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秋の気配が深まり、洋館の庭にある大きな銀杏の木が、地面を黄金色のじゅうたんに変え始めていた。
管理人の湊は、たけぼうきを動かす手を止め、ふと門の方を見やった。
カサリ、という乾いた音と共に、一人の老人が立っていたからだ。
その男性――佐藤さんは、ひどく疲れ切った顔をしていた。
着古したトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、所在なげに空色のポストを見つめている。
湊はそっと歩み寄り、いつも持ち歩いているスケッチブックにペンを走らせた。
『こんにちは。今日は風が冷たいですね。中で温かいお茶でもいかがですか?』
佐藤さんは力なく首を振った。
「いや……いいんだ。ただ、これをどうすればいいものかと思ってね」
彼がポケットから取り出したのは、一枚の薄汚れたメモ用紙だった。
そこには、走り書きのような文字で、味噌汁の作り方が記されていた。
「家内がね、亡くなる数日前に書いたものなんです。……病室のベッドで、震える手で。僕が料理なんて一度もしたことがないのを心配して」
佐藤さんの声が、秋風に混じって震える。
「情けない話ですが、この一年、毎朝これを見ながら作っているのに、どうしても同じ味にならない。出汁が足りないのか、味噌が違うのか……。昨日、ついに仏壇の前で叫んでしまったんです。『お前の味なんて、もう忘れたよ!』って。……最低ですよね」
湊は何も言わず、ただ静かに佐藤さんの言葉を受け止めた。
「忘れる」ということは、二度目の死を意味するようで怖い。
湊自身も、その恐怖を誰より知っていた。
湊はスケッチブックをめくり、新しいページにこう書いた。
『佐藤さん。奥様は、あなたを料理人にするためにそのメモを残したのではないと思います。』
佐藤さんが顔を上げると、湊は続けた。
『台所に立って、お玉を持って、自分のために奮闘するあなたの後ろ姿。奥様は、それが見たくてレシピを書いたのではないでしょうか。味の正解は、メモの中ではなく、あなたのその温かくなった指先にあります』
佐藤さんは、自分の節くれ立った指先をじっと見つめた。
毎日、不器用なりに野菜を切り、鍋を見つめてきた指。
それは、妻が愛した日常を守ろうとした証だった。
「指先に……。そうか、私は……味の正解を探すことに必死で、あいつが隣にいてくれる感覚を忘れていたのかもしれない」
佐藤さんは深く、深く息を吐き出した。
そして、大切に持っていたレシピのメモを、空色のポストの口へと差し込んだ。
「あいつに、伝えなきゃいけない。レシピはもう、全部覚えたよ。だから、次は僕がそっちに行くまで、ゆっくり休んでてくれって」
カタン。
乾いた音が、静かな庭に響く。
それは、一年間止まっていた佐藤さんの時間が、再び動き出した音のようにも聞こえた。
その日の夜。
湊はアトリエの暖炉に火を灯した。
ポストから回収した佐藤さんのメモを、揺らめく炎の中へそっと投げ入れる。
紙がゆっくりと丸まり、黒い灰となって煙突から夜空へ吸い込まれていく。
ふわりと、アトリエの中に温かな香りが満ちたような気がした。
それは味噌の香りでも、出汁の香りでもない。
愛する人を想う時にだけ漂う、世界で一番優しい記憶の匂いだった。