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ある日の午後
陽光が柔らかに差し込むサロンで、私はルカスと向かい合っていた。
テーブルの上には、焼きたてのスコーンの香ばしい匂いが漂っている。
ルカスが完璧な所作で淹れてくれた、お気に入りの紅茶からは、温かな湯気が立ち上っていた。
いつも通りの穏やかな時間。
このまま彼と、たわいもない会話を楽しめるはずだった。
「それはそうと、お嬢様。実はお嬢様に縁談の話が来ているのですが──」
その一言で、私の世界は音を立てて凍りついた。
ティーカップを唇に運ぼうとしていた私の手が、空中で不自然に止まる。
「……縁談?」
ルカスは、私と視線を合わせることを避けるように落としたまま、いつもの冷静な、血の通わない声音で続けた。
「先日の夜会でお声がけされた、ハルフォード伯爵家のご子息です。家柄も申し分なく、将来も有望で──」
「嫌よ」
最後まで言わせず、食い気味に即答した。
「そんなの、嫌に決まってるわ」
私がそう言っても、ルカスは眉ひとつ動かさない。
その「何も感じていない」ような、ただ職務を遂行しているだけの態度が、私の胸を激しくざわつかせる。
「ですが、これはお嬢様のためでもあります。お相手のギルバート子爵は名家の出で、資産も申し分ない。そう嫌悪なさらず、一度お会いするだけでも────」
「ルカス、本気で言ってるの?」
喉の奥が、焼けるように熱くなる。
沈黙が流れる中、私は震える指先で、首元に手をやった。
そこには、この前のデートでルカスがプレゼントしてくれた赤いブローチがある。
あのとき、私を抱きとめてくれた彼の、確かな熱が宿っているはずの宝石。
なのに、今のルカスの言い方は、どうしようもなく冷たくて、腹立たしい。
“お嬢様のため”
“正しい選択”
いつもそう。
彼はいつだって「執事」という名の完璧な鎧を身に纏い、私の心から逃げ回る。
少しの沈黙が落ちる。
カップの中の紅茶が、私の指先の震えを映して、微かに揺れた。
「………ねえ、ルカス」
私は絞り出すように、静かに言った。
「私、ルカスのこと変わらず好きよ。バラの花冠をくれたあのときから、ずっと……貴方の恋人になりたいって、それだけを恋焦がれてきたの」
私の告白に、ルカスの背筋がわずかに強張るのが分かった。
「でも、ルカスはそういう話題になると、決まって話を逸らすわ。今回だってそう。縁談なんて、私をここから追い出すようなことを……」
「それは……っ、執事として、一線を超えてはいけませんから──」
また、その言葉。
私の心を何度も殺してきた、呪文のような拒絶。
「そうじゃなくて!」
我慢できず、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「ルカス自身はどうなの? 本当に私のこと、一人の女として見れないの?」
「私が、あなたのお仕えするお父様の娘だから……だから、好きになってもらえないの……?」
一瞬だけ、ルカスの瞳が激しく揺れたのを、私は見逃さなかった。
けれど、その揺らぎはすぐに、分厚い鉄の仮面の下へと伏せられてしまう。
「……執事が雇用主や、ましてや、ご令嬢を好きになってはいけない。そこに、私個人の想いなど介入する余地はありません」
「……っ、執事じゃなくて!一人の男として私を見てって言ってるの!」
気づけば、私は彼の胸に飛び込んでいた。
燕尾服の冷たい、けれどパリッとした生地越しに、彼の体温を感じたい。
彼の心に訴えたい、その一心で。
「お、お嬢様……っ」
ルカスの腕が戸惑うように上がった。
けれど、私の背中に触れる寸前で、ピタリと止まる。
その拒絶に近い慎重さが、今の私には何よりも苦しい。
「……っ、ワガママって分かってる。でも……わたし、ルカスじゃなきゃ嫌よ……っ」
彼の胸に顔を埋めて、溢れ出しそうな泣き声を必死に押し殺す。
「ルビー様……っ」
長い、あまりに長い沈黙の後、彼の喉が鳴る音が聞こえた。
「分かりました、分かりましたから……一度離れてもらえますか?」
「いや……!またそうやって、逃げるでしょ……」
「逃げません。……約束しますから」
その言葉を信じて、私は指先に力を込めていた彼のシャツを放し、渋々離れた。
乱れた呼吸のまま、涙で潤んだ瞳で、私は逃がさないように彼を睨み上げる。
「縁談はお断りも可能ですので……お父様には、私から進言しておきますから。……どうか、落ち着いてください」
「……もう! ルカスのバカ!!」
思わず叫んで、私は彼の胸をポカポカと拳で叩いた。
ルカスは避けようともしない。
されるがままに、ただ、悲しげで、困ったような顔をして私の衝撃を受け止めている。
その“完璧な執事”を崩さない態度が、今は何よりも私を傷つける。
「縁談を断ればいいなんて、そういう問題じゃないわ! 私が本当に知りたいのは、ルカスの気持ちなのに……!」
「お嬢様……私は、お嬢様のために言っているんですよ。いい方と結ばれれば、いい人を見つけて身を固めれば、社交界での『淫乱令嬢』なんていう汚らわしい噂も消えるかもしれません」
彼は、自分自身を納得させるように言葉を紡ぐ。
「私などに時間を割くよりも、それがお嬢様の幸せだと───」
