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駅前の広場には、いつも鳩がいた。
朝は会社員の靴先をぬって歩き、昼は観光客の落としたパン屑を奪い、夕方には子どもに追いかけられ、夜は誰にも見向きもされず、濡れた銅像の肩に並んで眠る。鳩はそこにいるだけで風景の一部になれる生き物だった。邪魔だと嫌われても、可愛いと餌をもらっても、どちらでも同じ顔をしていた。首を小さく揺らして、世界を許しているみたいに見えた。
僕は、その鳩があまり好きじゃなかった。
好きじゃない、というより、見ていると気分が悪くなった。
理由は、たぶん母親のせいだ。
母は、死ぬ少し前まで、鳩の話ばかりしていた。
「鳩ってね、帰る場所を覚えてるんだって」
抗がん剤の副作用で髪が抜け、タオルを頭に巻いた母は、病院の窓の外を見ながらそう言った。窓の下には何もいなかった。四階から見えるのは駐車場と自販機くらいで、鳩なんて一羽もいないのに。
「だから、あんたも大丈夫。道に迷っても、ちゃんと帰ってこれる」
僕は中学二年だった。帰る場所が家なのか、母のいる病室なのか、自分の体なのか、よくわからなかった。
「俺、鳩じゃないし」
そう返したら、母は笑った。弱った喉で、空っぽの鈴みたいな笑い方をした。
「あんた、可愛げないねえ」
その三週間後、母は死んだ。
父は葬式の帰り、コンビニで煙草を二箱買って、車の中で一本も吸わなかった。運転席でじっと前を向いていた。目は赤かったが、泣いたのか寝不足なのか判断がつかない顔だった。信号待ちの間、歩道に鳩が三羽いた。父はそのうちの一羽を見て、唐突に言った。
「おまえ、お母さんに似てきたな」
似てきた、というのが顔のことなのか、性格のことなのか、死にそうな雰囲気のことなのか、聞けなかった。
それから父はあまり喋らなくなり、僕は高校に上がる頃には、家の中で音を立てない技術だけを磨いていた。冷蔵庫の開け閉め、風呂場のドア、階段の三段目のきしみ。父の機嫌は天気みたいなものではなく、地雷原みたいなものだった。どこに埋まっているかわからない。避けるしかない。
僕は静かな子になった。
静かな子、というのは大人が褒めるときの言い方で、本当はただ、面倒を起こさない子どもだった。教室の隅にいれば見落としてもらえる。そう信じていた。
でも、見落としてくれない人間もいる。
高校二年の春、同じクラスに、神崎みのりという女子がいた。前髪を自分で切って失敗したみたいな短さにしていて、爪を噛む癖があった。笑うとき、口元ではなく喉で笑う変な子だった。
彼女は、なぜか僕によく話しかけてきた。
「ねえ、須藤くんって、なんでいつもそんなに今にも消えそうな顔してるの?」
最初に言われたのがそれだった。
「してないけど」
「してるよ。自分の輪郭に自信ない人の顔」
意味がわからなかった。
意味がわからないことを言う人間は苦手だった。でも彼女は、意味がわからないくせに不快ではない、珍しい種類の人間だった。たぶん、彼女自身も自分の輪郭に自信がなかったからだ。
放課後、彼女はよく屋上にいた。立入禁止の鎖をまたいで、フェンスに背中を預けて座っていた。僕は最初、先生に告げ口しようかと思った。でも結局しなかった。誰かを罰することに正しさを感じたことがなかった。
「来ると思った」
ある日、屋上に行くと神崎が言った。
「なんで」
「来ない人は最初から一回も来ないから」
彼女の足元には食パンがちぎって置かれていた。鳩はいなかった。
「餌やり?」
「そのうち来るかなと思って」
「来ないよ、ここ」
「じゃあ誰か来るかなと思って」
そう言って、彼女は僕を見た。
そのとき初めて、僕はこの子に呼ばれていたんだと知った。
僕たちは付き合ったわけではない。告白もなかった。手をつないだこともない。ただ、屋上で話した。神崎は自分の家のことをほとんど言わなかったが、たまに「お母さんがヒステリックでさ」とか「弟が私の財布から平気で金抜く」とか、断片だけ落とした。僕も母のことは話さなかった。死んだ人の話をすると、その瞬間だけ周囲の空気が特別扱いになるのが嫌だった。
神崎はときどき妙なことを言った。
「人って、幸せになるために生まれてくるんじゃなくて、理由づけのために生まれてくるんじゃない?」
