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笹本碧、二十六才。私は印刷会社の総務課で働いている。この春、隣の経理課から異動になった。ちなみに総務課も経理課も管理部門の中にあり、フロアも同じだ。
「笹本さん、今日、事務用品なんかの在庫チェックするんだよね。バインダーファイルも頼んどいてくれる?あとは経理にも声掛けよろしく」
「分かりました」
私は課長の田中に返事をして、キャビネットが並ぶフロアの端っこに向かった。管理部で使う事務用品の類は、この棚の中に一通り揃えてあるのだ。不足している物がないか確かめてから経理課へ向かう。田中に言われたように、経理課でも必要とするものがないか確認を取るために、年の離れた同期に声をかけた。
「お疲れ様です。太田さん、すみません。今、事務用品の在庫チェックをしてるんですが、経理課で何か必要なものがあれば教えてもらえますか?今日中でいいので」
太田は私より四才年上だ。私が新卒で入社した春に転職してきた。年齢は違うが同期ということで仲良くしていた。私が総務課に異動してからも、席は同じフロアにあるし仕事上でも何かと接点があったから、彼とは相変わらず仲のいい同僚同士だった。
「分かった。少し時間もらえる?」
「もちろん。では、よろしくお願いします」
「あっ、待って」
引き留める太田の声に、席に引き返そうとしていた私は足を止めた。
太田は席を離れて私の傍までやってくると、いつもより落とした声でやや早口で言った。
「今日の帰り、食事に付き合ってくれないか」
経理課にいた時には、太田からそういった誘いを受けたことがなかったから驚いた。しかし、同期同士で話したいことでもあるのかと思い、私は了承した。
「大丈夫ですよ」
太田はほっとしたように頰を緩めた。
「じゃあ、待ち合わせはロビーで」
「はい」
太田に軽く会釈して席に戻った私は、早速パソコンの画面と向き合う。
ご飯に行くなら、今やっている入力分をなんとか時間内に終わらせないと……。
事務用品の注文の取りまとめも入力作業も、なんとか無事に終えることができて残業を免れた。パソコンの電源を落としながら太田の席に目をやると、彼はまだ席にいて作業中のようだった。彼が仕事を終えるまでは、まだ時間がかかるように見える。
少し待つことになるかもしれないと思いながら、私は同僚たちと課長に帰りの挨拶をして廊下に出た。ロッカールームで身支度を整えて、荷物を手にロビーへ降りて行く。出入り口付近のソファに誰かが座っていると思ったら、その人物が立ち上がって私の方へと近づいてきた。
「太田さん?」
彼は私に向かって軽く手を挙げた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です。降りて来るの、遅くなるのかと思ってました」
「笹本を待たせたら悪いと思って頑張ったよ」
太田はにっと笑う。
「そうでしたか。お疲れ様でした」
笑い返す私に太田はまぶしそうな目を向けた。
「何が食べたい?」
「そうですねぇ。どちらかと言えば、今日は和食の気分かな」
「じゃあ、俺の知ってる店でもいいかな?」
「はい。もちろんです」
私が頷くのを見て、太田はゆっくりと歩き出した。
「ここからそんなに遠くないんだ。もしかしたら、笹本も知ってるかもな」
「この辺のお店ですか?どこだろう」
私は首を傾げつつ太田の後を着いて行った。
彼の言葉通り、店は会社から近い場所にあってものの数分で到着した。
太田が足を止めて振り返る。
「ここなんだけど、知ってた?」
「いえ、初めて知りました」
「居酒屋なんだけど、ここの食べ物がおいしいんだ」
「そうなんですね。太田さん、詳しいんですね」
「そういうわけでもないけど……」
太田は照れたように笑った。
「……じゃあ、ここでいい?」
「はい、構いません。その美味しいご飯、食べてみたいです」
平日だったから、私はノンアルコールビールを頼んで主に食事を楽しんだが、太田は焼酎の水割りを二杯ほど口にした。
店を出た私たちは近くのタクシー乗り場まで行き、ちょうど待機中だったタクシーに一緒に乗った。帰る方向が同じであることは、私が経理課だった時から互いに知っている。
タクシーが走り出して間もなく、突然太田が言った。
「……俺さ、笹本のこと好きなんだよな。俺と付き合わないか?」
「今、なんて?」
あまりにも唐突だったから、聞き間違えたのかと思った。
私のことを、好き――?
