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休日
ヨコハマの街は、今日も今日とて騒がしい。 だが、その喧騒すらも春の柔らかな日差しに溶かされ、どこか他人事のように聞こえる。ポートマフィアの幹部、太宰治にとって、今日は稀に見る「完全なる休日」だった。
目覚めたのは昼過ぎのことだ。安物のカーテンの隙間から差し込む光が、ベッドの上で丸まっていた彼女の細い肩を叩いた。太宰は一つ大きく欠伸をし、無造作に跳ねた黒髪を指先で梳く。鏡に映る自分の姿は、どこからどう見ても二十代の、少しばかり線の細い女性だ。生まれついてこの身体で生きてきた彼女にとって、周囲が「太宰治」という名に抱く畏怖と、この華奢な肢体とのギャップは、人生を彩るちょっとしたスパイスのようなものだった。
「さて、今日は何をしようか。心中のお誘いをするには、いささか天気が良すぎるね」
独り言をこぼしながら、彼女はゆっくりと支度を始めた。いつものベージュのコートではなく、今日は少し気分を変えて、深いネイビーのタイトなワンピースを手に取る。首元や手首に巻かれた包帯は、彼女にとって皮膚の一部も同然だ。それを隠すように、あるいはあえて見せびらかすように、お洒落を愉しむのが太宰流の休日の過ごし方だった。
まず向かったのは、元町にある馴染みのセレクトショップだ。 普段は仕事着――といっても、彼女の場合はそれが一種の戦闘服なのだが――ばかりだが、たまにはこうして流行の先端を覗き見るのも悪くない。店に入ると、店員が慇懃に頭を下げる。彼女の正体を知ってか知らずか、その立ち振る舞いからは一端の「淑女」としての扱いを受けていることが分かる。
「あら、そのスカート、ラインが綺麗だね」
鏡の前で、薄いグレーのフレアスカートを自分の腰に当ててみる。 太宰は自分の美貌を自覚していた。そして、それをどう使えば他人がどう動くかも熟知している。だが、今日は誰を騙す必要もない。ただ、自分が心地よいと思うものを選び取るだけだ。そんな当たり前のことが、この街の闇に生きる彼女にとっては、最高に贅沢な遊びだった。
数着の服を選び、満足げに店を出る。紙袋を腕に下げた彼女の足取りは軽い。 次に向かったのは、以前から少し気になっていた路地裏のカフェだった。 「カフェ・ボヌール」。看板にはそう書かれている。 店内はこじんまりとしていて、アンティーク調の家具が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。太宰は窓際の席に座り、お薦めだというダージリンと、季節のフルーツをふんだんに使ったタルトを注文した。
運ばれてきた紅茶の香りをゆっくりと吸い込む。 湯気の向こう側で、ヨコハマの街を行き交う人々が見える。彼らは皆、自分たちの日常を必死に生きている。太宰はその光景を眺めながら、ふと、ある男の顔を思い浮かべた。
中原中也。 同じ組織の幹部であり、彼女の相棒であり、そして――現在の恋人でもある男。
「……中也の誕生日は、確か来月だったかな」
タルトを一口運ぶ。甘酸っぱい苺の風味が口いっぱいに広がった。 中也の誕生日。あの男は、贈り物など「酒さえあれば文句はねえ」と言うに決まっている。だが、それだけでは芸がない。せっかく自分が選ぶのだから、彼が困惑し、それでいて内心では喜ぶような、そんな絶妙なラインを攻めたいところだ。
「帽子はもう山ほど持っているし、バイクのパーツなんて私にはさっぱり。やっぱりワイン? いえ、それは普通すぎる。もっとこう、彼を驚かせるような……」
太宰は頬杖をつき、窓の外を見つめながら思考を巡らせる。 中也との付き合いは長い。少年時代から「双黒」として死線を潜り抜けてきた。彼が自分に向ける視線の中に、時折混ざる「女」としての自分に対する戸惑いや、抑えきれない情愛。それを弄ぶのは彼女の特技だが、たまには素直に祝ってやるのも悪くないだろう。
