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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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あなたも殺されるわよ。
麗子様の声は、帰りの市電の鐘の音にも消されなかった。
銀座から鳥居坂までのあいだ、私は帯の上から、何度も雁皮紙の在りかを確かめていた。
まだ知りたいことがある、と私は言った。
千鶴さんも同じことを言って、その一月後に、夜の崖道へ出ていった。暗いところが大嫌いだった人が。
誰に呼ばれれば、千鶴さんは夜の崖まで行っただろう。
考えかけて、私はやめた。答えの候補に、最初に浮かぶ顔があったからだ。
*
その晩、洋館の厨房は、ひんやりとしていた。
侯爵様は、井戸で冷やした紅茶を硝子の器に注いで、私の前に置いた。檸檬の薄切りが一枚、浮いている。
「暑かったろう」
「……はい。日本橋は、人が多くて」
一口飲むと、檸檬の香りが喉をすっと通っていった。
侯爵様が、私の隣で手を止めた。
ほんのわずかに、顔をこちらへ傾ける。
「甘い匂いがする」
硝子の器を持つ指が、凍りついた。
麗子様の、舶来の香水。身を乗り出されたときに、袂に移ったのだ。
「……帯揚げの店で、試しに嗅がせていただいたんです。百合絵様が、面白がって」
侯爵様は、何も言わなかった。
鍋の湯が煮え立つ音だけがして、それから、低い声が一つ落ちた。
「そうか」
侯爵様はそれきり、卵を割る手元から目を上げなかった。
*
七月に入ってすぐ、洋館の応接間に、反物と箱が山のように運びこまれた。
片側には、出入りの呉服屋の番頭が、桐の箱から訪問着を次々に広げている。
もう片側には、銀座の洋装店の女主人が、首のない人形に夜会服を着せて並べていた。薄紅の絹、銀鼠の縮緬、背中の大きく開いた黒。
呼んだのは、侯爵様だった。
「久遠寺の嫁は、着物です」
応接間の入口で、大奥様が言った。
今日は、私の顔をまっすぐ見ていた。
「藤堂の夜会に、洋装で出るなど。あの家の娘の真似をしていると笑われます」
「決めるのは、妻です」
侯爵様が、短く返した。
大奥様の扇が、ぱちりと閉じる。番頭と女主人が、気まずそうに目を見交わした。
私は、二つの山の間に立っていた。
夜会服は、どれも綺麗だった。けれど、背中の開いた黒い服を着て、あの断髪の人の前に立つ自分は、どうしても思い描けない。
呉服屋の番頭が広げた反物の中に、一枚、目に留まるものがあった。
淡い藤色の地に、裾へ向かって白い萩がこぼれる訪問着。
藤と萩。和館の二階の、閉め切られた二つの部屋の名前。
そして、足元の草履の鼻緒と、同じ色だった。
「これに、いたします」
番頭が、ほっとした顔で反物を掲げた。
大奥様は、しばらくその藤色を眺めていた。
「……悪くない色です」
それだけ言うと、大奥様は踵を返して、渡り廊下のほうへ戻っていった。
洋装店の女主人は、残念そうに人形の肩を撫でていた。
入れ違いに、海老茶の袴の百合絵様が、応接間に飛びこんできた。女学校から走って帰ってきたらしく、リボンが斜めにずれている。
「間に合わなかったわ。ねえ、何にしたの」
藤色の反物を見せると、百合絵様は、まあ、と目を丸くした。
「お義姉さまらしいわ。……それにしても、お兄様が呉服屋と洋装屋を両方呼ぶなんて」
百合絵様は声をひそめて、私の耳に口を寄せた。
「小夜子お姉様のときも、千鶴お姉様のときも、お兄様、着物の柄なんて見もしなかったのよ。お母様が全部決めてたの」
私は、思わず侯爵様のほうを見た。
侯爵様は窓辺に立って、庭の紫陽花を眺めていた。聞こえていないはずはないのに、こちらを振り向かなかった。
*
番頭たちが帰ったあと、応接間には侯爵様と私だけが残った。
侯爵様は、上着の隠しから、掌に収まるほどの桐の小箱を出した。
「着物に合うかは、知らない」
差し出された箱の蓋を、そっと開ける。
