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「なんだよ、それ?可愛くねーな」
言葉では面白くないと言っていたが、彼は気分を悪くしたわけではなさそうだった。
「早く、風呂入れ。冷めるぞ?」
私の手を優しく引っ張り、立たせてくれた。
「はい、入ってきます」
私は目を擦りながら自分の部屋に行き、着替えを持ち、お風呂場へ向かった。
「こんなに大きいお風呂に一人で入ったのは、初めて。しかも、ジャグジー付きなんて……」
ゆっくりお風呂に入らせてもらい、リビングへ向かうとなぜか湊さんがギターを持ち、ソファに座っていた。
「お風呂ありがとうございました。これから作曲ですか?湊さんってギターも弾けるんですね」
彼がギターを持っているところは初めて見た。
「いや、基本的には家の中で作曲はしない。楽譜とか見る時はあるけど。ギターは上手くはないけど、ある程度は弾ける」
「隣に座れ」
どうしたんだろう、彼の真剣な表情に戸惑う。
「はい」
返事をして、指示通りに彼の隣に座った。
「今日はお前の家政婦としての就職祝いだ。一曲だけ、本気で歌ってやる。何が聴きたい?」
彼の提案に固まってしまった。
「一応言っとくが、このマンション、防音設備が備えられているから、近所迷惑とか考えるなよ。わざわざ楽器も使用可能なマンションにしたんだ」
私の思考はそこまで及ばなかった。
どうしよう、嬉しすぎてもう泣きそうだ。
「Last Songが聴きたいです」
彼は一言
「わかった」
とだけ言った。
そして深呼吸を一回した。
「……わかっていた。これであなたと逢えなくなることを……」
彼が歌い出した。
鳥肌が立つ。
人を惹きつける歌詞、声音、ぶれない音程……。
こんなに近くで聴けるなんて、しかも私だけのために。
彼が一曲歌い終わる頃には、過呼吸になるんじゃないかと思うくらい感動し、涙が溢れていた。
「せっかく風呂入ったのに、顔がぐしゃぐしゃだぞ」
私の様子を見て、彼は笑っていた。
「これで俺が本物だってわかっただろ?今日は特別な」
コクンと頷いた私の頭をポンポンと叩く。
彼に歌われたあとに、そんなことされたらドキドキしてしまう。
狙ってやっているの?
一日が終わり、ベッドに横になる。
湊さんの明日からのスケジュールは教えてもらったから、それに合わせてご飯作らなきゃ。
明日は何がいいかな、そんなことを考えながら眠りについた。
「おはようございます。ご飯、出来てますよ?」
寝室で寝ている湊さんに声をかけ、起こそうとする。いつも通りポンポンと肩を叩いても起きようとしない。
「私、学校に遅刻しちゃうので、先に家を出ますね?今日はその後、成瀬書店のアルバイトに行ってきます」
聞こえているのかわからないが、要件だけ伝え部屋から出て行こうとした。
彼は非常に寝起きが悪い。
しかし、仕事に遅刻することはないから不思議。
同居生活も慣れてきて、段々と彼のペースがわかってきた。
「う……ん。朝ご飯なに?」
朝ご飯の心配をしている、可愛くて少し笑ってしまった。
「朝ご飯は、お魚とほうれん草の和え物と卵焼きです。卵焼きは、湊さん好みの甘いやつですよ。デザートは、杏仁豆腐を作りましたから」
彼の食事には、デザートが欠かせない。
そんなに糖分を摂って大丈夫かな?と心配になるけれど、アーティストとして仕事をしている時に外で食事を摂る時は、甘い物は食べないらしい。
本人曰く、イメージを壊さないために言わないこともあると言っていた。
なので、私がご飯を作る時は必ず甘い物を提供する。
「ん?杏仁豆腐?」
彼が少しずつ覚醒してきたが、私はそろそろ部屋を出なければならない。
「湊さん、ご飯、机の上に置いてありますから。杏仁豆腐は冷蔵庫の中ですよ?」
「わかった。行ってらっしゃい」
彼はまだ枕を抱きしめていたが、そろそろ起きるだろう。仕事にだけは真面目な人だということが最近わかった。
私はいつも通り音楽学校に通学をする。