叩く手の力が、ふっと抜けた。
代わりに、彼の白いシャツをぎゅっと、引きちぎらんばかりに掴み直す。
「……わたし、どんな噂を立てられても平気だったよ」
喉がひりつく。
「だって、本当の私をルカスが知ってくれてるから。……この間、ブローチもくれた。花冠も覚えていてくれてた。だから……もしかしたらって、期待してた……っ」
視界が、一気に滲んでいく。
「でも……ルカスは、そんなに私に好かれてるのが嫌ってことよね」
「っ、そういうことを言っているわけでは……!」
ルカスの声が、初めて鋭く響いた。
感情が剥き出しになった、低い声。
「じゃあ何……どうしていつも“執事だから”で終わらせるの!」
「好きじゃないならハッキリ断ってよ……っ、ルカス……」
最後の方は、ほとんど泣き叫ぶように吐き出していた。
沈黙が重くのしかかる。
サロンの空気が、パキパキと凍りついたようだった。
「……すみません、お嬢様。泣かせてしまって」
ルカスが、搾り出すような声で言った。
その顔は、今まで見たこともないほど、深い、深い苦悶に満ちていた。
「……やはり、これ以上、お嬢様に隠すことはできません」
その諦めたような、それでいて決意を秘めた声色に、私はゆっくりと顔を上げた。
「好きなんです、お嬢様」
静かな告白だった。
けれど、それはあまりに決定的で、重い響きを持っていた。
「え……?」
耳を疑った。
心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。
「あの日バラの冠を贈った日は、お世話係補佐として、大切なご令嬢として接しているだけでした。しかし、お嬢様に贈ったブローチは──私の個人的な想いであり、お嬢様と同じ気持ちで間違いありません」
「……っ! じゃあ、なんで……っ」
ルカスは、深く、深く頭を下げる。
その項垂れた首筋が、彼が背負ってきた葛藤と、執事としての矜持という名の重圧を物語っていた。
「執事としては、主の娘に心奪われるなど許されません。それに……」
言葉を選ぶように、少し間を置く。
「……当主様が赦して下さるかどうかもわかりません」
胸が締め付けられる。
嬉しさと悲しさ、そしてようやく手に入れた安堵がないまぜになった感情が、大きな波のように押し寄せてくる。
「バカ……ほんと、大馬鹿者よ、ルカス……! それならそうと言ってよ……っ」
泣きながら、また彼の胸を叩いた。
今度は、怒りではなく、溢れ出す喜びの涙を止めることができなくて。
「だって、わたしっ、ほんとに嫌われてるかと……っ!」
「……ずっとおそばで見守ってきたルビー様を嫌いになるなんて、あり得ません。…すみません、私が不甲斐ないばかりに。言葉足らずでした」
「~~っ」
言葉にならない。私はただ、泣き続けた。
ルカスが、ついにその長い腕を回し、私を力強く抱きしめてくれた。
今は「執事と主」という高い境界線を越えることを、自分自身に許して。
私は彼の肩口に顔を埋め、子供のように思いっきり泣いた。
「ルカス、ルカス……わたしのこと、好きって……ほんと……? 夢じゃない?」
「ええ、本当です」
「嘘じゃ……ないの?」
「私の、本心です」
その確かな言葉を聞くたびに、また涙が溢れ出す。
「もう……! 言うのが遅いのよ!」
「……すみません」
「……まあ、ルカス……らしいけど……」
「……」
私は彼の腕の中で、少しずつ呼吸を整えた。
あんなに苦しかった絶望が、彼の腕の温もりの中で、嘘のように消えていく。
「……とりあえず、縁談は無しにするから」
「はい。承知いたしました」
いつもの返事。
けれど、そこにはもう、以前のような冷たい距離感はない。
「……ねえ、泣き疲れたわ。黙ってた罰として、この前みたいに今日もデートして?」
「……! もちろん、そのぐらいでしたら」
ルカスは少しだけ、困ったような、けれど柔らかな微笑みを浮かべた。
その表情は、私だけが知っている一人の「男」のものだった。
「じゃあ、たくさんスイーツ食べたいわ!」
「先程食べたと思うのですが……」
「これはルカスへの罰だから。立場上言えなかったってのはあるかもしれないけど……私を不安にさせた罰!いいでしょ?」
「わ、わかりましたから。心が痛むので……そんなに目をうるうるさせないでください……っ」
ルカスがタジタジになっている。
あの冷徹で完璧な執事の顔が、私のせいで崩れていくのを見るのは、こんなにも痛快で、幸せなことだったなんて。
「ふふっ、決まりね!」
私は彼の胸から顔を離すと、少しだけ背伸びをして、赤くなっている彼の耳元で悪戯っぽく囁いた。
「それと、もうお嬢様扱いじゃなくて、ちゃんと恋人扱いして?」
「きゅ、急にそう言われましても……!」
「なに? やっぱり私のこと女として見てないの?」
「い、いえ、そうしたいのは山々ですが…当主様がなんと仰られるか……っ」
「そんなの、二人で説得するのみよ!」
私は彼の手をぎゅっと握りしめた。
これからは、一人じゃない。
世界で一番過保護で、不器用で、愛しい私の執事が、隣にいてくれるのだから。
𝐅𝐢𝐧.
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