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◆◆◆◆
やはり市川家の照明は消え、家族は寝静まっていた。
輝馬は静かにバスルームに向かい、蛇口を捻った。
頭から熱いシャワーを浴びると、体にまとわりついていた漠然とした不安が、母親が愛用している甘ったるい香りのシャンプーやボディソープの泡と共に、排水溝に吸い込まれていく気がした。
よく考えれば、上杉との交際を7年間も隠し通した栗原のことだ。
今更、後輩との火遊びを、EDの彼氏に漏らすようなヘマはしない。
上杉だってあんな鼾をかいて寝ていたんだ。
案ずることはない。
誰にもバレない。
何の波風も立たない。
輝馬は大きく息を吐くと、ランドリーチェストから新しいタオルを取り出し、髪の毛を拭いた。
ふらりと立ち寄ったバーで隣に座った女。
偶然街中であった大学時代の後輩。
研修先の女性講師。
カットモデルを依頼してきた若い美容師。
今までだっていくらでも、その場限りの関係はあった。
今回だってそうだ。
欲求不満の他部署の先輩と、互いの欲を発散しあっただけのこと。
今はさっさと寝支度をして、明日の企画会議に備えねばーー。
「……輝馬」
「!!」
驚いて振り返るとそこには、輝馬の下着とパジャマを胸に抱えた晴子が立っていた。
「寝ててよかったのに」
仕方なくリビングのソファに座ると、晴子はキッチンに回ってヤカンに火をかけた。
「寝てたけど起きちゃったのよ」
晴子は微笑みながらキッチンを離れ、ソファの後ろに回った。
「日曜日なのに仕事?」
そう言いながら肩にかかっていたタオルを取る。
「ああ、今日はちょっと夜まで企画書作って、上司と飲んでた」
嘘ではない。
輝馬は欠伸をしつつ、母を見上げた。
「頑張るのはいいけど、体だけは壊さないようにね」
そう言いながら晴子はタオルで輝馬の頭を拭き始めた。
本音を言えばこういう子ども扱いや、20代も半ばを過ぎた息子にするには過剰なスキンシップは止めてほしいのだが、今日は紫音や凌空という逃げ場もない。
黙ってされるがままにしていると、
「それで?彼女はできたの?」
「晴子は輝馬の髪の毛を拭きながら、ボソッと言った。
「――――」
輝馬は晴子を振り返ることなく視線だけを上げた。
会うたびにこういう質問をしてくるのは、市川家を継ぐ長男の、表立って見えない恋愛事情を心配してのことだと勝手に解釈していた。
いつもの声。
いつもの質問。
そのはずだった。
それなのになぜか、後ろに立つ母を振り返れない。
「ーーあいにく仕事が忙しくて」
今まで何十回と繰り返してきた回答をしたはずだった。
それなのに、母はこれまた何十回も返してきた、「仕事もいいけどプライベートも大切にね」という言葉をかけてくれない。
「…………」
輝馬はおそるおそる晴子を振り返った。
「!!」
その言葉に鳥肌が立った。
シャワーを浴びた。
髪だって、身体だって、晴子のシャンプーやボディソープで洗ってきたのに。
ピイイイイイイイイ。
キッチンでヤカンが鳴り出した。
晴子はタオルをダイニングチェアにかけると、
「お茶漬けしかないけど、食べるでしょ?」
そう言いながら再びキッチンに戻っていった。
カチャカチャとお茶漬けを作っている母を盗み見る。
今のはなんだ?
母の勘?
――それとも、女の勘?
