「久しぶり」
と、笹岡が言ったかどうかわからないが、自転車に手を掛ける怜の目の前には笹岡が佇み微笑んでいる。
遠くで話し声が聞こえ、それが先ほど玄関で出会した吹奏楽部の集団だということが何となく分かる。
怜は急な事で、意外にもひきつった顔をしてしまう。が、正反対に心臓が怪しいくらいに音を立てていた。
「…」
怜は自転車を軽く持ち上げ、それから足でブレーキをがこっと外す。
「どしたの」
それだけ、俯いて言う。
笹岡は構わずにじろじろと怜とその自転車の方を、体を傾けて覗き込んでいる。
…猫かこいつは。
「何してたの?サワグチ」
「何って…いや。午前中学校来るのに講習以外の何かってある?」
「あー。」
「なに」
「いや偶然。俺も、午前中部活あってさ」
「知ってるわ」
「ふん?」
笹岡は顔を上げて、風が吹く方向を気にしながら耳に髪の毛をかけている。「…いや、俺も講習受けてんだけどさ。
サワグチ、国語得意なの?」
「…得意ってわけじゃないけど、まあ英語数学よりは」
「ふーん。だからか。被ってなかったんだな。じゃあ」
「…」
「…どっか行くの?」
笹岡は怜の足元を見ながら言う。
「ん?これからバイトがあるんだよね。」
怜は初めて笹岡の方を向き直した。
「ふうん。
あのさ、実は俺、というか吹奏楽部の遠征が明日からあるんだ。」
「ふーん。確かに吹奏楽部夏休み中ずっと練習していたもんな」
「聞いてたの?」
「え、うん。」
しばし目を合わせている二人。
「…聞こえてくるよ。サッカーの練習場にも。」
「ああ。」笹岡は一瞬、声が聞こえてくる校舎の方に気を取られる。
「…それで、さあ。」
「うん?」
「お前もどこかへ行くんでしょ。」
「ああ、まあ。」
怜は旅行の事だろうかとぼんやり考える。
それとも、夏休みの予定を聞いてるんだろうか。
「…あのさ、こんな事言ったらあれだけど…
偶然、会ったりしたら楽しいよね。」
俺ら、と言って笹岡は怜の方を見る。
「お前に、振り回されてばっかりだよ俺は。」怜はそう言って、笑おうとする。
何となく、さっきまでモヤモヤしてたのも気のせいだったと思えてきていた。
クラスメイトの奴らの話を思い出す。が、目の前にいるのは不可解などではなく、ごく普通の高校生の笹岡に見えていた。
「お前、強引過ぎ」
怜がそう言うと、笹岡はちょっとだけ笑う。それからまた真剣な顔に戻る。
「うん。そうなんだ。
…俺、強引なんだ」
「ん?」
「…あ、俺、行くわ。」
笹岡は後ろを振り向いて先程の集団の方を見る。
「うん。じゃあな。」怜もそう言い、自転車の方を向き直す。それから一瞬、ポケットの中の携帯電話に気を取られた時、首の後ろに冷たい感触が走った。
「うわ!」
怜が驚いて振り向くと、笹岡がびっくりした顔で怜を見ている。
それから、ぷっと吹き出すと手に持っていたペットボトル飲料を怜の目の前に差し出す。
「…は?」
「これ、やる。」そう言うと、笹岡は怜の自転車の籠にペットボトルのお茶を音を立てて入れ、ニヤッと笑うと走り出して行った。
残された怜は、とりあえずスマホを取り出して画面をチェックする。
友人からのLINEが数件来ていた。
アルバイトはとりあえず失敗もなく終わり、社員の人に長期の休みを貰っている事の礼を言った後で怜は着替え、それからロッカールームを出る。
事務所の前を通り過ぎようとすると、社員の峯崎さんとアルバイトの女子高生の一人が廊下で何やら話している。
「あ。沢口くん。ちょうどよかった」
峯崎さんが明るい声を出して怜を呼び止める。
ふと見ると、女子高生は困惑した顔を少し赤くしてこちらを見ていた。
「クレーム処理の書類の書き方。一応、一緒に聞いておいて」
「え。今日、クレームなんて入ったんですか?」
「ううん。クレームというか、単なる因縁みたいなものなんだけどね。
一応形式的にでもいちいち報告しなきゃならないものだから。
たまにいるのよ。明らかに高校生だってわかるとすごんでくるようなのがね。
ね。タナカさん」
タナカさんは黙って頷く。
「一応社員に報告してくれれば、まあ何とかはなるから」
「はあ。」
怜は峯崎さんと田中の背中越しにその書類が埋められて行くのを見ている。
「ここは必ず埋めといてね。
よしと。これで、あとは社員さんに出して置いてくれればいいから。」
「分かりました。」田中とともに怜は答え、なんとなくお互いに顔を見合わせる。
田中は、隣の高校の生徒だ。3年の、たしかバスケをしていた生徒だったと思う。
田中がロッカールームに向かうのをなんとなく見送った後で、怜は峯崎さんに向かって挨拶をすると外へ繋がるドアを開ける。
ドアを開けると、すっかり暗くなった夜の涼しくなった風が怜の頬に当たる。
慣れないバイトは疲れるが、それも最初の数日だけで同じような学生に囲まれて働けているのもあり、周りの友人達から聞くようなバイトデビューの話と比べると気楽な仕事内容に思えた。
それに、部活の方が怜にとってはやはりキツい。
笹岡に会う前には寄るはずだったコンビニの前で自転車を止め、鍵を掛けると中へと入る。