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。でもそれは仕方がない。なぜなら、太田からそんな素振りを見せられたことが今まで一度もなかったからだ。だから、それなのにどうしてと思ったのだったが、すぐにあることに思い至る。
酔っぱらって冗談を言っているだけなんだ――。
太田の発言の原因にひとり納得し、私は彼に向かって苦笑を紛れ込ませながら言った。
「そんな冗談を言うなんて、太田さん、酔ってますよね」
私の言葉を耳にした太田はため息をつき、小さく笑い声をもらす。
「酔うっていう程、酔ってるつもりはないんだけど。まぁ、酒を飲んだ後でこんなことを言っても、信じてもらえるわけがないよな」
「そうですよ。冗談にしか聞こえませんよ」
太田が笑ったから、私もくすりと笑う。この話はここで終わりだろうと思った。それなのに。
「……冗談じゃないって言ったら、どうする?」
太田はそんなことを言う。街明かりに照らし出されたその顔は真剣だった。
初めて見る太田の表情に困惑して、私は目を逸らした。
「どうする、って……」
私の様子を見て、太田は苦笑を漏らしながら前に向き直った。
「こういうことは、素面で言わないとだめだって分かってたのに、ちょっと焦ってしまったみたいだ。勢いをつけるために飲んだのが裏目に出たな。……ところでさ。俺、笹本の連絡先、聞いたことがなかったよな」
太田が話題を変えたことに少しほっとして、私は口ごもりつつ答える。
「そうですね。言ったことは、なかったですね」
新旧の上司である経理課長と総務課長、あとは親しい同僚の連絡先くらいしか知らない。会社で毎日のように会うのだからと、その他のメンバーと連絡先を交換する必要性をあまり感じていなかった。
太田はスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出した。その中から抜き出した一枚に、ペンで何かを走り書きする。
「これ、渡しておくから」
「……名刺?」
「そこに書いたの、俺の番号。もし俺と付き合ってもいいって少しでも思ってくれたなら、電話をかけてきてほしい。待ってる」
「でも……」
受け取るのをためらっていたら、太田は私の手を取ってその上にぽんっと名刺を乗せた。
「冗談で言ってるわけじゃないから。考えてみてほしい。……なんだ。もう笹本のアパートか」
名残惜しそうに太田が言う間にも、タクシーはウインカーを出して路肩に寄って行く。
「また明日な。今夜は付き合ってくれてありがとう」
太田の言葉にすぐに頷けなかったことを申し訳ないと思ったら、胸がちくりと痛んだ。
「おやすみなさい」
私はぺこりと頭を下げて、そそくさとタクシーを降りた。太田を見送るために振り向いて、私を見つめる彼の目に気づきどきりとした。
タクシーのドアが閉まる。
太田が窓越しに手を振る。私もまたそれに応えるように、おずおずと小さく手を振り返した。
タクシーが去った後、太田が残して行った名刺を手にしたままアパートに足を向けた。歩きながら今の出来事を振り返る。
彼の告白に対して答えを出すまで、猶予ができた形になった。だが、そんなに長く彼を待たせるわけにはいかないだろう。私はどうしたいのかと、自分自身に問いかけてみる。
太田のことは嫌いじゃない。同僚として頼りになるし、男性としてどうかと考えた時、魅力的な人でもある。帰り際、彼と視線が合った時どきりとした。告白されたせいもあるだろう。それでもそれは、ずっと忘れていた恋の始まりを告げるような感覚に似ていて、甘い期待と予感に心が弾みそうになった。
だけど、私の心には過去の恋の欠けらが残っている。
好きだったあの「彼」に二度と会うことはないだろうが、万が一再会したとしても、私と「彼」がヨリを戻せるとは思えない。少なくとも私は「彼」に謝らなければならない立場であり、「彼」の方は自分から逃げた私を責めたい気持ちでいるに違いないのだ。
早くその欠けらを捨てて前に進まなければと焦るのに、過去を引きずる気持ちが消えない。そんな状態で太田に応えるのは失礼なのではないかと思う。その一方で、太田と交際すれば過去の恋から解放されるかもしれないと、淡い期待を持つ自分もいる。
どう答えよう……。
私は名刺の裏に書かれた番号を眺めながら考え込んだ。