ソファの背もたれに体を預けながら、輝馬は幼少時代から抱えてきた、ある一つの予感を振り払おうとしていた。
――母はもしかしたら、自分に男を求めているのではないかと。
女の、匂いがする。
その言葉をそっくりそのまま母に返してやりたかった。
◆◆◆◆
――次の日。
朝食に現れた輝馬に、妹の紫音は大喜びで絡みついた。
「ねえ、今度帰ってくるときはちゃんと事前に教えてよ?私だってお酒飲めるようになったんだから!いくらでも付き合えるんだからね?」
紫音が小さな目をめいっぱい開いて見つめてくる。
「ホントだよ!私、結構強いんだから!何なら今度の休みにでも……」
「しーおーん」
尚も誘おうとする紫音を、晴子が睨んだ。
「あなたはお兄ちゃんにべたべたするんじゃなくて、ちゃんとした彼氏でも探しなさい!いい大人なんだから。男の一人や二人知っておかないと、将来ろくな男を選べないわよ!」
「……………」
輝馬は驚いて母親を見つめた。
これが20歳になったばかりの娘にいう言葉だろうか。
普通の親ならーー。
変な男に引っかからないように、危ない目に合わないように、諭すものじゃないのか。
それなのに男の一人や二人を知っておけだなんて……。
(やっぱりこの母親、クソ女だな)
輝馬は目を細めながら凌空を見つめた。
凌空もその視線に気づき、わざとらしく目を見開く。
その反応に、自分が異常じゃないんだと感じ、安堵する。
思えばこいつだけだった。
輝馬がこの家の中で唯一心を開ける人間は。
◇◇◇◇
「そういえば、隣って誰か引っ越してきたの?」
輝馬は誰とはなくそう聞いた。
昨夜、外からマンションのこの部屋を見上げた時に、隣の部屋のベランダに、花が植えられたプランターを発見したのだ。
「そうなの!30前後のイケメン!しかも一人!」
「一人?こんなファミリー向けの間取りで?」
ここの間取りは4LDK。男の一人暮らしにしては大き過ぎるし部屋もたくさんある。
シェアハウスでもするのだろうか。それともなにかビジネスで使うのだろうか。
どちらにしても不特定多数の人間が出入りする状況はあまり気分がよくない。
紫音と凌空に気を付けるように言ってから
西側に並ぶ3つの部屋のドアを見つめた。
ーーこの向こう側に、お隣はある。
「…………」
輝馬は軽く腕を組んだ。
(近いうちに一度会っておかないとな)
確認は早い方がいい。
まず、その男がこのマンションを何か良からぬことに使っているのではないか。
そして、その男が市川家にとって害のある人間ではないか。
この二点を早急に確認することが必須だ。
しかしどうやって会えばいい?
輝馬は晴子が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、真っ白な天井を仰ぎ見た。
◇◇◇
しかし心配せずとも、そのチャンスは数十分後に訪れた。
「あれ」
玄関ドアを出た輝馬は、エレベーターを降りてこちらに向かってきた男を振り返った。
「市川さんのところの……」
男は柔和に微笑むと、持っていたキーケースをシュルッと回して掌に納めた。
「ああ、お隣に引っ越してらした……」
(ベンツ……)
一瞬光ったスリーポインテッドスターの輝きに、輝馬は目を細めた。
(いるんだよな。自分投資に金を惜しまない独身貴族が)
心の中で鼻で笑う輝馬に、男は丁寧に頭を下げた。
「隣に引っ越してきました、城咲といいます。よろしくお願いいたします」
輝馬は白い歯を見せながら微笑み返した。
「長男の輝馬です。実は住居は別にありまして、ここへは月に数度遊びに来るくらいなのですが、よろしくお願いします」
そう言うと彼は、
「なるほど。そうなんですね」と小さく頷いた。
輝馬は真正面から彼を見つめた。
黒髪に白い肌。
チェックの白シャツにネイビーデニムのジーパン。
派手でもない代わりに癖がないさわやかな顔は、紫音が言うようにイケメンの部類に十分入る気がする。
だからこそ解せない。
なぜこの男が一人で?
「今日はお仕事はお休みですか?」
探りを入れてみる。不自然な会話ではないはずだ。
多くの人間が出社する月曜日。
スーツも着ないでウロウロしている男には、聞いて然りな質問だ。
「あ、いえ。仕事ですよ。ですが今日は可燃ごみの収集日だったことを思い出して」
「ああ、なるほど」
今度は輝馬がそう言う番だった。
「僕も男の独り身なので大変ですよ」
城咲は鍵穴にシルバーのキーをねじ込みながら続けた。
「でも輝馬さんに出会えたから、結果的にはよかったかな」
その言い方に違和感を覚えた。
(……え。もしかしてこいつ、そっち系?)
思わず輝馬が眉を寄せると、城咲は満足そうに微笑み、ドアを開けた。
「これからよろしくお願いしますね」
「ええ、こちらこそ」
輝馬も微笑で返すと、そのままスタスタと歩き出した。
もっと掘り下げたかったが、なんだか得体の知れないあの男と、狭い箱の中で二人きりになるのはごめんだ。
エレベーターを通り過ぎると、非常階段のドアを開けた。
(……ん?)
輝馬は階段を下りながら首をひねった。
(俺、独身なんて言ったっけ?)
ふと疑問に思ったが、12階から1階まで階段を下りるうちに、城咲の名前さえも忘れ、頭は今日の企画会議で埋まっていた。