「何の理由」
「死なない理由」
僕は返事ができなかった。
彼女は笑って、爪を噛んだ。
「ほら、そういう顔する。須藤くんって、真面目に人の絶望を受け取っちゃうよね。やさしいっていうか、損だよ」
やさしい、と言われたことはほとんどなかった。面倒を起こさないだけの人間を、やさしいと呼ぶのは間違っていると思った。でも訂正もしなかった。訂正するには、僕はあまりにも自分の中身を知らなかった。
夏休みの終わり、神崎は学校に来なくなった。
最初は風邪だと思った。次は家庭の事情かと思った。その次は、もう何も考えないようにした。考えると不安が形になるから。担任は「しばらく休養らしい」と曖昧に言った。教室はすぐに彼女のいないことに慣れた。人が一人いなくなることに慣れるスピードに、僕は毎回うんざりした。クラスメイトの一人が、「そういえば神崎ってちょっと変だったよな」と笑った。僕はそのとき初めて、その男子のことを本気で殴りたいと思った。でも殴らなかった。僕は静かな子のままだった。
九月のある日、駅前で神崎を見かけた。
鳩のいる広場だった。
彼女はベンチに座り、膝の上にスーパーの袋を置いていた。中には食パンが二斤も入っていた。痩せていた。もともと細かったのに、影みたいに薄くなっていた。
「久しぶり」
僕が声をかけると、彼女は少し驚いて、それから妙に嬉しそうな顔をした。
「わ、ほんとにいた」
「どういう意味」
「幻じゃなかったんだ、って意味」
彼女は袋から食パンを取り出し、小さくちぎって地面に落とした。すぐに鳩が寄ってきた。灰色、白、首元だけ緑と紫に鈍く光るやつ。汚いのに、そこだけ変に綺麗だった。
「学校は?」
「やめようかなって思ってる」
まるで、今日の夕飯どうしようかな、くらいの軽さで彼女は言った。
「もったいない」
「何が?」
「……いろいろ」
「いろいろ、ねえ」
彼女は笑って、鳩を見下ろした。
「私さ、最近わかったんだよね。人って別に、ちゃんとしなくても死ぬし、ちゃんとしてても死ぬんだよ」
「急に何」
「須藤くんは、ちゃんとしてる側じゃん」
「してないよ」
「してるよ。少なくとも、しようとはしてる」
鳩が彼女のスニーカーの先をつついた。彼女は逃げなかった。むしろ少しつま先を差し出した。
「私、ちゃんとしようとしたことない。したら負けな気がしてた。先に世界を見下しておけば、傷つかないと思ってた」
「傷ついてるじゃん」
その言葉は、思っていたより鋭く出た。
神崎は僕を見た。責めるでもなく、驚くでもなく、ただ、ああ、という顔をした。
「うん。傷ついてる」
彼女は素直に言った。
素直すぎて、僕のほうが困った。
「家、帰りたくないんだよね」
「どこ行くの」
「わかんない。鳩になれたらよかったのに」
「鳩は嫌だ」
「なんで?」
「帰る場所を覚えてるから」
神崎はきょとんとして、それから静かに笑った。
「なにそれ。いいじゃん」
「よくない。帰る場所があるって、帰らなきゃいけないってことだから」
僕は、その言葉を口にしてから、自分でも驚いた。ずっと喉の奥に刺さっていた小骨みたいなものが、不意に出てきた気がした。
神崎はしばらく黙っていた。広場の噴水は止まっていて、底に溜まった雨水が鈍く空を映していた。鳩たちは僕らの足元で忙しなく首を振っていた。世界は全部どうでもよさそうで、それなのに妙に鮮明だった。
「須藤くんってさ」
「うん」
「私が死んだら、ちょっとは引きずってくれる?」
心臓が、手でつかまれたみたいに止まった。
「何言ってんの」
「質問」
「そういうの、冗談でもやめろよ」
「冗談じゃないよ」
彼女は笑っていなかった。
僕はそのとき、彼女を止めるべきだったのだと思う。手首をつかんででも、誰か大人に連れて行くべきだったのだと思う。でも僕は、自分が特別な誰かになれる気がしなかった。母を救えなかった。父も救えなかった。自分も、たぶん救えていない。そんな僕が神崎を救うなんて、あまりにも滑稽だった。
人は、自分の無力を言い訳にして、誰かを見殺しにする。
その事実に気づくのは、いつも少し遅い。
三日後、神崎は川で見つかった。
ニュースになるほどではない、小さな記事だった。地元紙の片隅に「女子高校生の遺体」とだけ載った。学校では朝礼で黙祷があった。泣いている子も少しいた。たぶん、本当に悲しかったのだと思う。でも昼休みにはみんな普通に購買のパンを買い、部活の話をしていた。人間は薄情なのではなく、日常に従順なのだと、そのとき知った。
