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前職は舞妓
425
きょう
171
冷たい雨が、容赦なく私の顔を打っていた。深夜、バイトからの帰り道。高架下の街灯はチカチカと明滅していて、いつもより薄暗かった。傘を差して急ぎ足で歩いていた私の背後で、泥を跳ね返すような足音が近づいてきたのは、ほんの一瞬のことだった。
「……え?」
振り返る間もなく、強い力で首根っこを掴まれ、路地裏の暗闇へと引きずり込まれた。
黒いレインコートのフードを深々と被った男。雨の音に紛れて、奴の低い嗤い声が耳元で響く。
『お前みたいなガキが夜出歩くから悪いんだ』
身勝手で、酷く醜い言葉。
恐怖で声が出なかった。身体を押さえつけられ、乱暴に服を破られる。抵抗しようと暴れても、男の力には到底敵わなかった。
(助けて……誰か……お願い、助けて……!)
叫びたかったけれど、喉の奥から漏れたのは掠れた悲鳴だけだった。
やがて、男の冷たい手が私の首元へとかけられた。ギチギチと呼吸が乱れ、視界が急速に狭まっていく。
死にたくない。
家で待っている家族の顔が、楽しかった友達との会話が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
(嫌だ……死にたくない……! なんで私なの……!?)
死の直前、私は最後の力を振り絞って、首を絞める男の腕を両手で強く押し返した。
レインコートの袖口から漂ってきたのは、鼻をつく焦げた機械油の匂い。そして、私の指先に触れたのは、男の手の甲にあった固く分厚いマメの感触だった。
意識が遠のき、世界が黒く塗りつぶされていく。
(忘れない……絶対に、許さない……!!)
――そして、私の意識は途絶えた。
◇
気がつくと、私は冷たい雨が降る高架下のぬかるみの中に立っていた。
目の前には、泥にまみれて横たわる自分の身体。
警察の赤い光が明滅し、雨音に混ざって大人の慌ただしい声が聞こえる。自分はもう死んでしまったんだと、遅すぎて痛々しい理解が胸を刺した。
悔しくて、恐ろしくて、声もないまま泣いていたその時。
「……大丈夫。ううん……大丈夫にしなきゃいけない。……この人、すごく苦しかったはずだから」
雨の中、濡れたブレザーを着た一人の女子高生が、私の遺体の前に膝をついた。
その子が、そっと私の胸元へ手を伸ばしてくる。
接触した瞬間、私の中に残っていたあの夜の恐怖と、激しい怒り、そして最後に掴み取った『記憶』が、一気にその子へと流れ込んでいくのが分かった。
『……あぁぁっ……!!』
激しい苦痛に顔を歪め、泥の上へと倒れ込む女子高生。
だけど、彼女は決して私から手を離さなかった。歯を食いしばり、涙を流しながら、私の無念を全て受け止めてくれた。
「……機械油の……焦げた匂い。それと……手の甲に、すごく固くて分厚い……ペンダコみたいなマメの感触……!」
その子が絞り出した声を聞いて、側にいたガラの悪い刑事の目つきが変わる。
『……当たり前だ。俺たちの街で好き勝手暴れ回ったツケ、地獄の底まで取り立てに行ってやる』
刑事がそう吐き捨て、雨の中へ駆け出していくのを見送りながら、私は小さく息を吐いた。
私の命はもう戻らない。
けれど、私の叫びは届いた。この子たちが、きっとあの男を追い詰めてくれる。
冷たい雨が降る夜空の下で、私は静かにその背中を見つめていた。
コメント
1件
読み終わりました……。冒頭の雨音と恐怖の描写が生々しくて、胸が締め付けられました。最後の記憶が女子高生に流れ込む場面、彼女が苦しみながらも手を離さなかったところにぐっときました。「機械油の匂い」「手の甲のマメ」という具体的な手がかりが、刑事の口調を一変させる展開も好きです。主人公の無念が確かに託されたと感じられる、熱い一話でした。