テラーノベル
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同僚の言葉に視点が定まらない奈良に、田中はさらに追い討ちをかけるように携帯電話の黒い革カバーを開いた。
PDFデータを表示し、奈良に手渡す。
「……これ」
「まだ発行されていない」
「いつ?」
「来週、八月末には公布される」
奈良は両目を見開いた。
店内に流れる琴の音も、背後に座る高齢女性四人組のかしましいお喋りも、一切耳に入らなかった。
「このタイミングでなんでおまえが選ばれたのかは知らんけど」
「お、おう……」
「ま、そういう流れだから、身辺整理しておいた方が良いぞ」
「身辺整理、て……」
「その、ええと……」
「佐川さな」
「それそれ、宅配便まんまじゃん。そいつと別れとけよ」
「なんで」
「なんでって、おまえ、満島と続けるんだろ?」
そこには一枚の人事異動の辞令が表示されていた。
来週には金沢支店、富山支店、全社員に公布されるという。
辞令
三共保険株式会社 富山支店
奈良 建
三共保険株式会社 金沢支店 への異動を命ず
「じゃ、またな」
「おう」
「ちゃんとしとけよ」
「わ、わかったって……」
今更、どんな顔をして瑠璃に接すればいいのか。
それよりも、職場の皆の目を考えると動悸がした。
さすがの奈良も、そこまで厚顔無恥ではなかった。
駅コンコースの自動券売機の前で、タッチパネルの指が止まった。
自分がどこに戻るべきなのか、画面が左右に揺れる。
ようやく富山駅の文字を見つけてボタンを押した。
料金が表示されるが、財布を開けることができない。
「ん、ゴホッ!」行列の後方から咳払いが聞こえ、我に返った。
北陸新幹線のドアが閉まる音がした。
奈良は、佐川さなの待つ富山市へと戻った。
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