僕は神崎の葬式に行かなかった。
呼ばれていなかったし、行く資格もない気がした。僕はただ、駅前の広場に行った。神崎が鳩に食パンをやっていたベンチに座った。鳩は相変わらずいた。あたりまえみたいに、何事もなかったみたいに。
一羽が僕の足元まで来た。
僕はそいつを蹴り飛ばしたくなった。
でもしなかった。
代わりにコンビニで食パンを一斤買って、全部ちぎって撒いた。鳩は夢中で群がった。翼の音が気持ち悪かった。嘴が地面を叩く音が雨みたいに聞こえた。僕は途中で泣いた。みっともない泣き方だった。鼻水も出たし、嗚咽も漏れた。それでも鳩は食べ続けた。世界は僕の悲しみに少しも敬意を払わなかった。
その感じが、少しだけ救いだった。
高校を卒業して、僕は地元の印刷会社に就職した。
父は「大学は」と一応聞いたが、それだけだった。進学費用を用意する気がないことも、僕に強く期待していないことも、わかっていた。僕も別に行きたくなかった。将来の夢なんて、ハローワークの求人票よりも信じられない紙切れだった。
印刷会社の仕事は、インクで手が汚れる。紙で指が切れる。機械の音がずっとしていて、人の会話は重要なことだけになる。その環境は嫌いじゃなかった。余計なことを考えなくて済むからだ。
父は僕が働き始めて二年目の冬に倒れた。
脳梗塞だった。半身に麻痺が残った。死ななかったのは不幸中の幸いと周囲は言ったが、父は明らかに死に損なった人の顔をしていた。もともと寡黙な人が喋りづらくなると、本当に何も言わなくなる。介護というほど大げさではないが、僕は実家に残り、父の生活を手伝うようになった。
ある夜、父が珍しく口を開いた。
「おまえ、あの子どうなった」
うまく回らない舌で、途切れ途切れに。
「誰」
「屋上の」
僕は箸を止めた。
父は、知っていたのだ。僕が高校のとき、帰りが遅くなる日があったこと。機嫌の悪い日でも、たまに口元だけ緩んでいたこと。何も見ていないようで、見ていたのだ。
「死んだよ」
僕が言うと、父は少しだけ目を伏せた。
それから、思いがけないことを言った。
「おまえの母さんもな」
「……何」
「死ぬ前、言ってた。帰る場所があると、しんどい人もいる、って」
僕は息を飲んだ。
あの鳩の話の、続きを、僕は知らなかった。
「なんで今さら」
父は黙った。言葉を集めるのに時間がかかっているのか、それとも話したくないのか判別がつかなかった。
「言えなかった」
結局、それだけだった。
言えなかった。
それだけで、世の中のほとんどの取り返しのつかなさは説明がついてしまう。
僕は、その夜、久しぶりに母の夢を見た。病室ではなく、駅前の広場にいた。ベンチに座って、鳩を見ていた。タオルを巻いた頭で、静かに笑っていた。隣には神崎もいた。二人とも僕を見ない。僕だけが、二人を見ていた。夢の中でさえ、僕は遅れていた。
三十歳になる春、駅前の再開発が決まった。
古い広場は取り壊され、噴水も銅像もベンチもなくなるらしかった。ニュースで「市民に親しまれた憩いの場」と紹介されていた。親しまれていたのかどうか、僕にはわからない。ただ、人はなくなると決まったものに急に優しい名前をつける。
僕は休みの日に広場へ行った。
フェンスが立ち、立入禁止の貼り紙が出ていた。鳩はまだいた。工事の気配などまるで気にせず、いつものように首を振っていた。図太いのか、賢いのか、あるいはただ何も考えていないのか。
僕はコンビニで食パンを買った。
もう何度目かもわからない。母が死んでから、神崎が死んでから、父が倒れてから、何かあるたびに僕はここで鳩にパンをやっていた。儀式だった。祈りに似ているけど、もっと汚いものだ。祈りは誰かを信じているが、儀式はただ、自分が壊れないためにやる。
パンをちぎって撒く。鳩が集まる。首を振る。食べる。
その中に、一羽だけ、片足の指が欠けた鳩がいた。ずっと前からたまに見かけるやつだった。同じ個体なのか、似たような別のやつなのかはわからない。でも僕の中ではそいつはずっと同じ鳩だった。しぶとく生きて、格好悪く歩いて、それでも他の鳩と同じように餌を食う。
僕はその鳩を見ていた。
