テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#子育て
都築七美
185
Tubling
1,180
378
「段取りが命だ。まずミルク、次に離乳食」
慎は腕まくりをすると、粉ミルクの缶を手に取った。
しかし作り方を読んだところで、早くも手が止まる。
「七十度以上のお湯を入れて、冷ます……? 最初から人肌で作れりゃ早いのに」
ぶつぶつ言いながらミルクを作っている間にも、遥斗の泣き声はどんどん大きくなる。
「はいはい、今できるから!」
ようやく哺乳瓶を渡し、次は離乳食だと炊飯器を開ける。
「……米、ないじゃん」
その直後、背後でゴトンと音がした。
振り返れば、哺乳瓶が床に転がり、遥斗は椅子の上で立ち上がろうとしている。
「危ない!」
慌てて抱き上げる。床にはミルクが広がっていた。
(全然、段取り通りにいかない……)
しかも、今度は何やら臭う。
「おーい美咲、遥斗がうん――」
そこまで言って、慎は固まった。
「……あ」
美咲はいない。
(そうか。今は、俺か)
*
オムツを開ければ、遥斗は足をばたつかせる。
どうにか拭こうと格闘していると、次の瞬間――。
「……え?」
顔に生温かいものがかかった。
「なんで前触れなしなんだよ!」
遥斗は楽しそうに笑っている。
顔を洗い、汚れたシャツを洗濯機へ放り込めば、今度は遥斗が洗濯カゴをひっくり返す。それを止めようとして洗剤を倒し、床を拭いている間に、洗濯済みの服まで引っ張り出される。
「……まじか」
泣き声。洗濯機の音。散らかった床。
慎は呆然とスマートフォンを見た。
《朝食を用意する》
ToDoリストの一項目目にすら、まだチェックがついていない。
(俺……まだ午前すら突破してないのか)
*
昼前には、遥斗を連れて公園へ出た。
家にいるより外で遊ばせた方が楽だろう。そう思っていたが、甘かった。
「いや、そこは危ない!」
遊具へ向かえば追いかけ、転びそうになれば支える。
ようやく砂場で遊び始めた遥斗を見て、慎はベンチへ腰を下ろした。
「……やっと休める」
何気なくスマートフォンを開く。
同僚がSNSに《今日も営業でクタクタ。家でダラダラしたい~》と投稿していた。
(いいよな。誰も泣かないし、机の上も散らからない)
そんなことを考えながら、ふと顔を上げる。
「……遥斗?」
砂場には、小さなスコップだけが残されていた。
「遥斗!」
慎は勢いよく立ち上がった。
滑り台の裏にも、ブランコのそばにもいない。
そして、公園の出口へ向かう小さな背中を見つけた。
その先には道路がある。
「――危ない!」
慎は全力で走り、遥斗を抱き上げた。
その場へ膝をつく。心臓が痛いほど脈打っていた。
(心臓が……止まるかと思った)
何も知らない遥斗は、きょとんと慎を見つめている。
慎はその小さな身体を強く抱きしめた。
「……帰ろう」
*
だが、帰宅しても休めるわけではなかった。
「抱いてもダメ、下ろしてもダメ……どうしろって言うんだよ」
泣き続ける遥斗を抱えたまま、昼食を用意する。
どうにか作ったうどんを差し出した瞬間、遥斗が手で押しのけた。
「やー!」
「あっ――」
うどんが汁ごと床へ散らばった。
「あーもう……っ!」
怒鳴りそうになり、寸前で飲み込む。
けれど慎の苛立ちを感じ取ったのか、遥斗はさらに大きな声で泣き始めた。
その直後、下の階からドンドンと音が響く。
(クレーム……?)
慎は頭を抱えた。
やがて泣き疲れた遥斗が眠り、ようやく訪れた静寂の中で椅子へ座る。
その瞬間、全身から力が抜けた。
(これが“楽”って)
(どの口が言ってたんだ、俺は)
*
それでも、一日は終わらなかった。
午前二時。
遥斗の泣き声で、慎は再び叩き起こされた。
「……嘘だろ。夜泣き……?」
眠い目をこすりながら抱き上げ、背中を叩く。
立ったまま部屋を歩いても、なかなか泣き止まない。
(仕事より、ずっと過酷だ)
仕事なら、終業時間がある。
成果を出せば評価されるし、給料も出る。
けれど育児には、終わりがない。
ようやく遥斗が眠り、慎がソファへ腰を下ろした、そのときだった。
「……ん?」
遥斗の呼吸が、いつもより荒い。
額へ触れた瞬間、慎の眠気が吹き飛んだ。
「熱い……」
慌てて体温を測る。
――三十九度。
「は!?」
慎の顔から血の気が引いた。
*
深夜、遥斗を抱えて家を飛び出した。
けれど、こんな時間ではタクシーもなかなかつかまらない。
「遥斗、大丈夫だからな」
自分に言い聞かせるように繰り返しながら、慎は夜道を歩いた。
腕の中で、遥斗がぐったりと身体を預けている。
(ただの風邪かもしれない)
それでも怖かった。
(俺が守らなきゃいけないんだ)
この小さな命に何かあれば、自分の判断ひとつで取り返しのつかないことになるかもしれない。
その責任が、ずしりと肩にのしかかる。
*
「熱はありますが、ただの風邪ですね。ご家庭で休ませてあげてください」
救急外来でそう告げられた瞬間、慎は大きく息を吐いた。
「……よかった」
たったそれだけの言葉が、こんなにもありがたいとは思わなかった。
帰宅後、眠った遥斗の隣に座る。
小さな手を握りながら、慎はその寝顔をじっと見つめた。
(そういえば俺……)
(こんなふうに遥斗の寝顔を見たこと、あったっけ)
スマートフォンを開く。
朝食。
オムツ。
洗濯。
公園。
昼食。
夜泣き。
発熱――。
一日分のToDoが、ずらりと並んでいた。
「今更だけど……やっと分かった」
眠る遥斗の手を、慎はそっと握り直す。
「家事も育児も、立派な仕事なんだな……」
――昨日までの慎なら、決して口にしなかった言葉だった。
コメント
1件
ななみ先生、第5話読み終えたよ〜〜っ!!!🌸✨ 慎くんのワンオペ初日、もう見てるだけでこっちが疲れた……!「米、ないじゃん」からの哺乳瓶コロン、うんち♡♡♡噴射、そしてまさかの公園ロスト…全部リアルすぎて笑うとこなのか泣くとこなのか分からんかった😭💦 でもね、最後の「家事も育児も立派な仕事なんだな」はマジでグッときた!!慎くんがやっと美咲さんの気持ちに気づき始めた感じがエモすぎるよ〜🥺💕 夜中の発熱で走るシーン、心臓ぎゅってなった。小さな命守るってこういうことなんだなって、改めて考えさせられたよ。続き気になりすぎる!!✨