学校では、私より年下の子の方が多い。
それは、私が二十三歳という就職をしていても不思議ではない年齢だからでもある。
仲が良い子はいなかったが、とりあえず挨拶だけはしていた。
「おはよう」
「おはよう、佐伯さん」
「あっ、佐伯さん。聞いた?今度、合宿があるらしいよ?」
「えっ?そうなの?」
私の頭では、合宿イコールお金がかかるというイメージ。金銭的に余裕がない私にとっては一大事だ。
「いつ頃かわかる?」
「うーん。先生がさりげなく教えてくれただけだからわからないけど。まだ通知来てないし。一泊二日って言ってたような気がする」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
一泊二日でも私にとっては死活問題だ。
来月くらいになれば、きっと家政婦のお給料がプラスで入るようになるし、湊さんのおかげで家賃と光熱費と食費が浮いているから、最悪、成瀬書店のアルバイト代だけでも足りる……はず。
あとは、湊さんに説明しなきゃ。
アルバイトを休むことと、その間、家事ができないこと。
あぁ、想像しただけで怒られそう。
「俺の飯はどうするんだ?」などと言いかねない。早く日程を知って、楽になりたい。
合宿があると知った日の授業は、憂鬱だった。
授業が終わり、成瀬書店へアルバイトに行く。
「お疲れ様です。交代します」
パートさんに声をかける。
「ねえねえ、佐伯さん。店長に聞いてくれた?この店の今後について」
あっ、すっかり忘れていた。
もとはと言えば、お店の売り上げが落ちていることを店長に相談するために二階へ行って、いろんなことがわかった。
有名アーティストの湊さんがこのお店の店長さんだったり……とか。
そういえばなんで湊さん、このお店の店長をしているのだろう。成瀬って苗字なのだろうか。
まだまだ彼について知らないことが多すぎる。
最近では、学生・アルバイト・家政婦として毎日が忙しいため、彼とゆっくり話している時間もない。
湊さんも最近、帰って来るのが遅い。
「すみません。まだ聞いていません。今度聞いてみますね」
「うん、頼むわね。私、店長のことが苦手で」
どうして苦手なんだろう。
店長としての湊さんは猫を被っているから、そんなに怖くないのに。
「なんで、苦手なんですか?」
興味本位で聞いてしまった。
「そうね、あの人。何を考えているのかわからないのよ。年齢もいくつかわからないし。三十は超えていると思うんだけど。若いのか、年をとっているのかわからないわ。会話もあまりしないし」
三十歳を過ぎている。
湊さん、聞いたら怒るんだろうな。
売り上げは確かに減っている。
湊さんに会ったら、聞いてみよう。
アルバイトが終わり、店を閉める。
近所のスーパーに寄って、食材を買って帰宅する。
「湊さん、まだ帰って来ていないんだ」
新曲が発売されるから、忙しいのだろうか。
私は湊さんと同居を始めてからも彼の歌のファンである。
彼は、音楽番組やラジオなどのメディアにあまり出演しないため、雑誌やネットニュースで情報を得ていた。
先月の雑誌に新曲発売と載っていた。
もちろん、私はもう予約済。
彼の予定を見ると帰って来て夕食とあったため、とりあえずいつ帰って来てもいいように夕ご飯の支度をした。
私がシャワーを浴びようと思っていた時、彼は帰って来た。
「おかえりなさい」
「ただいま。疲れた」
ソファへ座り込む彼。
「夕ご飯、温めてもいいですか?」
「頼む。腹減った」
帰ってきてすぐ着替えるのに、今日は動く気配がない。相当疲れているのだろう。
「湊さん、ご飯できました。私、シャワー浴びてくるので、洗い物は置いといてください。冷蔵庫にアイスクリームがあるので、食後にどうぞ」
「ん、ありがとう。いただきます」
今日も疲れてそうだから、成瀬書店の話とかはしない方がいいよね。
私がシャワーから戻ってくると夕食は完食されていて、洗い物も済んでいた。
そのままにしてくれていいのに。
そういうところはしっかりしてるんだから。