ふいに、どうしようもなく可笑しくなった。
母は死んで、神崎は死んで、父は半分壊れて、僕もたぶん少しずつ腐っている。なのに鳩は生きている。再開発なんて知らない顔でパンをついばみ、春の風に羽を膨らませている。
世界は残酷というより、雑だった。
雑に人を生かし、雑に人を失わせる。
僕はその雑さの中で、ここまで来てしまった。
泣きたいわけでもなかった。救われたいわけでもなかった。ただ、神崎が言っていた「死なない理由」なんて、案外こんなものかもしれないと思った。立派じゃなくていい。誰かのためじゃなくていい。駅前の広場がなくなる前に鳩にパンをやる、みたいな、そんな小さくて馬鹿みたいなことでいいのかもしれない。
そのとき、子どもの声がした。
「わ、鳩だ!」
五歳くらいの女の子が、母親の手を引いてこちらへ来た。女の子は僕を見て、地面のパン屑を見て、鳩を見て、満面の笑みを浮かべた。
「おにいちゃんがあげたの?」
おにいちゃん。
三十歳の僕に対して、ずいぶん都合のいい呼び方だった。
「うん」
「やさしいね」
僕は少し笑った。
昔なら否定したと思う。やさしいんじゃなくて、自分のためだと。でももう、訂正する必要もない気がした。人の評価なんてだいたい誤解でできている。それでも、誤解に救われる日がある。
「この鳩、きたないねえ」
女の子は片足の鳩を指差して言った。
母親が慌てて「だめでしょ」とたしなめる。僕は首を振った。
「うん。きたない」
女の子は少し考えて、それから言った。
「でも、がんばってるね」
片足の鳩は、何も知らずにパン屑を食べていた。
僕はその姿を見て、初めて、鳩を嫌いじゃないと思った。
好きというにはまだ抵抗があった。でも、嫌いではない。たぶんそれで十分だった。
父が死んだのは、その年の秋だった。
穏やかな最期だった、と医者は言った。そういう言葉はいつも便利だ。穏やかでなかった最期なんて、どれだけあるのだろう。僕は葬儀を最低限で済ませ、親戚の薄い言葉をいくつか受け流し、空になった家に戻った。
夜、居間で一人になったとき、不意に静けさが重くのしかかった。
これで本当に、帰る場所がなくなったのかもしれないと思った。
母がいなくなったときとも、神崎がいなくなったときとも違う種類の空白だった。嫌いだったはずの家が、急に巨大な穴みたいに見えた。帰る場所は呪いだと思っていた。けれど、呪いがなくなると、人は少し浮く。浮いたまま、どこにも着地できなくなる。
僕は深夜の駅前へ歩いた。
もう広場はなかった。フェンスの向こうで工事用のライトが白く光り、地面は掘り返されていた。噴水も銅像も撤去されていた。ベンチのあった位置さえわからなかった。
なのに、鳩が一羽いた。
フェンスの上に止まり、こちらを見ていた。暗くて色は見えない。ただ、首が小さく前後しているのだけがわかった。
帰る場所がなくなっても、鳩はどこかへ帰るのだろうか。
あるいは、帰る場所がなくなったからこそ、平気な顔でそこにいるのだろうか。
僕はわからないまま、その鳩を見上げた。
「なあ」
声をかけても、もちろん返事はない。
「俺、まだ生きてるんだけど」
鳩は首を振った。
肯定なのか否定なのか、ただの癖なのか、そんなことはどうでもよかった。
風が吹いて、鳩は羽を鳴らして飛んだ。夜の工事現場の上を横切り、黒い空に溶けていった。
僕はしばらくそこに立っていた。
そして、ようやく家に帰った。
帰る場所があるから帰ったのではなく、帰るしかないから帰った。
それでも十分だと思った。
人生はたぶん、その程度の理由で続いていく。
朝になれば腹が減るし、仕事にも行くし、洗濯物も溜まる。死んだ人は戻らないし、言えなかった言葉は言えないままだし、許せないこともたくさんある。でも、生きている側には雑務がある。雑務は驚くほど人をこの世につなぎとめる。
翌朝、僕は会社へ向かった。
駅のホームに立つと、電線に鳩が二羽並んでいた。片方がもう片方の羽を嘴で整えていた。愛情なのか、習性なのか、暇つぶしなのかはわからない。わからなくてもよかった。
電車が来る。
扉が開く。
僕は乗る。
それだけのことを、誰にも褒められずに続けていく。
鳩は首を振る。
世界に納得しているわけじゃなく、
たぶん、ただ揺れながら立っているだけだ。
僕も、しばらくはそれでいいと思った。