の欄に、秘書室、社長のお名前、六時から八時。精算の欄は、空欄。
「記録では、こうなっています」
氷室さんは、紙を見ている。
周りの数人が、氷室さんを見る。常務が、少し離れたところから、こちらを見ている。佐伯さんが、常務の隣で、グラスを持ったまま動かない。
私は、それ以上何も言わなかった。言うことは、一つ残っていた。
「名札、拾ってください」
氷室さんは、紙を持ったまま、私を見た。きれいな笑顔は、戻ってこなかった。
しゃがんだ。
床の名札を、一枚、拾った。紺の名札だった。役員の色。
それだけだった。氷室さんは一枚を小森さんの箱に入れて、立ち上がって、何も言わずに秘書室の人たちのほうへ戻っていく。会は、続く。誰も、何も言わない。
小森さんが、箱を抱えて立った。目が赤かった。
「ひよりさん」
「名札、きれいだと思う」
「……はい」
私は、受付に戻る。鞄は、机の下に、置いたままある。
名簿を開いて、遅れてきた人の印を二つ付ける。手は、いつもどおりに動いた。氷室さんは、秘書室の人たちと景品の箱の前にいて、こちらを見ない。
会場の奥で、専務と目が合った。
専務は、壁際から動いていない。私を見ている。どのくらい前から見ていたのかは、分からない。
目が合って、専務が、先にそらした。
それだけだった。
#年の差
当麻月菜
1,226
星キラリ

1,535
#略奪
秘翠ミツキ
1,891
美並ナナ
1,572
帰り道、二人で歩いた。神田の夜は、早く静かになる。
「今日のお前は、よかった」
専務が、言った。前を見たまま。
「……小森さんの名札だったので」
「知っている」
「私のことなら、言いませんでした」
「知っている」
専務は、それ以上何も言わなかった。言わないまま、歩く速さを、私に合わせた。
マンションに帰って、台所の机に鞄を置いた。
内ポケットから、手帳を出した。
いつもの癖で、栃のページを開く。十月六日。
開いたページは、十月六日ではなかった。
十一月二十日。常務が総務に来た日。そこに、栃が挟まっていた。
十月六日のページは、その十四枚前。テープが、貼ってある。
私は、栃を、動かしていない。
コメント
1件
うわ、これ……めちゃくちゃいい場面ですね。氷室さんが小森さんの名札を払い落とした瞬間、会場の空気が凍るのが伝わってきました。でも水瀬さん、そこで会議室Fの予約精算漏れを冷静に差し出すのが、静かでありながら完璧なカウンターで。手で切って一週間かけた名札を「ちゃんとした物を」と言われた小森さんの気持ちを思うと切ないけど、拾わせた流れが清々しかったです。ラストの栃の位置が動いてる伏線も気になる…。