テラーノベル
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そして、夜。照明を落としたムーディーなダイニングバーで、目の前のローストビーフと赤ワインを前に、私は心の中でほくそ笑んでいた。
(勝った。昼は牡蠣で精力をつけて、夜は肉でスタミナをつけ、最後はワインで理性を溶かす。完璧!)
「美味しかったですね、陽一さん」
店を出る。4月末の少し冷たい夜風が、火照った頬を撫でた。すぐそこには、ホテル街のネオンが輝いている。あとは、酔ったふりをして腕を組むだけ——。
そう思った、その時だった。 ドクン。 心臓ではなく、胃袋が大きく跳ねた。
「……っ!?」
春画展での「萌えによる動悸」だと思っていたものが、明確な「吐き気」へと変わった瞬間だった。
「し、白石さん? どうしたの?」
「あ、いえ、ちょっと飲みすぎたかも……ウプッ」
耐えきれなかった。私は近くのベンチにもたれるように座り、陽一さんに水を買ってきてと頼んだ。そして彼が背を向けたとたん、植え込みに駆け寄り、食べたものぜんぶをリバースした。
視界の隅に、行こうとしていたホテルの明かりが滲んで見える。
(嘘でしょ……私の勝負下着……陽一さんとの初夜……)
無念さを抱えたまま、私は再びベンチに座り直し、そして──意識を手放したのだった。
***
——現在、救急車内。
「う……うぅ……」
「白石さん! しっかり!」
「ご本人のご家族には連絡ついてますか?」
「えっ、いえ、まだ……」
「今すぐ連絡してください! 搬送先の許可取るのに家族の同意がいるんです!」
救急隊員の鋭い声に、僕は焦った。連絡しろと言われても、僕は彼女の家族の番号なんて知らない。
「し、白石さん! 家族の番号、わかる!?」
「……スマホ……」
「え?」
「……お兄ちゃんに電話して……」
僕は慌てて彼女のバックの中をまさぐり、彼女のスマホを取り出す。画面はロックされていたが、彼女の指の指紋認証で解除する。
連絡先を開き、検索窓に「兄」と打ち込むと、「お兄ちゃん」で登録されていた。
プルルルル、プルルルル……。
深夜二十二時過ぎ。こんな時間に、見知らぬ男から電話がかかってくる。どう考えても怪しまれるに違いない。
すぐに相手が出た。
『あぁ?』
耳に響いたのは、地底から響くような重低音だった。
「あ、あの、えっと、夜分遅くにすみません……!」
『……誰だお前』
「あの、怪しいものではなくて! 白石ひよりさんの会社の同僚の春川と申します!」
『同僚? 同僚がなんでひよりのスマホ持ってんだよ』
電話越しに、明確な殺気が飛んできた。
「そ、それは、その……」
『おい。てめえひよりに何をした——』
その時だった。
「貸してください!」
僕は救急隊員さんにスマホを渡す。
「あ、もしもし! こちら東京消防庁の救急隊です! 現在、妹さんを搬送中です!意識レベルの低下が見られ、急性胃腸炎の疑いがあります。搬送先は〇〇大学病院になります。直ちに向かってください!」
隊員さんはテキパキと用件だけを伝え、通話を終え、僕にスマホを返した。
「……来てくれるそうです」
「あ、ありがとうございます……」
僕はスマホの画面を見つめ、呆然とした。
白石さんに、あんな怖そうなお兄さんがいたなんて……。
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