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「どうかしたか?」
「えっ、あ、いや」
怪訝そうな仁志に尋ねられ、結月は何でもない風で笑んだ。
「そういや、逸見さんってどうしてるのかなって思って。 今日とか、ご飯ってどうしてんの?」
「……逸見か」
仁志の声は低い。
(え? なんか悪いコト言った、おれ?)
「……逸見なら」
妙な緊張感を打ち破るように、部屋に呼び鈴が響いた。
結月の部屋を尋ねてくる人物なんて、限られている。
「逸見さん?」
確か前回も、ノックではなく呼び鈴を鳴らしていた。
小走りで玄関へ向かい扉を開けると、大量の紙袋やら小箱やらを背に、スーツ姿の逸見が優しげな笑みを浮かべて立っていた。
「なにこの荷物!?」
「社長からのご依頼でして。すみませんが、中に運び込ませて頂いてもよろしいですか?」
「え? あ、いいけど……」
「ありがとうございます」
仁志の指示だというのなら、結月に拒否権はない。
だというのに、こうして律儀に断りを入れる辺り、さすが逸見だと感服する。
「おれも手伝うよ」
「ありがとうございます」
二人ならば、二往復もすれば終わるだろう。
結月は目ぼしい紙袋を両手いっぱいに持ち、バランス良く重ねた箱を抱えて部屋に上がる逸見の背に続いた。
「お待たせしました」
「ああ、全て揃ったか」
「はい。ご依頼のものは過不足無く、お持ちしております。いい香りですね」
ソファー横に荷物を下ろした逸見が、ふわりと目元を和らげた。
「逸見さんも食べてく?」
「いえ、私は」
「えーおれの飯、嫌い?」
「そういう訳では……」
「あ、じゃあ予定ありとか? デートとか。逸見さん格好いいし、モテるでしょ」
「結月」
静止をかけたのは仁志だ。不機嫌そうに、椅子に座ったまま顔だけを向け、剣呑に瞳を細める。
だが結月は恐怖よりも、鼓膜に響いた音に停止していた。
(っ、今)
「おれの名前、呼んだの初めてじゃん?」
「……そうか?」
絶対そうだ。
結月の記憶の中に、仁志に名前を呼ばれた覚えはない。
(……ふいうち)
暗闇に紛れた猫に遭遇した時のように、結月の心臓はバクリバクリと跳ね上がっていた。
いや、これは純粋な驚愕だけだけではない。結月は確かめるように、胸元に手を添えた。
(……嬉しい、んだ、おれ)
仁志に名前を呼ばれた事が。
「それでは、私はこれで失礼します」
「え!? あ、ゴメン逸見さん!!」
「いえ、助かりました」
いつの間に全て運び終えていたのやら、逸見は用事は済んだと頭を下げると、玄関へと歩いて行く。
「ゆっくり休め」
「はい、ありがとうございます。結月さんも、夜分失礼しました」
「ううん。お疲れ様、逸見さん」
「ありがとうございます。では、失礼します」
慣れた所作で目礼をして、逸見は開けていた扉を閉めた。
これが今日の最後の仕事だったのだろうか。ならば、依頼主はとっくに寛いでいるといるというのに、何とも損な役回りである。
この職が向いていたのだろうと微笑んだ逸見の意思を踏みにじるつもりはないが、結月の中で逸見は尊敬すべき存在だと認識されている為、どうにも勿体無く思ってしまう。
「……かわいそう」
ションボリと零した結月の呟きに仁志が片眉を跳ね上げたが、結月は微塵も気が付かなかった。
トボトボと肩を落として席につき、茶碗の縁に渡していた箸を取って、中断していた夕食を再開する。
「逸見さんって、なんであんなに出来た人なんだろ……」
「……」
「夕飯これからなのかな……。あ、逸見さんって今フリーなの?」
「……どうしてお前が気にする」
「え? 普通に気になるでしょ。いい男がフリーかどうかって」
あっけらかんと言い放った結月に、仁志はいっそう顔を顰める。
部屋の空気が三度ほど下がった感覚に、結月は小首を傾げた。
(怒らせるような要素あった? いやないね)
本気でわからないという表情の結月仁志は目を眇めると、視線を落として茶碗を持った。
「……俺は訊かれていない」
「…………へ?」
「俺は、訊かれていない」
主張を重ね、この話しは終わりだとでも言うように、仁志は食事を再開する。
結月が鼓膜に届いた音の意味を理解するまで要した時間はざっと十秒。ジワジワとこみ上げてきた衝動に、耐えきれず吹き出した。
『いい男がフリーかどうかって』
なるほど。
この男は、その『いい男』の枠に自分が入っていないことを、不服としているのだ。
「なに、妬いたの?」
大方、様々な人物から称賛を受けているであろうに、結月の品評にそぐわないと拗ねる様は、誇示を通り越していっそ清々しい。
クツクツと笑う結月にも仁志はだんまりを決め込んでいて、その様がさらに結月の心をくすぐった。
(変なヤツ。いまさらか)
なんだかちょっと、可愛いかも。
「……だってさ。雇った情報屋に飯せがんでくる男が、パートナー持ちな訳ないじゃん」
心を込めたフォローがどの程度通じたかはわからないが、仁志は少しだけ考える素振りを見せたあと、「……そうか」と小さく呟いた。
米粒ひとつ残さず綺麗に平らげたお椀を置き、手を合わせること無く、仁志が「美味かった」と箸を置く。
結月は人生で初めて、豆腐で喉をつまらせた。
***