いつもよりも混んでいるように思えた店内を歩き回り、怜はふと雑誌の前で足を止める。
怜が暫し店内で立ち読みをしていると、店内に騒がしい二、三人連れの客が入って来る。
「お?!」
その中の一人が声を出したかと思うと、怜と目が合う。
「バイト終わったの?」
笹岡は怜の元まで駆け寄って来る。
怜は不意を突かれて、「え、うん」とだけ応える。その間に笹岡は自分の共に来た生徒達の元へ戻ると何かを告げ、それからまたこちらへとやって来る。
「え、お前なんでここにいるの?」
怜はじろじろと笹岡を見ながら言う。
「ん。さっきまで、吹奏楽部の奴らと決意表明会やって来てたんだよ。それが終わって、…もしかしたらお前、バイト終わる頃かなって思ってたら本当に居たからさ。」
「決意表明?どこで?」
「すぐそこに、デニーズあるでしょ。
あそこ結構、学校の先生とかも来てたりするよ。」
「あー。」
笹岡はちらちらと先程の生徒から見られているのもそれ程気にしていない様子で怜の隣に立っている。
「俺でももう、帰るよ。」
怜は読み終わった雑誌をラックにしまうと、足元に挟んで置いていた荷物を持ち上げる。
「家に?」
「…それ以外何処があると思う?」
怜の真面目くさった返事を聞いて笹岡は微笑む。
怜は何故だか、笹岡の頭を叩いてやりたい衝動に駆られる。
「…吹奏楽部って、仲良いの?」
「まあまあかな。
でも俺、2年の前半休みがちだったから、今やっと練習で詰められるようになった感じ。
部長も厳しいし、舐められたらあかんのもあるしさ。全部、参加してんのこれ」
「ふーん。偉いんだな」
「あ、何も買わないのサワグチ」
出口付近で笹岡が怜の袖を掴んで言う。「ちょい待って。」
「はあ?」
…言われた通り、出口の外で待っている怜。不満げにペットボトルの茶を口に含んでそれを飲み下す。
暫くすると、自動ドアから出た途端にキョロキョロしその姿を見つけた途端に笹岡は微笑む。
「…じゃあな。」
「ちょー、待て!」
笹岡がまたも怜の腕を取り、今度は思い切り手首を掴まれたせいか、怜は若干イライラして言う。
「俺、だから…疲れてんだよ。何かあるの。何か、買ってくれたの。俺に」
「え。」
「…え?」
「いや、ないけど…。なんだよ…うちの部活の奴らなんて、まだ話し足りない的な感じだったぞ。
…まあいいか。俺らさ、俺ら千葉に遠征するんだよね。お前、明日から出掛けるんだろ?」
笹岡はそう言って、ポケットからスマホを取り出す。
「…その時でいいから。
なんかあったら連絡してよ。」
笹岡は手元で何やら操作していたかと思うと怜に向かって携帯画面のQRコードを見せつけてくる。
「ほら。」
「ほらって。
何でその事、知ってるの?俺クラスメイトにも…たしか部活の奴にしか言ってないんだけどなあ。」
「だからあ。サッカー部のサワグチレンって言ったら、皆だいたい知ってるぞ。
一年でレギュラーになった、どでかいやつって」
「まじかよ」
が、笹岡は、何か含みがありそうにニヤ付いている。
…嘘かもな。怜は思う。
そんな噂を、怜自身は聞いたことがない。
だが抵抗するのも面倒だったので、笹岡から言われた通りに、ポケットから自分のスマホを取り出して操作した後で笹岡の持つ携帯のLINEコードを読み込んだ。
読み取り完了のバイブが鳴る。
「これでいいの?」
「うん」
「今度こそじゃあな。」
「うん。」
笹岡は自分の携帯の画面を覗き、操作しながら応える。
怜はその笹岡に背を向けて止めてある自転車の方へと向かう。
それから、怜はふと思う。
千葉に?
その後…って、帰ってからの事だろうか?ユウみたいに、集まりに来いっていう、そういう提案?ふと、怜が後ろを振り返り、笹岡の方を見ようとすると、背中に衝撃が走る。
「うわ!」
思い切り押されたと思った怜の顔のすぐそばに、笹岡の顔がある。
「おまへ…ッ
毎回これ、やめろって!」
笹岡は、怜の言う事を気にも留めずに言う。
「サワグチ、ありがとう。」
「…は?」
「だから。俺…
夏休み中サワグチに、会えないかと思ってた。」
笹岡は怜の身体から手を離すと、向き直して言う。何、言ってるんだこいつ。
「いや、お前…一回無視したよな。」
あの時。…怜はそう言いかけて、あまりにちっちゃいことに、多分笹岡だって忘れてるんだろうと思ってた事をも思い出した。
「無視?
ああ。昨日の事?あれもう教室から先生と目、合っちゃってたから。無理だろ。そっからコース外れて友達と絡み出すのとか」
「ふーん。」
怜は笹岡の顔をじろじろと見下ろしている。
笹岡はというと、ニヤニヤ笑いを既にやめ、怜の顔を見ながら微笑んでいる。
「…まあ別に、いいんだけど。」
「うん。じゃあ…
サワグチ、疲れてるんだろ。俺ももう、行くわ。電車来るし」
そう言うと笹岡は怜に背を向けて、あっという間に夜の街の中に紛れ込んで行った。
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