「ネクタイピン? ……いや、あいつの趣味に合わせると、また派手なものになりそうだ。いっそのこと、私が選んだ服を着せるというのも一興だね。あの男、ファッションセンスは悪くないけれど、どこか型にハマりすぎているから」
想像してみる。彼女が選んだ、少しだけ遊び心のあるシャツを、不機嫌そうに、けれど断りきれずに着る中也の姿。その姿を想像するだけで、太宰の口元には自然と意地悪な、それでいて年相応の女性らしい微笑が浮かんだ。
「でも、あいつに一番似合うのは、結局のところ、私が隣で笑っていることだったりして」
自分で言っておきながら、少しだけ気恥ずかしくなり、太宰は慌てて紅茶を流し込んだ。 恋などというものは、彼女の人生設計(もっとも、それは「いかに美しく死ぬか」という設計図だが)には存在しなかったはずのものだ。それなのに、あの中也という男は、泥臭く、真っ直ぐに彼女の心に踏み込んできた。
カフェを出る頃には、陽は少し傾き始めていた。 空は茜色に染まり、港からの風が少し冷たさを帯びる。太宰はコートの襟を立て、再び歩き出した。 誕生日プレゼントの候補をいくつか頭の中にリストアップしながら、彼女はふと、自分が今、この瞬間を「楽しんでいる」ことに気づく。
死を望み、生に倦んでいたはずの自分が、誰かのための贈り物を選び、明日という日を待ち遠しく思っている。 それは、かつての彼女からすれば信じられないほどの変節だった。
「中也のせいだね、これは」
低く呟いた声は、海風にかき消された。 通り過ぎるショーウィンドウに映る自分を見る。そこには、マフィアの死神としての顔ではなく、一人の恋する女性の顔があった。
「さて、最後は……あいつの好きなヴィンテージのワインショップにでも寄っていこうか。結局、酒もセットにしないと、あの小型重力使いは機嫌を損ねそうだし」
独り言を言いながら、太宰は夕暮れのヨコハマを歩き続ける。 特別なことは何もない休日。けれど、彼女にとっては、どんな任務の成功よりも、どんな完全自殺の計画よりも、今の自分を肯定できる大切な時間だった。
歩道橋の上で足を止め、彼女は港を見下ろした。 遠くで汽笛が鳴る。 中也の誕生日まで、あと少し。 彼をどう驚かせ、どう喜ばせ、そしてどうやって二人で夜を過ごすか。 その計画を立てることは、彼女にとって新しい生きる理由の一部になりつつあった。
「誕生日は、二人で海が見えるレストランがいいね。あいつ、意外とロマンチストだから」
太宰は小さく笑うと、夕闇に溶け込む街の中へと消えていった。 鞄の中には、新しく買った服と、恋人への想いが詰まった小さなメモ書き。 明日の仕事は、きっとまた血生臭いものになるだろう。だが、今の彼女には、帰る場所があり、待っている男がいる。
それは、彼女が長い時間をかけて手に入れた、何物にも代えがたい「生」の証だった。 ヨコハマの夜が始まる。 ガス灯が灯り、街が宝石のように輝き出す中、太宰治の休日は、穏やかな幸福感と共に幕を閉じようとしていた。
だが、物語は終わらない。 彼女が選んだプレゼントを中也に渡すその日まで。 そして、その先もずっと。 この騒がしくて愛おしい街で、彼女は「太宰治」として、そして一人の女として、生きていくのだから。
家路につく途中、彼女はふと空を見上げた。 一番星が、まるで彼女を祝福するように冷たく、けれど優しく光っていた。 「中也……喜んでくれるといいのだけれど」 その声は、春の夜の風に乗って、愛しい相棒の元へと届いたかもしれない。
彼女は再び歩き出す。 その足取りは、どこまでも軽やかで、迷いがなかった。 休日の終わりは、また新しい日々の始まり。 彼女の物語は、これからもこの街のどこかで、密やかに、そして大胆に綴られていく。
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♡100行ったぞ〜続き投稿しろ〜