紫の縮緬の上に、銀色の小さなものが一つ、横たわっていた。
帯留めだった。
細長い角柱の形をしている。高さも幅も、指の第一関節ほど。側面には、浅い溝が一本、まっすぐに刻まれていた。
活字だ。
溝は、植字のときに向きを揃えるための、ネッキの刻み。父の店で、毎日何千本と指先で確かめた形だった。
銀の活字の顔には、字が一つ、彫ってあった。
鏡に映したように、左右が逆の字。
私には、一目で読めた。
栞。
「君の字だ」
侯爵様は、窓の外を見たまま言った。
「職人に、活字の形にしろと言ったら、字を裏返しに彫ってきた。直させようとしたら、これで正しいと言い張られた」
「……正しいです」
声が、少し震えた。
「活字は、裏返しで彫るんです。紙に押したときに、ちゃんと読めるように。これで、合っているんです」
侯爵様は、ようやく私のほうを向いた。
「そうか。……なら、いい」
この人は、一度も私の名前を呼んだことがない。
それなのに、名前を銀に彫って、私の手の上に置いた。
私は、帯留めを握りしめた。銀の角が、掌に少し食いこんだ。
痛くはなかった。
「着けてみろ」
言われて、普段着の帯の上に帯締めを通し、帯留めを前に回す。指がもたついて、なかなか真ん中に来ない。
侯爵様が、黙って手を伸ばした。
帯の上で、銀の活字が、すっとまっすぐに据えられる。手袋を外した指が、ほんの一瞬だけ帯に触れて、離れた。
「曲がっていた」
それだけ言って、侯爵様はまた窓のほうを向いた。
*
その夜、侯爵様は応接間の隅の蓄音機の蓋を開けた。
「夜会では、踊ることになる。洋舞を習ったことは」
「ありません。女学校で、少しだけ真似事を見たことがあるくらいで」
侯爵様は黙って盤を載せ、針を落とした。
雑音のあとに、三拍子の弦の音がゆったりと流れ出す。
「右手を、ここに」
手袋を外した手が、私の右手を取った。左手は、侯爵様の肩へ導かれる。
背中に、侯爵様のもう片方の手が添えられた。市電で支えられたときと、同じ大きさの手だった。
「一、二、三。私が下がったら、君は出る」
一歩目で、私は侯爵様の爪先を踏んだ。
「申し訳ございません」
「構わない」
二歩目も、踏んだ。
「構わない」
三度目には、侯爵様の口元が、ほんのかすかに動いた気がした。笑ったのかどうかは、わからなかった。
「旦那様は、どちらで覚えられたのですか」
「英国だ。下宿の主人の娘に、無理やり付き合わされた」
「……お上手だったのでしょうね、そのお嬢様は」
口にしてから、自分の声の尖り方に驚いた。
侯爵様は、少しだけ私を見下ろした。
「八つだった」
私は、四度目の足を踏んだ。今度は、わざとではなかったと思う。
電灯を落とした応接間に、窓から月の光が射しこんでいた。
回るたびに、藤色ではない普段着の袖が、ふわりと膨らむ。
何度も踏み、何度も止まり、また始める。いつの間にか、足を踏む数が減っていた。
侯爵様の胸の高さで、白いシャツの釦が一つ、月の光を拾ってはまた沈んだ。
盤が、終わった。
針が溝の終わりをこする、しゃっ、しゃっという音だけが残る。
私は、手を下ろそうとした。
侯爵様の手は、離れなかった。
「旦那様?」
見上げると、灰色がかった黒い目が、私をまっすぐに見下ろしていた。
いつもの、何も映さない目ではなかった。
「夜会で何があっても、私の手を離すな」
低い声が、すぐ近くで言った。
何が、と訊く前に、侯爵様は私の手を離し、蓄音機の針を上げに行った。
その背中を見ながら、私は思った。
この人は、何かを知っている。
コメント
1件
わあ、この第25話、すごく良かったです。侯爵様が着物と洋装を両方用意するところ、過去の妻たちには柄すら見なかったっていう百合絵様の言葉が効いてますね。そして帯留めの「栞」──名前を直接呼ばないのに、銀に刻んで手渡す無骨な優しさに胸が締めつけられました。ダンスの練習で足を何度も踏んでも「構わない」と繰り返すところ、最後の「私の手を離すな」という低い声。何かを知っている侯爵様の背中がすごく気になります。千鶴さんの真相も含めて、続きが待ち遠しいです。